ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【第2回】非社交的社交性|「悪」から見るカント道徳哲学【カント道徳哲学】

 

 カントは「悪」と向き合い、「道徳法則」(moralisches Gesetz)とどう関連付けたのか。この問いについて考察するため、『世界市民という視点からみた普遍史の理念』(以下『普遍史』と略記)の中に登場する「非社交的社交性」(ungesellige Geselligkeit)という、カント独自の概念を検討している。

 

【前回の記事】

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 『普遍史』の中でカントは「社交的」な人間観を描きながら、一方で人間には正反対の傾向があることもカントは認めている。

 

[内容]

【第1回】非社交的社交性とは何か

【第1回】社交的な人間性

【第2回】非社交的な人間性

【第2回】まとめ

 

 

■非社交的な人間性

 『普遍史』によれば、人間は共に「社会を構築」したいという「傾向」を持つ。一方で絶えず分裂を求め、人間は社会に対し「一貫して抵抗を示す」。この「両価性」(ambivalence)をカントは「非社交的社交性」と表現する。

 

 「非社交的社交性」というこうした特性を、カントはあまり好ましく思ってはいない。一方で、こうした特性は自らの才能の開花や目的の実現に必要な要素であることもカントは認めている。以下、この点にカントが言及している箇所を引用する。

 

 非社交的な特性がなければ、人々はいつまでも牧歌的な牧羊的生活をすごしていたことだろう。そして仲間のうちで完全な強調と満足と相互の愛のうちに暮らすことはできても、すべての才能はその萌芽のままに永遠に埋没してしまっただろう。人間は自分たちが飼う羊のように善良であるだろうが、自分たちには飼っている羊たちと同じくらいの価値しかないと考えるようになっただろう。そして創造という営みが、人間のために理性を行使する大きな空白部分を残しておいてくれたというのに、理性的な本性をもつ人間が、その満たすべき目的を実現することはなかっただろう。(Kant,1784,邦頁40 )

 

 確かに、われわれは日々安寧に「牧歌的な牧羊的生活」を続けることはできるかもしれない。その生活を継続すると、われわれの才能や能力は永遠に萌芽のまま埋没する。人間には「理性を行使する」という空白部分が存在する。しかし「牧羊的生活」に浸っていては、われわれが実現すべき「目的」を果たせなくなってしまう。(※1)

 

 このカントの記述から、自らの才能の開花や目的実現のために「非社交的社交性」の「両価性」を読み取れる。

 

 この点に、人間の中に「悪の起源」をカントは見出した。それだけでなく、協調性の欠如、嫉妬心そして満たされない所有欲に支配されていることに、むしろわれわれは感謝すべきである。(※2)また、知恵を働かせ生活への苦労を抜け出すため、「非社交的社交性」の発揮をカントは積極的に肯定する。

 

 用意された自然の原動力は、非社交性と、いたるところでみられる抵抗の源泉である。ここから多くの悪が生まれる一方で、これからさまざまな力をあらたに刺激して、自然の素質がますます発展するようにしているのである。(Kant,1784,邦頁41 )

 

 「用意された自然の原動力」とは、知恵を働かせ生活への苦労を抜け出す方法を見つける原動力を意味する。これは「自己実現」や「才能の開花」への原動力とも読み取れる。

 

 様々な「悪が生まれる」ことを認めた上で、「自然の素質」すなわち自らの能力や素質を発展させるために「非社交的社交性」の発揮をカントは支持している。

 

■まとめ

 『三批判書』の中で、カントは一貫して「理性的存在者」の視点から自らの批判哲学を展開する。一方で、「人間は生来悪」であることをカントは承認する。その一端を「非社交的社交性」をキーワードに『普遍史』の中から読み取ることができただろう。

 

 人間の「悪」の部分から見直すと、カント道徳哲学の別の景色が広がってくる。「自己愛」(Selbstliebe)や「根源悪」(das radikal Böse)など、悪に関するカント独自の概念を通してカント道徳哲学を継続して考察していく。【終わり】

 

(※1)このカントの記述は『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の中に登場する「自分に対する不完全義務」とも関連性がある。

(※2)Kant,1784,邦頁40 参照。

 

【参考文献】

 

 

【第1回】非社交的社交性|「悪」から見るカント道徳哲学【カント道徳哲学】

 

 認識論にしろ道徳哲学にしろ『三批判書』の中で、カントは一貫して「理性的存在者」(vernüftiges Wessen)の視点から自らの批判哲学を展開する。

 

 一方で『単なる理性の限界内の宗教』では、人間の心情の邪悪さは「選択意志」(Willkür)の「性癖」(Hang)であるとして、カントは「人間は生来悪」(Kant,1793,32)であると明示する。

 

 すなわち、カントは人間に「悪への自由の可能性」(藤田,2004,144)を認める。

 

 いかにしてカントはわれわれの「悪」と向き合い、「道徳法則」(moralisches Gesetz)とどう関連付けたのか。

 

 この問いについて考察する際、「非社交的社交性」(ungesellige Geselligkeit)という、カント独自の概念を検討することがひとつの手がかりとなる。

 

 この概念を明らかにすることによって、「裏側から見た」(中島,2005,Ⅴ)カント道徳哲学をわれわれは垣間見ることができるだろう。今回の内容は以下の通りである。

 

[内容]

【第1回】非社交的社交性とは何か

【第1回】社交的な人間性

【第2回】非社交的な人間性

【第2回】まとめ

 

■非社交的社交性とは何か

 

 「非社交的社交性」というカント独特の用語は、『世界市民という視点からみた普遍史の理念』(以下『普遍史』と略記)に登場する。この中で、カントは以下のようにこの用語を定義する。

 

これ[非社交的社交性]は、人間が一方では社会を構築しようとする傾向をもつが、他方では絶えず社会を分裂させようと、一貫して抵抗を示すということである。(Kant,1784,邦頁40 [    ] 内は筆者)

 

 人間は共に「社会を構築」したいという「傾向」を持つ。一方で絶えず分裂を求め、人間は社会に対し「一貫して抵抗を示す」。この「両価性」(ambivalence)をカントは「非社交的社交性」と表現する。

 

■社交的な人間性

 

 カントによれば、人間には集まって社会を形成しようとする傾向が備わっている。社会を形成することによって、自分が人間であることや自分の自然な素質が発展していくことを人間は感じる。(※1)

 

 ここでいう「社会」には、国家的もしくは組織的な集団だけではなく、単純に何かを楽しむための一種のコミュニティも含まれると考えられる。

 

 カントは食卓での団らんを大切にした人物として有名である。(※2)様々な友人を自宅に招き、食事を共にしながら哲学以外の話題を楽しんだ。

 

 また『実用的見地における人間学』(以下『人間学』と略記)の中でも、食卓での団らんについての必要性を彼は語っている。(※3)

 

  このエピソードや彼の記述から、ある種のコミュニティもカントは視野に入れていることが読み取れる。すなわち、目的的にしろ無目的的にしろ、人と人との交流をカントは「社会」という言葉に込めているのだろう。

 

 このような「社会」を通して、「自分が人間であること」(Kant,1784,邦頁40)や「自分の自然な素質が発展」(ibid.)することを、カントはわれわれ人間の中に見出している。

 

 カント道徳哲学の文脈に即すと、この人間観は「自己の完全性」(eigene Vollkomenheit)を目指した「目的」(Zweck)としての「理性的存在者」と解釈できる。(※3)

 

  この「完全性」の中には、単なる能力の開発だけではなく道徳的涵養もカントは視野に入れている。

 

 『普遍史』の中でカントは、「社会を形成」する傾向を備えながら「自分が人間であること」や自らの「自然な素質」の発展を目指す「社交的」な人間観を描いている。

 

 一方で、人間には正反対の傾向があることも、カントは認めている。【続く】

 

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(※1) Kant,1784.邦頁40 参照。

(※2) Körner,1955,邦頁206 及び 高峯,1982,22ー27 参照。

(※3)Kant,1798 第88節 参照。

(※4)Kant,1797,386 参照。

 

【参考文献】

●Kann.I,1793 :Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:『単なる理性の限界内の宗教』、北岡武司訳、『カント全集10』所収、岩波書店、2000年.)

Kant.I,1797:Die Metaphysik der Sitten(邦題:『人倫の形而上学』、吉澤・尾田訳、『カント全集第11巻』所収、理想社、1975年.)

Kant.I,1798:Anthropologie in pragmatischer Hinsicht (邦題:『実用的見地における人間学』、三井善止訳、『人間学・教育学ー西洋の教育思想5ー』所収、玉川大学出版部、1986年.)

●Körner.S,1955:Kant(邦題:『カント』、野本和幸訳、みすず書房、1977年.)

高峯一愚,1985:カント講義、論創社、1982年.

●石川文康,1995:カント入門、筑摩書房、1995年.

●藤田昇吾,2004:カント哲学の特性、晃洋書房、2004年.

中島義道,2005:悪について、岩波書店、2005年.

【私訳#27】Justice:What's the right things to do ?- 『英語で読む哲学』より

 

 

 入不二基義編『英語で読む哲学』をテキストに、マイケル・サンデル”Justice:What's the right things to do ?”(邦題『これからの「正義」の話をしよう』)を訳出する。今回は最終回の第27回である。

 

【前回の記事】

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 最初に原文を記し、次に単語の意味や文法解説と私訳を提示する。そして、本書の翻訳を該当箇所から引用する。その後、私訳と本書の訳を比較した私見を述べる。

 

[内容]

■原文

■単語と文法事項の確認

■私訳

■本書の訳

■私訳と本書の訳の比較

 

■原文

For if we turn our gaze to the arguments about justice that animate contemporary politics - not among philosophers but among ordinary men and women- we find a more complicated picture. It's true that most of our arguments are about promoting prosperity and respecting individual freedom; at least on the surface. But underlying this argument, and sometimes contending with them, we can often glmpse another set of convictions- about what virtues are worthy of honor and reward, and what way of life a good society should promote. Devoted though we are to prosperity and freedom, we can't quite shake off the judgmental stand of justice. The conviction that justice involves virtue as well as choice runs deep. Thinking about justice seems inescapably to engage us in thinking about the best way to live. 

 

■単語と文法事項の確認

・gaze:注視 

・animate:活気づける 

・prosperity:繁栄 

surface:表面 

・underly:表面下にある 

・contend with A:Aと議論する 

・glmpse:チラリと見える 

・conviction:信念 

・devote:熱愛する 

・prosperity:繁栄 

・shake off:振り払う 

・judgmental:独善的に早急な判断をする 

・engage:引きつける 

 

■私訳

というのも、われわれが現代政治-哲学者の間ではなく普通の男女間での-を活気ある正義についての議論に目をやると、われわれはより複雑な図柄を発見するからである。われわれのほとんどの議論は繁栄を促進したり個人の自由を尊重したりすることに関するかもしれない。少なくとも表面上は。しかし水面下にある議論、そしてそれらと時々対立することによって、別の信念、すなわちどの美徳が名誉や報酬に値するか、そしてどんな生き方を適切な社会が促進するべきかについてわれわれは垣間見ることがよくある。われわれは繁栄や自由を熱愛するが、独善的に早急な判断をする正義の立場を振り払うことはどうしてもできない。正義は選択と同じく美徳を含むという信念は深みが広がっていく。正義について考えることは最もよい生き方について考えることの中にわれわれを不可避的に引きつけることになるだろう。 

 

■本書の訳

というのも、現代政治を動かしている正義論ー哲学者ではなく普通の男女が戦わせている正義論ーに目を向ければ、もう少し複雑な絵柄が見えてくるからだ。たしかに、われわれの正義論の大半は経済的繁栄の促進と個人の自由の尊重に関するものである。少なくとも表面上はそうだ。だが、これらの議論の根底に、しばしばそれと対立する形で、別種の信念ーどんな美徳が名誉や報奨に値するか、良い社会ではどんな生き方が推奨されるべきかに関わる信念ーが垣間見えることも多い。経済的繁栄と自由を愛するいっぽうで、われわれは分別に関わる正義の要素をすっかり振り落としてしまうことができない。正義には選択だけでなく美徳も含まれるという信念は深く根を下したものだ。正義について考えようとすると、われわれは否が応でも最善の生き方について考えざるをえないようだ。(p.30)

 

■私訳と本書の訳の比較

前段落で、サンデルは次の2つの立場について検討している。

 

古代ギリシアアリストテレス的立場

②近現代のカントやロールズ的立場

 

 ②の立場に立つと、現代の「正義論」(the arguments about justice)は「経済的繁栄の促進と個人の自由の尊重」(promoting prosperity and respecting individual freedom)に関わるものが大半である。

 

 一方、サンデルはそれだけではないと論じる。すなわち、①の立場も「正義論」の中に深く根ざしているのである。「正義」について考えると、「最善の生き方」(the best way to live)について考えざるを得ない。【終わり】

 

【参考文献】

 

 

 

【私訳#26】Justice:What's the right things to do ?- 『英語で読む哲学』より

 

 

 入不二基義編『英語で読む哲学』をテキストに、マイケル・サンデル”Justice:What's the right things to do ?”(邦題『これからの「正義」の話をしよう』)を訳出する。今回は第26回である。

 

【前回の記事】

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 最初に原文を記し、次に単語の意味や文法解説と私訳を提示する。そして、本書の翻訳を該当箇所から引用する。その後、私訳と本書の訳を比較した私見を述べる。

 

[内容]

■原文

■単語と文法事項の確認

■私訳

■本書の訳

■私訳と本書の訳の比較

 

■原文

So you might say that ancient theories of justice start with virtue, while modern theories start with freedom. And in the chapters to come, we explore the strengths and weaknesses of each. But it's worth noticing at the outset that this contrast can mislead. 

 

■私訳

現代の理論は自由から出発する一方で、古代の正義理論は美徳から出発すると言えるかもしれない。後の章で述べるが、それぞれの長所と短所をわれわれは探究する。しかしまず始めにこの対比は誤解を招き得ることは注目に値する。 

 

■本書の訳

すると、正義に関する古代の理論は美徳から出発し、近現代の理論は自由から出発するのだな、と思われるかもしれない。この先の章でそれぞれの見方の強みと弱みを探っていく。だがこの対比が人を惑わすかもしれないことは、最初に押さえておいたほうがいい 。(p.29)

 

■私訳と本書の訳の比較

 数行の短い段落である。私訳と本書の訳では、違いが3つある。1つは"modern"、2つ目は”notice"そして3つ目は"it's worth ~ing”の訳し方である。

 

 始めに、"modern"である。この単語は、辞書的には①現代②近代両方の意味がある。私訳では①の意味をあてたが、本書の訳では「近現代」として①②両方の意味をあてている。前段落の文脈から、「近現代」と訳した方が適当だろう。

 

 次に、”notice"である。本来は「気づく」や「分かる」という意味である。辞書に忠実に訳すと、日本語としてなかなか上手くつながらない。私訳では、「注目する」と訳した。一方、本書の訳は「押さえる」である。この違いは、なかなか興味深い。

 

 最後に、"it's worth ~ing”である。"it"は、以降のthat節を指す。 すなわち、"that this contrast can mislead"である。ちなみに、 ”this contrast”とは古代と近現代の「正義理論」(theories of justice)を指す。文法的に、"it's worth ~ing”は「○○に値する」と訳すべきである。私訳はそこを忠実に守った。一方、本書では「○○しておいたほうがいい」と訳している。

 

 文法に則り辞書などを参考にしながら、訳すことも大切かもしれない。そこを越えて、前後の脈絡を考えながら筆者の意図を汲み取るような訳も必要であることが分かった。【続く】

 

【次の記事】

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【参考文献】

 

 

【私訳#25】Justice:What's the right things to do ?- 『英語で読む哲学』より

 

 

 入不二基義編『英語で読む哲学』をテキストに、マイケル・サンデル”Justice:What's the right things to do ?”(邦題『これからの「正義」の話をしよう』)を訳出する。今回は第25回である。

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 最初に原文を記し、次に単語の意味や文法解説と私訳を提示する。そして、本書の翻訳を該当箇所から引用する。その後、私訳と本書の訳を比較した私見を述べる。

 

[内容]

■原文

■単語と文法事項の確認

■私訳

■本書の訳

■私訳と本書の訳の比較

 

■原文

By contrast, modern political philosophers -from Emmanuel Kant in the eighteeth century to John Rawles in the twenieth century- argue that the principle of justice that define our rights should not rest on any particular conception of virtue, or of the best way to live. Instead, a just society respects each person's freedom to choose his or her own conception of the good life. 

 

■単語と文法事項の確認

・rest on:頼る・当てにする 

 

■私訳

対照的に、現代の政治哲学者-18世紀のイマヌエル・カントから20世紀のジョン・ロールズまで-われわれの正義を定義づける正義の原理は、美徳もしくは最もよい生き方のどの考えにも依存すべきではないと主張する。代わりに適切な社会は彼/彼女自身のよい生き方の考えを選択するためにそれぞれ個人の自由を尊重する。 

 

■本書の訳

対照的に、近現代の政治哲学者はー18世紀のイマヌエル・カントから20世紀のジョン・ロールズにいたるまでーわれわれの権利を定義する正義の諸原理は、美徳つまり最善の生き方に関する特定の考え方に依拠するべきではないと論じる。(彼らによれば)正しい社会とは、むしろ、良き生き方に関する考え方を各人が選び取る自由を尊重するものなのだ。 (p.29)

 

■私訳と本書の訳の比較

 アリストレスとは「対照的に」(by contrast)、カントからロールズにいたるまでの「近現代の政治哲学者」(modern political philosophers)の考えによれば、「正義の諸原理」(the principle of justice)は「美徳」(virtue)に関する「特定の考え方」(any particular conception)に「依拠」(rest on)してはならない。

 

 「正しい社会」(a just society)は、「良き生き方に関する考え方」(his or her own conception of the good life)を選択する自由を尊重する。【続く】

 

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【参考文献】

 

 

【私訳#24】Justice:What's the right things to do ?- 『英語で読む哲学』より

 

 

 

はじめに

 入不二基義編『英語で読む哲学』をテキストに、マイケル・サンデル”Justice:What's the right things to do ?”(邦題『これからの「正義」の話をしよう』)を訳出する。今回は第24回である。

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 最初に原文を記し、次に単語の意味や文法解説と私訳を提示する。そして、本書の翻訳を該当箇所から引用する。その後、私訳と本書の訳を比較した私見を述べる。

 

[内容]

■原文

■単語と文法事項の確認

■私訳

■本書の訳

■私訳と本書の訳の比較

 

■原文

According to the textbook account, this question divides ancient and modern political thought. In one important respect, the textbook is right. Aristotle teaches that justice means giving people what they deserve. And in order to determine who deserves what, we have to determine what virtues are worthy of honor and reward. Aristotle maintains that we can't figure out what a just constitution is without first reflecting on the most desirable way of life. For him,law can't be neutral on the questions of the good life.

 

■単語と文法事項の確認

・account:話、報告書 

・deserve:○○する価値がある 

・determine:決定する 

・worthy of A:Aにふさわしい 

・honor:名誉 

・figure out:理解する 

・constitution:構成・組織 

・reflect:熟考する 

・desirable:望ましい 

 

■私訳

教科書的説明によると、この問いは古代と現代の政治思想に区別される。ひとつの重要な点として、教科書は正しい。アリストテレスは、正義とは価値あるものを人々に与えることを意味する、と教えている。誰に何が価値があるかを決定するために、何の徳が名誉で報酬があるかをわれわれは決定しなければならない。アリストテレスは、適切な制度とは何かということは最も望ましい生き方についてまず始めに熟考することなしには理解できないと主張する。彼にとって、よい生き方の問題に関して法は中立ではあり得ない。 

 

■本書の訳

教科書的な説明では、この問い[にどう答えるか]によって古代と近現代の政治思想が分かれることになる。1つの重要な点で、教科書は正しい。アリストテレスは、正義とは人々にふさわしいものを与えることだと教えている。さて、誰に何がふさわしいかを決めるには、どんな美徳が栄誉や報奨に値するかを決めなければならない。アリストテレスは、どういう政治制度が正しいのかを理解するためには、まず、最も望ましい生き方とは何かを考えてみなければならないと主張する。アリストテレスにとって、法律は、良い人生とは何かという問題に対して中立ではありえないのだ。(p.28)

 

■私訳と本書の訳の比較

 冒頭に登場する「この問い」とは、美徳への態度の取り方の問題である。まずアリストテレスの考えを、サンデルは検討する。

 

 アリストテレスによれば、政治制度の正しさを理解する前に「最も望ましい生き方」(the most desirable way of life)について考えなければならない。「良い人生とは何か」(the questions of the good life)という問題に、法律は中立ではあり得ない。【続く】

 

 

【参考文献】

 

 

【私訳#23】Justice:What's the right things to do ?- 『英語で読む哲学』より

 

 

 

はじめに

 入不二基義編『英語で読む哲学』をテキストに、マイケル・サンデル”Justice:What's the right things to do ?”(邦題『これからの「正義」の話をしよう』)を訳出する。今回は第23回である。

 

【前回の記事】

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 最初に原文を記し、次に単語の意味や文法解説と私訳を提示する。そして、本書の翻訳を該当箇所から引用する。その後、私訳と本書の訳を比較した私見を述べる。

 

[内容]

■原文

■私訳

■本書の訳

■私訳と本書の訳の比較

 

■原文

This dilemma points to one of the great questions of political philosophy: Does a just society seek to promote the virtue of its citizens? Or should law be neutral toward competing conceptions of virtue, so that citizens can be free to choose for themselves the best way to live?

 

■私訳

このジレンマは政治哲学の大きな問いのひとつを指し示す。すなわち、公平な社会は市民の徳を促進しようとするのか。あるいは法は競合する徳の概念に中立的であるべきなのか。それで、市民は自分たちで最善の生き方を自由に選択できるようにすべきなのか。 

 

■本書の訳

このジレンマに政治哲学の重要問題の1つが現れている。正しい社会とは市民の美徳を養おうとするものだろうか。それとも、法は、美徳に関する競合する考え方については中立を守り、何が最善の生き方なのかは市民が自分で選択できるようにするべきなのだろうか。 (p.27)

 

■私訳と本書の訳の比較

 この段落で、サンデルは2つの問題を提起する。

 

①正しい社会は市民の美徳を養おうとするものなのか

②美徳に関する考え方について、社会は中立を守るべきなのか

 

 本書の解説によれば、アリストテレスらの古代哲学者は①の立場を採る。一方、カントやロールズらの近現代の哲学者らは②の立場を採る。

 

 しかしサンデルの考えでは、どちらの立場に立てるほど問題は単純ではない。引き続き次の段落を読み進める。【続く】

 

 

【次の記事】

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【参考文献】

 

 

 

【私訳#22】Justice:What's the right things to do ?- 『英語で読む哲学』より

 

 

 

はじめに

 入不二基義編『英語で読む哲学』をテキストに、マイケル・サンデル”Justice:What's the right things to do ?”(邦題『これからの「正義」の話をしよう』)を訳出する。今回は第22回である。

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 最初に原文を記し、次に単語の意味や文法解説と私訳を提示する。そして、本書の翻訳を該当箇所から引用する。その後、私訳と本書の訳を比較した私見を述べる。

 

[内容]

■原文

■単語と文法事項の確認

■私訳

■本書の訳

■私訳と本書の訳の比較

 

■原文

 So when we probe our reactions to price gouging, we find ourselves pulled in two directions; we are outraged when people get things they don't deserve; greed that preys on human misery, we think, should be punished,not rewarded. And yet we worry when judgments about virtue find their way into law. 

 

■単語と文法事項の確認

・probe:探る 

・pulle:引っ張る 

・outraged:憤慨させる 

・deserve:価値がある 

・preys:傷つける 

 

■私訳

それでわれわれが法外値上げへの反応を探るとき、われわれは2つの方向性に引っ張られる。すなわち価値がないものを手に入れるとき、われわれは憤慨する。われわれが考えるように、人の不幸を食い物にする強欲は罰せられるべきで、報酬を与えるべきではない。そして美徳についての判断が法の中にその方法を見つけるとき、われわれは心配にもなる。 

 

■本書の訳

便乗値上げに対するわれわれの反応を探ってみると、自分が2つの方向に引っ張られていることがわかる。その人にふさわしくないものを手に入れている人がいれば、われわれは憤りを感じる。他人の窮状を食い物にする強欲は罰せられるべきで、報奨を与えられるべきではない、とわれわれは考える。それでもやはり、美徳に関する判断が法律に入り込むと、われわれは心配にもなるのだ。 (p.26)

 

■私訳と本書の訳の比較

 ここでいう「2つの方向に引っ張られ」(pulled in two directions)るとは、道徳と法の葛藤であると考えられる。

 

 「憤りを感じ」(outraged)たり、「強欲は罰せられるべき」(should be punished)であると考えることは、道徳的感情や判断から生じるものである。一方で、「美徳に関する判断」(judgments about virtue)に法律が入り込むと、われわれは心配にもなる。

 

 この点に、道徳と法の葛藤をサンデルは見出している。【続く】

 

【参考文献】

 

 

【私訳#21】Justice:What's the right things to do ?- 『英語で読む哲学』より

 

 

はじめに

 入不二基義編『英語で読む哲学』をテキストに、マイケル・サンデル”Justice:What's the right things to do ?”(邦題『これからの「正義」の話をしよう』)を訳出する。今回は第21回である。

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 最初に原文を記し、次に単語の意味や文法解説と私訳を提示する。そして、本書の翻訳を該当箇所から引用する。その後、私訳と本書の訳を比較した私見を述べる。

 

[内容]

■原文

■単語と文法事項の確認

■私訳

■本書の訳

■私訳と本書の訳の比較

 

■原文

The virtue argument, by contrast, rests on a judgment that greed is a vice that the state should discourage. But who is to judge what is virtue and what is vice? Don't citizens of pluralist societies disagree about such things? And isn't it dangerous to impose judgments about virtue through law? In the face of these worries, many people hold that government should be neutral on matters of virtue and vice; it should not try to cultivate good attitude or discourage but ones. 

 

■単語と文法事項の確認

・by contrast:対照的に 

・rest on A:Aに依存する 

・greed:強欲 

・discourage:妨げる 

・impose:課す 

・cultivate:育成する 

 

■私訳

対照的に、美徳論は、強欲は州が妨げるべき悪徳であるという判断に依存する。しかし何が美徳かそして何が悪徳かを誰が判断すべきか。多元的社会の市民がそのようなことについて支持しないのか。そして美徳についての判断を法を通して課すのは危険ではないだろうか。そのような心配に直面して、政府は美徳と悪徳の問題について中立的でなければならないと多くの人々は考える。すなわち、よい態度やそうでないことを妨ようとすべきではない、ということである。

 

■本書の訳

これに対し、美徳論は、強欲は州が押さえ込むべき悪徳だという判断に基づいている。だが、なにが美徳で何が悪徳顔誰が判断すべきなのだろうか。多元的な社会の市民の意見は、そうしたことについては一致しないのではないだろうか。それに、美徳に関する判断を法律によって押し付けるのは危険ではないだろうか。こういう懸念があるため、美徳と悪徳の問題について政府は中立であるべきだと多くの人々は考える。政府というものは、良い心構えをはぐくもうとか、悪い心構えを改めさせようなどと企てるべきではない、というわけだ。 (p.26)

 

■私訳と本書の訳の比較

 「美徳論」(the virtue argument)に立てば、「強欲は州が押さえ込むべき悪徳」(greed is a vice that the state should discourage)であると判断され得る。一方、「多元的な社会の市民」(citizens of pluralist societies)の中では、このような意見は支持できない。

 

 本書は、この問題を美徳論の「ジレンマ」と呼ぶ。このジレンマに政治哲学の重要問題が現れている、とサンデルは指摘する。【続く】

 

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【参考文献】

 

 

 

【私訳#20】Justice:What's the right things to do ?- 『英語で読む哲学』より

 

 

はじめに

 入不二基義編『英語で読む哲学』をテキストに、マイケル・サンデル”Justice:What's the right things to do ?”(邦題『これからの「正義」の話をしよう』)を訳出する。今回は第20回である。

 

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 最初に原文を記し、次に単語の意味や文法解説と私訳を提示する。そして、本書の翻訳を該当箇所から引用する。その後、私訳と本書の訳を比較した私見を述べる。

 

[内容]

■原文

■単語と文法事項の確認

■私訳

■本書の訳

■私訳と本書の訳の比較

 

■原文

Some people, including many who support price-gouging lows, finds the virtue argument discomfiting. The reason:It seems more judgmental than arguments that appeal to welfare and freedom. To ask whether a policy will speed economic recovery or spure economic growth does not involve judging people's preference.It assumes that everyone prefers more income rather than less, and it doesn't pass judgment on how they spend their money. Similarly, to ask whether, under conditions of duress, people are actually free to choose doesn't require evaluating there choices. The question is whether,or to what extent, people are free rather than coerced. 

 

■単語と文法事項の確認

・discomfit:当惑する 

・judgmental:独善的に早急に判断する 

・policy:政策 

・speed:加速する 

・spure:駆り立てる 

・preference:選好 

・pass:下す 

・duress:脅迫 

・evaluate:評価する 

・coerce:強要する 

 

■私訳

法外値上げ法を支持する人も含め、美徳論に当惑する人も見つける。理由として、幸福や自由に訴える議論よりも早急に判断するように思われるからである。ある政策が経済復興を加速させたり経済成長を駆り立てるかどうかを問うことは、人々の選好判断を含まない。誰もが少ない収入よりも多い収入を選好すると仮定するし、お金をどう使うかについての判断も下さない。同様に、強要された状況下で、人々が実際自由に選択できるかどうかを問うことは、その選択を評価することを必要としない。問題は、人々が強要されるよりも自由であるかどうか、もしくはどの程度自由であるかである。 

 

■本書の訳

美徳論にとまどう人もいる。便乗値上げ禁止法支持者にもそういう人は多い。美徳論は、幸福と自由に訴える議論よりも、分別を押しつけるところがあると思われるからだ。ある政策によって経済復興が早まるか、経済成長が促されるかを問うとき、人々の選好に関する判断は含まれない。そこでは、誰もが少ない収入よりも多い収入を選好すると仮定されており、人々のお金の使いかた[の是非]に関して判断を下されない。これと同時に、追い詰められた人々が本当に自由に選択できるかどうかを問うとき、彼らの選択[の是非]を評価する必要はない。問題は、人々が強いられず自由であるかどうか、あるいはどの程度自由なのかである。 (p.25)

 

■私訳と本書の訳の比較

「美徳論」(the virtue argument )には、「分別を押しつける」(judgmental)ところがある。「便乗値上げ禁止法支持者」(who support price-gouging lows)の中にも、「美徳論」を支持しない人もいる。

 

 自然災害などの緊急事態の中で「追い詰められた人々」の自由の是非を、われわれは「評価」(evaluate)できない。ここでのポイントは、人々が強制されず「自由」(free)であるかどうか、または「どの程度」( what extent)「自由」なのかである。【続く】

 

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【参考文献】