ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【第3回】動物倫理入門| 「人間例外主義」では言語を使用しない人間が配慮の対象にならない【動物倫理学】

動物倫理入門

動物倫理入門

 

 

[内容]

 ■【第1回】本書は「人間例外主義」批判に基づく入門書

■【第2回】「人間例外主義」とは人間は動物に対して倫理的責任がないという立場

■【第3回】「人間例外主義」では言語を使用しない人間が配慮の対象にならない

■【第3回】まとめ

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

■「人間例外主義」では言語を使用しない人間が配慮の対象にならない

 

 「人間例外主義」を支持する理由の中に、言語を使用する能力が挙げられる。われわれ人間は、他の動物と違い言語を使用できるとされる。一方、他の動物は言語を使用する能力が限定的である。だから、われわれ人間は他の動物への倫理的配慮に責任を持たなくてもよい、という主張が成立するのだろう。

 

 しかし、著者の立場に即して考えると、この理由が「人間例外主義」という考え自体に矛盾を生じさせることになる。なぜなら、人間すべてに言語を使用する能力があるわけではないからである。

 

 言語の使用を理由に、「人間例外主義」の立場を採用するのであれば、言語能力に障害がある人や事件や事故などで言語によって意思疎通ができない人も、道徳的配慮の対照から除外されることになる。

 

  そもそも言語の使用は、なぜ重要な能力なのか。言語は倫理規範や期待を作り出したり、伝達するのに役立つ。また言語は倫理規範を教えたり、違反を正す手段にもなり得る。言語使用の重要性について考えると、確かに言語の使用は人間だけが道徳的配慮に値することを示す能力なのかもしれない。しかし、人間すべてに言語の使用能力があるわけではない。

 

 筆者も主張するように、もしも道徳的に配慮すべき存在という分類の境界が単に言語使用者やその周辺だけに引かれるのであれば、言語を使用しない人間も道徳的配慮の対象から外れることになる。

 

 言語を使用しない人間が道徳的配慮の対象から除外されるという考え方は、彼らが搾取されたり殺されたりすることを容認することにつながるかもしれない。筆者が主張するのは、言語を使用できない障害者だけでなく、意思疎通ができない人々に対しても倫理的責任があるということである。つまり、言語を使用できない人々を含む、すべての人々に対して、道徳的配慮が必要であるということである。

 

 例えば、何かの事件や事故などで助けが必要な人が意識を失っていたり発達した言語能力を持っていなかったりするために、コミュニケーションが行われない場合がある。

 

 それでも救助することが正しく英雄的なのは、事件や事故に巻き込まれた人物が言語を使用できるからではない。何か別の理由があるはずである。

 

 このように考えると、われわれは道徳的配慮の必要条件として言語使用を考えることはできなくなる。

 

 以上、筆者に即して考えると、言語使用が必ずしも道徳的配慮の基準ではなくなる。

 

 われわれ人間の中にも、言語能力が始めから欠如していたり何らかの理由で言語を使用できなくなる状況が考えられる。

 

 事件や事故などに巻き込まれ、何らかの理由で言語が使用できなくなったからといって、必ずしも道徳的に配慮しなくてもよいということにならない。このようなことは、人間以外の動物にも同じようなことが言える。

 

■まとめ

 言語の使用以外にも、道具を使用する能力や協力行動など人間と他の動物を分ける理由は数多くあるだろう。ただし、これらは人間すべてが持つ能力ではない。

 

 能力差はあるにせよ、他の動物も人間と同じような能力を持つ場合がある。一方、人間もすべてがまったく同じように言語能力を持っているわけではない。

 

 筆者も主張するように、「人間例外主義」の目的が人間だけを道徳的に配慮すべきだという理解に基づいた場合、障害者や言語による意思疎通ができない人、事件や事故で意識を失った人など、われわれ人間の中で弱い人々を見落としてしまうことになる。

 

 われわれ人間も、他の動物と同様に優れた能力を持っている。一方で、他の動物も人間と同様に素晴らしい能力を持っている。そのため、他の動物を人間ではないという理由だけで道徳的配慮の対象から除外することは、偏見以外の何ものでもない。

 

 以上、『動物倫理入門』での筆者の立場に基づくと、人間が特別な存在であるという「人間例外主義」は、他の動物と比較して人間が持っている特定の能力に基づいて道徳的配慮をすることを正当化するものであり、この考え方は擁護できないと結論づけられる。【終わり】

 

 

【第2回】動物倫理入門 |「人間例外主義」とは人間は動物に対して倫理的責任がないという立場【動物倫理学】

 
動物倫理入門

動物倫理入門

 

 

[内容]

 ■【第1回】本書は「人間例外主義」批判に基づく入門書

■【第2回】「人間例外主義」とは人間は動物に対して倫理的責任がないという立場

■【第3回】「人間例外主義」では言語を使用しない人間が配慮の対象にならない

■【第3回】まとめ

 

 【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

■「人間例外主義」とは人間は動物に対して倫理的責任がないという立場

 

 「人間例外主義」とは、人間は動物に対して倫理的責任がないという立場である。著者は明確には示していないが、本書全体を通してこのように考えていることが示唆される。以下に根拠となる箇所を引用する。

 

 私が人間例外主義(human exceptionalism)と呼ぶ見解は、私たちが心理的にも知的にも自身の動物性から、そしてその延長線上にある動物から距離を置くことなどから生じる。人間は動物と異なるし、人間は自身の動物性を超越していると言う者さえいる。私たちは人間を世界の創造者、意味の担い手と見るが、動物はそうではないと考える。私たちは人間にしかできない活動、私たちを動物の上位に置く活動を営む。人間は独特の優越的な地位を占めるのだから、人間だけが倫理的配慮の適切な対象であると考える者もいる。(邦頁,2)

 

 「人間例外主義」は、心理的にも知的にも自身の動物性から距離を置くことから生じる。上記の引用箇所のポイントは、次の3つである。

 

・人間は他の動物と異なり、自らの動物性を超越している。
・人間にしかできない活動は、他の動物の活動より上位にある。
・独特な優越的地位を占めるので、人間だけが倫理的配慮の適切な対象になる。

 

  「人間例外主義」という考えが、人間と人間以外の動物の間で道徳的な分断を起こすと、著者の立場から述べている。著者は、人間と人間以外の動物との身体的構造の違いだけでなく、知的能力や能力の面でもそれほど大きな違いはないと主張している。

 

 「他の動物とは違う」というわれわれ人間の単なる思い込みが、「人間例外主義」を生み、人間は動物に対して倫理的責任がない、と考えているだけに過ぎない。

 

 また著者によれば、「人間例外主義」の本当の問題は、人間を動物の上に位置づける規範的主張である。「規範的」という言葉は、社会が何を「正常」と見なすかを示す。人間を動物より重視することは、社会的に期待されている。これが、一般的な意味での「規範的」である。

 

 では、なぜある能力を持つことが、その能力を持っていない人より優れていると、より倫理的な配慮に値するものになるのか。哲学的視点から、著者はこのような疑問を抱く。

 

 「人間が○○という能力を持つ一方、人間以外の動物がそれを持たない」という事実があるからといって、人間が動物に対して倫理的責任を負わなくてもよいというのは誤りである。ある能力を持つことと、倫理的配慮や責任の対象になり得るかという問題は別である。このように、著者は哲学的視点から疑問を呈している。

 

 著者もこの意味で「規範的」というのは、人間を特別な存在にする何らかの能力にわれわれが倫理的な重要性を与えることを指摘する。

 

「われわれ人間と同じ能力がないから、人間以外の動物には倫理的責任はない」という主張は、まったく何の根拠もない人間による「人間以外の動物に対する優位性」という思い込みから生じている。この思い込みこそが、「人間例外主義」の本質であると著者は指摘する。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 

【第1回】動物倫理入門| 「人間例外主義」批判に基づく入門書【動物倫理学】

 

 本書を手にしたきっかけは、「動物倫理学」を体系的に学び直したいという動機からであった。

 

功利主義」や「権利論」など、動物倫理の基礎理論が本書で簡潔に整理されていた。また、「肉食の倫理」や「動物実験の是非」などの個別的問題についても、考察できる章立てがなされている。翻訳も読みやすく、これまで読んできた入門書の中でも理解しやすい部類に入る。

 

 ただし、一般的な入門書と異なる点は、本書が「人間例外主義」(human exceptionalism)を批判するという立場に基づいていることである。

 

 本書前半部分では、動物の中で「人間は本当に例外なのか」という疑問や、「人間はどれほど特別なのか」という問いを読者に投げかけ、様々な動物実験や観察などを根拠に、われわれの「思い込み」を解いていく。

 

 今回は、ローリー・グルーエン著『動物倫理入門』を中心に、「人間例外主義」について3回に分けて検討する。本稿の内容は、以下の通りである。

 

 [内容]

【第1回】本書は「人間例外主義」批判に基づく入門書

■【第2回】「人間例外主義」とは人間は動物に対して倫理的責任がないという立場

■【第3回】「人間例外主義」では言語を使用しない人間が配慮の対象にならない

■【第3回】まとめ

 

 ■本書は「人間例外主義」批判に基づく入門書

 

  本題に入る前に、本書の基本姿勢から確認する。本書の「はじめに」の部分で、「動物は道徳的配慮に値し、彼らの生命は大切」であるということが、本書の基本姿勢であると記述されている。

 

 ただし、グルーンは特定の立場をとってそれを深く追求することはせず、むしろ倫理的問題が競合状態にあることや、人間と動物の関わり、そして動物に対する義務の倫理的複雑さに焦点をあてている。これが当初の目的であったと思われる。われわれ人間とわれわれ人間以外の動物との倫理的葛藤などを、本書で描きたかったのではないかと想像できる。

 

 また本書は「動物倫理学」の教科書として、大学などでの使用を想定した表現も、別の箇所で見られる。様々な観点から「動物倫理学」について考察できる教科書的な位置づけとして、本書を意図した可能性がある。

 

 しかし、本書の内容はあくまで彼女の「人間例外主義」批判という立場から見た「動物倫理学」の入門書である。本書の後半部分で著者自身が次のように述べている。

 

 本書は、人間は特別であり、動物より優れているという深く根付いた考えについて探求することから始まった。私は、人間例外主義は、偏見に満ちたものであり、支持できないと論じた。(邦頁 ,221)

 

 様々な側面から「動物倫理学」について考察できるような教科書的な入門書を当初、著者は計画していたが、結果的に自らの立場を展開してしまったように思える。

 

 だからといって、本書での彼女の矛盾を指摘し批判するつもりは毛頭ない。とにかく主張したいことは、本書は一般的な「動物倫理学」の入門書ではなく、「人間例外主義」批判という立場から見た入門書である、ということである。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考文献】

Ethics and Animals: An Introduction (Cambridge Applied Ethics)

 

【寄付と紹介】NPO法人 ねこと人と地域のいのちをつなぐ会

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 私の所属する団体が、「NPO法人ねこと人と地域のいのちをつなぐ会」として、2020年05月18日に設立認証を受けた。

 

参考:内閣府

www.npo-homepage.go.jp

 今後「認定NPO法人」として更に活動できるように、今回は寄付のお願いと本団体の紹介を行う。

 

参考:内閣府

www.npo-homepage.go.jp

 

■寄付のお願い

 寄付は次の3つの銀行で受け付けます。
                                         (1口3,000円より)

 

[口座名義] 
         
NPO法人ねこと人と地域のいのちをつなぐ会

 
沖縄海邦銀行

[支店名]読谷支店    [支店番号]053

[預金種目]普通     [口座番号]0737671

 
住信SBIネット銀行

[支店名]法人第一支店   [支店番号]106

[預金種目]普通      [口座番号]1466624

 

③ゆうちょ銀行

[支店名]七〇八      [普通]1951591

[記号]17050        [番号]19515911

 

 

■本団体の紹介

 本団体の目的は、「沖縄県内の飼い主のいない猫等に対し、地域猫としての見守りや保護及び里親探しに関する事業を行い、動物福祉の向上及びさっ処分廃止の実現に寄与すること」(「NPO法人ポータルサイト」より)である。

 

 この目的を掲げ、長年、地域で活動してきた。その後、組織的・長期的な活動を目指してNPO法人設立を進めてきた。

 

 では、本団体の紹介をパンフレットを中心に進めていく。

 

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 以上、多くの賛同とご協力をよろしくお願いします。【終わり】

 

 

【カント道徳哲学】カント「趣味判断」2つの観点|反省的判断力と普遍的賛同の要求

 

 好きな食べ物や自分が気に入っている色など、われわれはそれぞれ趣味や嗜好を持つ。それは最初から他人には分からない、あるいは分かってもらえなくてもよいと思う人もいる。

 

 しかし、花や絵画など「美しい」ものに出会ったとき、その喜びは自分だけではなく他の人とでも分かち合えるはずであるという、何か確信めいたものが心の中で起こる。

 

 民族や時代なども含め境遇の違いによって、「美しい」とされるものに多くの違いはある。それでも、「美しい」ものと向き合うならば、この喜びはどんな人にも分かるはずである、あるいは分かって欲しいと思わずにはいられない。このような判断を、カントは「趣味判断」(Geschmacksurteil)と呼んだ。

 

 今回は『判断力批判』での「趣味判断」の2つの観点について検討する。

 

■「趣味判断」は「反省的判断力」である

 

 「反省的判断力」(reflekterende Urteilskraft)は、個別的なものから普遍的なものを見出す。この考えを使ってカントが『判断力批判』で行ったことは、個別的判断から普遍的賛同が引き出せると主張したことである。

 

 『判断力批判』によれば、「判断力」は2種類に分類される。それは、「規定的判断力」(bestimmende Urteilskraft)と「反省的判断力」である。規則や原理のような普遍的なものが与えられているならば、「規定的判断力」は個別的なものを普遍的なものの下に包摂する「判断力」(Urteilskraft)である。

 

 「定言命法」(kategorischer Imperativ)がその一例だろう。「定言命法」は、「汝の格率が普遍的法則となることを、その格率を通して、汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従ってのみ行為せよ」(Ⅳ,421)という「道徳法則」(moralisches Gesetz) である。

 

 われわれが道徳的判断を下すとき、自らの「格率」(Maxime)が「定言命法」の中に含まれるかどうかが問題になる。自らの「格率」が「定言命法」に含まれるならば、その「格率」は普遍的であると判断される。このように考えると、「規定的判断力」は演繹的である。

 

 一方、「反省的判断力」は単に個別的なものだけが与えられていて、その個別的なものから普遍的なものを見出す。野に咲く花を見たとき、われわれはその花の中に「美しさ」を見出す。また、被災地でボランティアとして活動する若者のニュースを聞いたとき、われわれは彼らの中に「勇敢さ」を見出す。

 

 日常的出来事から「反省的判断力」を考えてみても、「反省的判断力」はあるひとつの事例から普遍的なものを見出す「判断力」である。このように考えると、「反省的判断力」は帰納的である。 ただし、「反省的判断力」は決して経験に基づかない。

 

 カントによれば、個別的なものから普遍的なものへと上昇する責務を持つ。「反省的判断力」には、ある原理が必要である。この原理は、経験的原理すべてが同じ様に経験的であるが、より高次の原理の下で統一されることを基礎づけるべきである、とカントは主張する。

 

 これら経験的原理が、互いに体系的に従う関係の可能性を基礎づけるべきである。

 

 カントの主張から考えると、「反省的判断力」は経験的ではないそれより高次の原理に基づく。ということは、「反省的判断力」は経験に左右されないア・プリオリな原理である。

 

■「趣味判断」は普遍的賛同を要求する

 

 「趣味判断」は、個別的なものから普遍性を判断する。一般的に考えると、個別的であることと普遍的であることは互いに相容れない。しかしカントによれば、「趣味判断」は個人的判断であるが、何に対しても「関心」(Interesse)を示さない。

 

 「美しい」ものを判定する時、それは快・不快の感情と結び付く。この満足の感情を、カントは「適意」と呼ぶ。「適意」を引き起こすのは、「美しい」ものを判定するときに限られたことではない。

 

 カントは「趣味判断」での「適意」を明確にするため、「快適なもの」と「善いもの」についての「適意」を区別する。

 

 「快適なもの」は、われわれの感覚に満足を与える。例えば、「このワインは美味い」と言うとき、それはワインという「快適なもの」についてのわれわれの感覚的判断である。この判断を、カントは純粋な「趣味判断」と区別する。

 

 「快適なもの」についての判断は、直接われわれの感覚の快を根拠にする。「快適なもの」によって、個人はその欲望を引き起こされその現存と結び付く「適意」を抱く。

 

 一方、「善いものの適意」について考えるときカントは「善い」と評価する場合を2通り考える。それは、あるものが「何かのために善い」つまり有用である場合と、あるものが「それ自体で善い」場合である。あるものが「何かのために善い」とは、何らかの目的のための手段として善いということである。あるものが「何かのために善い」場合、ある目的に適合する点で「適意」を感じる。

 

 あるものが「それ自体で善い」とは目的とは無関係に「それ自体として善い」。例えば、それはカントの言う「善意志」である。カントの立場で考えると「それ自体として善い」場合、自分の「格率」が道徳法則に適合している点で「適意」を感じる。

 

 いずれの場合でも、ある対象や行為の現存についての「適意」つまり「関心」が含まれる。「善いものについての適意」は純粋な「趣味判断」の「適意」と区別される。もちろん、「快適なもの」と「善いものの」の中に違いはある。

 

 両者は、いつも対象について「関心」と結び付く。この点で、両者は一致する。

 

 「趣味判断」を下す時、問題は自分自身の内なる表象をどんなものと思うかということだけである。このことが示すのは、「趣味判断」は対象を直接感じる感覚の中で快の感情を引き起こすものでもなく、ある目的や意図に照らしてそれとの関係で対象を判定するものでもない。

 

 「趣味判断」は、ある対象の現存と結び付く「適意」とは無縁である。「趣味判断」にあるのは、ただ純粋に無関心な「適意」である。「関心」がなく「適意」や不適意によって対象や表象の様式を判定する能力が、「趣味」である。このように、「趣味判断」は何に対しても無関心である。

 

 このことから、「趣味判断」は普遍的賛同を要求することが帰結する。「趣味判断」は、個人的判断である。普遍的な賛同をわれわれは、あくまで「要求」することしかできない。これはひとつの「理念」でしかない。

 

 しかし、「趣味判断」は個人的判断であるにも関わらず、普遍的賛同を要求するという、一見矛盾する要求をカントは「共通感官」(Gemeinsinn)という原理によって根拠づける。

 

■まとめ

 以上、カント「趣味判断」2つの観点すなわち、①反省的判断力と②普遍的賛同の要求について検討した。『判断力批判』で扱う「趣味判断」は、主に美的判断である。しかし、カントの使う「趣味」という言葉それ自体を考えてみると、必ずしも「美しい」という美的判断だけではなく、道徳的判断でも「趣味判断」は適用できる。

 

 きれいな花を見たとき、われわれは「この花は美しい」と言う。それだけでなく、ある人の道徳的行動を見たとき、「この人の行動は美しい」と言う。きれいなものにも道徳的行動にも、われわれは「美しい」という言葉を使う。このように考えるならば、カントの「趣味判断」は美的判断だけでなく、道徳的判断にも適用できる。【終わり】

 

【第4回】伴侶動物としてネコを飼育する3つの注意点|マイクロチップ装着

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【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 本テーマの【第2回】で、伴侶動物として飼育するネコは「完全室内飼育」であるべきであるという記事を書いた。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 しかし、災害、盗難そして何らかの事故などで愛猫と離れる場合もある。もちろん、愛猫は自分の名前も住所も伝えることはできない。

 

 その時、マイクロチップは確実な身元証明になる。飼い主とはぐれて保健所で保護されたが、マイクロチップ装着のお陰で殺処分を免れたケースもある。

 

マイクロチップ装着は義務

 

 愛猫の適正飼育のため、環境省は、われわれ飼い主にマイクロチップ装着を義務づけている。

 

 改正『動物愛護管理法』では、自分の所有であることを明らかにするため、ネコなどの動物所有者はマイクロチップ装着を行うべき旨が定められている。

 

【参考:『動物愛護管理法』(環境省) 令和元年に行われた法改正の内容】

www.env.go.jp

 

  また、ネコを海外から日本に持ち込む場合、マイクロチップなどで確実に個体識別をしておく必要がある。海外に連れて行く時、マイクロチップが埋め込まれていないと持ち込めない国もある。

 

【参考:環境省パンフレット「マイクロチップはペットとあなたを結ぶ絆です」】

www.env.go.jp

 

 『動物の愛護及び管理に関する法律施行規則』(平成18年環境省令第1号)第20条第3項によれば、 マイクロチップの装着など環境大臣が定める措置を講じ、その措置内容を都道府県知事に届け出ることが定められている。

 

【参考:環境省資料『犬猫のマイクロチップの義務化について』】

https://www.env.go.jp/council/14animal/y143-19/mat05.pdf

 

 このように、愛猫の適正飼育のため、各種法律や環境省など、行政機関はわれわれ飼い主にマイクロチップチップ装着を義務づけている。

 

マイクロチップは電子標識器具

 

 そもそも、マイクロチップとは何だろうか。

 

 環境省HP「動物の愛護と適切な管理ー人と動物の共生をめざしてー」で、その特徴が次のように説明されている。

 

・直径2㎜長さ約8~12㎜の電子標識器具
・内部はIC、コンデンサそして電極コイル
・外側は生体適合ガラス
・世界で唯一の15桁の番号が記録

 

 マイクロチップに記録されている番号を、専用リーダーを使って読み取ることができる。動物の安全で確実な個体識別の方法として、この機器はヨーロッパやアメリカなど世界中で広く使用されている。

 

【参考:環境省HP「動物の愛護と適切な管理ー人と動物の共生をめざしてー」】

www.env.go.jp

 

 マイクロチップ埋込みの方法のポイントは、次の4点である。

 

・通常より少し太い専用注入器を使用
・普通の注射と同じくらいの痛み
・イヌネコの場合埋込場所は首の後ろ皮下
・ネコは生後4週齢頃から埋込可能

 

 動物病院によって異なるが、イヌやネコの場合、費用は数千円程度である。マイクロチップ埋込みは、獣医療行為である。必ず、獣医師が行わなければならない。

 

【参考:STVニュース北海道【責任】犬・猫のマイクロチップ装着が義務化 飼い主に「命を預かる責任」を 迷子探しにも有効】

youtu.be

 このように、マイクロチップは電子標識器具であり、その装着は獣医師が行う医療行為である。

 

■日本でも利用者が増加

 

 2019年改正『動物愛護管理法』を受けて、「SBIいきいき少額短期保険株式会社」は、マイクロチップについて、イヌやネコを飼育している200名にアンケート調査を実施した。(2019年8月実施)

 

 その結果、イヌやネコ飼育する者でマイクロチップの認知率は、90.5%で装着率26.5%だった。

 

 マイクロチップ装着義務化への賛成は69.5%で、賛成の理由で最も多いのは「迷子になったときの身元確認が容易」という回答で、93.5%だった。

 

 「飼ったときにマイクロチップが装着されていた」が、43.8%で「今後マイクロチップの装着意思を明確に持っている」飼育者は、9.8%だった。

 

【参考:SBIいきいき小短 NEWS LETTER Vol.16(2019.8)】

https://www.i-sedai.com/pdf/NewsLetter190830.pdf

 

 上記の資料によれば、マイクロチップの装着は迷子や盗難にあった動物の保護時に身元確認で役立つだけでなく、動物の野良化防止にも役立つ。

 

 今後は、信頼できるサーバー上で、データが一元管理されることが期待される。

 

 伴侶動物の身元だけでなく、過去の病歴や治療歴などの情報があれば、獣医師にとって診断や治療を進めやすい。

 

 一方、飼い主にとっては日頃の健康管理に役立つ。

 

 このように、マイクロチップ装着は愛猫の身元確認だけでなく、愛猫の体調管理など様々な分野に可能性が見出される。

 

■まとめ

 以上、伴侶動物としてのネコを飼育する注意点を一連の記事の中で3つ挙げた。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 コロナ禍により、ネコなどの伴侶動物の飼育率は増加している。伴侶動物はわれわれの目的を満たす単なる「手段」ではない。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

chine-mori.hatenablog.jp

 伴侶動物の適正飼育を目指し、彼/彼女たちとできるだけ長く心地よい共同生活が送れるように、われわれ飼い主は心がけなければならない。【終わり】

 

【その他参考資料】

 

【第3回】伴侶動物としてネコを飼育する3つの注意点|避妊・去勢手術

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【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 殺処分ゼロや削減のため、地域猫活動で避妊・去勢手術は重要な取り組みである。事実、TNRなど殺処分ゼロや削減のため取り組んでいる地方公共団体は増えている。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

  

 一方、環境省パンフレット『ふやさないのも愛』によれば、全国で約10万頭のネコが殺処分されている。その中で、離乳前の子ネコが約7割である。(平成25年度現在)

 

【参考:環境省『ふやさないのも愛』】

https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/pamph/h2706h/pdf/full.pdf

 

 完全室内飼育であっても、ネコの避妊・去勢手術は必須である。手術を実施すれば、頭数が抑えられるだけでなく、オスとメス共に避妊・去勢しないストレスから起こる問題行動も予防できる。

 

 この点について、以下詳しく検討する。

 

【参考:(公財)日本動物愛護協会】

jspca.or.jp

 

■ネコは交尾すれば確実に妊娠する

 

 さいたま市「動物愛護ふれあいセンター」によれば、ネコは交尾を行えばほぼ確実に妊娠する。

 

 ネコは、単独行動を好むなわばり動物である。普段、オスとメスは別々に暮らしている。そのため、少ない交尾の機会に確実に妊娠できる仕組みになっている。

 
 また、ネコは日照時間が長くなると発情する。特に、2月から4月が発情期といわれている。ただし、①子育て中ではない②栄養状態がよい③人工光が明るいなどの条件が揃えば、1年中交尾・出産できる。

 

 【参考:さいたま市HP】

www.city.saitama.jp

 

■ネコは出産回数と頭数が多い

 

 環境省パンフレット『もっと飼いたい?』によれば、メスのネコは生後4ヶ月頃から子どもを産めるようになる。基本的に、メス猫は年に4回出産でき、1回で4頭から8頭出産する。

 

 このことから考えると、1頭のメスのネコが年間約20頭出産し、3年後に約2,000頭以上の子ネコが生まれる計算になる。

 

【参考:環境省パンフレット『もっと飼いたい?』】

www.env.go.jp

 

 また、ネコは親子や兄弟であっても、子どもを作る。放っておくと、1組のオスとメスから何十頭も子ネコが生まれる。

 

 ネコだけでなく、基本的に飼育する動物が増えすぎると、適切な世話が行き届かなくなる。その結果、「多頭飼育崩壊」という悲劇が生まれる。

 

【参考:[2020年4月5日]北海道ニュースUHB 】

www.youtube.com

 

■ネコは避妊・去勢しないストレスから問題行動を起こす

 

 ネコにとって、繁殖行動に関わる欲求は強く抑えがたい。相手が身近にいれば、当然交尾したくなるし、いなければ探しに行きたくなる。

 

 避妊・去勢手術をせず欲求を残したまま交尾させないことは、オスとメス共に大きなストレスになる。その結果、愛猫が心身共に病気になりやすくなり、問題行動を起こす。

 

 特に、同性同士で繁殖の優先権を巡って争いが生じる。

 

 避妊・去勢しないストレスで起こる猫の問題行動

  (環境省パンフレット『もっと飼いたい?』より)

・異常に吠える・鳴く

・ケンカ

・不適切な排泄(マーキング)

自傷行為

  (手足を舐める・自分の尾を追いかける)

・家から出る・放浪する

 

 以上、ネコは①交尾すれば確実に妊娠する②出産回数と頭数が多い③避妊・去勢しないストレスから問題行動を起こすことについて検討した。

 

 日本獣医師会の調査(平成27年度)によれば、ネコの避妊手術(卵巣子宮摘出)の費用は、約70%の動物病院が15,000円から30,000円の範囲である。調査は、手術のみの費用である。その他麻酔料、入院料そして術後の投薬代などが別途かかる場合もある。

 

【参考:猫と暮らし大百科】

www.anicom-sompo.co.jp

 

  ただし 、飼いネコの避妊・去勢のための手術費用の一部を助成する事業を実施する地方公共団体もある。

 

【参考:公益社団法人 沖縄県獣医師会(主催)「令和3年度 犬・猫避妊・去勢手術のおすすめ」について】

https://www.vill.yomitan.okinawa.jp/sections/%E4%BB%A4%E5%92%8C3%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E7%8A%AC%E3%83%BB%E7%8C%AB%E9%81%BF%E5%A6%8A%E3%83%BB%E5%8E%BB%E5%8B%A2%E6%89%8B%E8%A1%93%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81.pdf

 

 確かに、手術代などネコへの経済的負担は大きい。しかし、伴侶動物としてネコを飼育する際、覚悟しなければならない。

 

 このような制度を活用しながら、愛猫とできるだけ長く時間を共に過ごして欲しい。

伴侶動物は、本来われわれの目的を満たす単なる「手段」ではない。できるだけ長く共同生活することを望むのであれば、愛猫の体のことや健康について理解し、その対策を施さなければならない。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【その他参考資料】

 

【第2回】伴侶動物としてネコを飼育する3つの注意点|完全室内飼育

f:id:chine-mori:20201107112200j:plain

 

【前回の記事】 

chine-mori.hatenablog.jp

 

「ネコを飼っています」という飼い主の中には、外で飼育している方もいる。筆者の周囲にも、首輪を付けていながらエサはどこか外で食べてくるからと基本的にエサを与えず、放し飼いの場合もある。それでは、「野良ネコ」や「地域ネコ」とあまり変わらない。

 

 できるだけ長く愛猫と共にいたいと考えるのであれば、「完全室内飼育」でなければならない。家の中は狭いので、外で自由にさせたいという気持ちもあると思うが、このことが愛猫の寿命を縮めることになる。

 

■外ネコと家ネコの平均寿命は違う

 

 外で生活しているネコと室内で生活しているネコでは、決定的に平均寿命が違う。

 

 「地域猫活動アドバイザー」石森信雄氏の資料によれば、外で生活しているネコの場合、平均寿命は4年から5年である。一方、室内で生活しているネコの場合、平均寿命は15年から20年である。

 

【参考:標準の資料 ノラ猫トラブルのない地域社会をめざして(PDF:6.9MB)】

www.chiikineko.site

 

 なぜ、このように平均寿命が違うのか。

 

 これは、外で生活するネコの死因から、明らかになる。外で生活するネコの死因の第1位は、「路上死」である。

 

 ネコの習性として、「縄張り意識」の強さがある。ネコは、「食べる場所」や「寝る場所」が決まっている。「食べる場所」や「寝る場所」などが道路と反対側にあると、「路上死」の危険性が高まる。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

  

 外で生活するネコの死因の第2位は、腎臓病である。原因は、「ゴミ漁り」や地域住民の「エサやり」である。お腹を空かせたネコが、ゴミを漁り人間の残した食べ物を口にする。

 

 また、地域住民が好意で家にある残り物をネコに与える。人間とネコでは、摂取してよい塩分量が違う。よかれと思ってご飯を何気なく与えてしまい、ネコの寿命を縮めてしまうことになりかねない。

 

 外で生活すると、ネコの危険リスクが格段に高まる。時間が来たら、外から帰ってくる愛猫も、「路上死」や腎臓病などのリスクと背中合わせで生活している。

 

 このリスクを避けるためにも、伴侶動物としてネコを飼育するならば、外で飼育するのではなく、「完全室内飼育」でなければならない。

 

■愛猫を外に出さない工夫

 

 ネコを屋内で飼育したとしても、脱走や失踪は起こりうる。どのような具体策をとればよいか。我が家で実践していることを2つ紹介する。

 
①玄関のドアの開閉に注意する

 

 よく出入りする玄関の出入りに、細心の注意を払う。出かけるときは、背中を向けながらドアを閉める。帰宅した時、声を掛けながら、わざと荷物を引きずるようにしながら玄関を開けて入る。

 

 2重にドアを付けるような特別なことをしなくても、少し注意を払えば脱走は防げる。少なくとも、この方法で我が家は1度も脱走したことはない。

 

②ネコにとって心地よい空間を作る

 

 ネコの特徴のひとつとして、「縄張り意識」がある。家の中をネコにとって心地よい空間にし、「縄張り」として意識させる。我が家で特に気を付けたことは、トイレの設置の方法であった。

 

 我が家は猫ネコを4頭飼育しているが、トイレの数は4つである。原則、トイレの数は飼育頭数プラス1である。

 

【参考:ネコ用トイレ】

 

 しかしこの原則を守ると、家中がトイレだらけになる。その代わり、トイレ掃除を1日2回にしたり、少し広めのトイレを設置したり工夫した。

 

【参考:ネコ砂】

 

 ネコにとって、トイレは大切な空間である。我が家もトイレが気に入らなくて、ネコたちがストレスになっていた時期があった。試行錯誤の末、トイレを清潔に保つこととトイレのサイズを意識した。今のところ、特に問題はない。

 

 その他、複数飼育することや、一緒にできるだけ長い時間遊ぶことも、愛猫にとって居心地のよい空間となる。

 

 とにかく、われわれ飼い主がネコにとって心地のよい空間を工夫しながら、共に生活する道を探っていくしかない。

 

■伴侶動物は人間と共存しながら生活している

 

 動物といっても、「野生動物」や「家畜」など一括りにはできない。特に、イヌやネコなどの「伴侶動物」は長年人間と共存しながら、生活してきた。

 

 飼育不可能になったから「野性に返す」という口実を使って、イヌやネコを遺棄するなどの行為は飼い主として無責任であるだけでなく、長年の彼/彼女たちとわれわれとの関係性と矛盾する。

 

【参考:環境省_虐待や遺棄の禁止[動物の愛護と適切な管理]】

www.env.go.jp

 

 愛犬や愛猫などの伴侶動物は、「ご飯がもらえるから」とか「優しくしてくれるから」という単純な理由だけでなく、われわれ人間を無条件に受け止めてくれる。

 

 われわれ飼い主も、単に「癒やし」や「カワイさ」を彼/彼女たちに求めるだけでなく、同じ空間で生活する者として接しなければならない。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【その他参考文献】

【第1回】伴侶動物としてネコを飼育する3つの注意点

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 コロナ禍により、イヌやネコの飼育率は増加している。2020年6月20日付け『産経新聞』によれば、関西のとあるペットショップで、今年3月に入って、ペットフードや動物用のおもちゃなど関連グッズの販売が伸び始めた。

 

 感染の広がった4月以降は、イヌやネコなどの売り上げは急増した。例年、月平均で10から15匹だったが、今年、販売数が2倍近くになった。

 

【参考:産経新聞(2020年6月20日付)】

www.sankei.com

 

 『令和元年 全国犬猫飼育実態調査』によれば、ネコの飼育理由の第1位は、「生活に癒やし・安らぎが欲しかったから」である。この飼育理由は、コロナ禍の中で今後、顕著に現われてくるだろう。

 

【参考:令和元年 全国犬猫飼育実態調査】

petfood.or.jp

  

 一方、何らかの理由で飼育不可能となる「飼育放棄」も問題になっている。

 

 コロナ自粛中、家庭にいる時間に動物との触れ合いを求めて、伴侶動物を求める人は増えている。しかし、初めて飼い主になる人も多く、「伴侶動物との生活」の実態を理解していないケースも多い。

 

 イヌやネコなどの伴侶動物と生活する場合、エサ代や避妊・去勢手術代など意外と経済的負担が大きい。また、狂犬病予防接種や病院への通院など飼育するまで予想しなかったことが、次々と起こる。

 

 単に「カワイイ」だけでは済まされない伴侶動物との共同生活を、われわれは経験することになる。無責任な飼育の結果、ペットショップや動物カフェなどへの置き去り、動物遺棄そして「多頭飼育崩壊」など最悪のケースに繋がることも少なくない。

 

 【参考:沖縄県 一生うちの子プロジェクト】

www.pref.okinawa.jp

 

 イヌやネコなどの伴侶動物は、古来から人間と共同生活を行っている。先の調査結果にもあるように、日常生活への「癒やし・安らぎ」を目的にわれわれは「動物との触れ合いを求め」ることも確かである。

 

 しかし、以前記事にも書いたように、動物倫理学の観点から考えても、伴侶動物はもともとわれわれの目的を満たす単なる「手段」ではない。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

  

 この点を踏まえて、伴侶動物の中でも、今回はネコの適正飼育の注意点を3つ挙げる。3つの注意点とは、すなわち①完全室内飼育②去勢・避妊手術③マイクロチップ装着である。

 

 次回から、以下順に検討する。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【その他参考資料】

【教育倫理学】カント道徳教育の方法論|道徳的問答教示法

 

 『道徳形而上学の基礎礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の中で、カントは「汝の意志の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従って行為せよ」(Ⅳ,421)という、「道徳法則」を確立した。

 

 一方で、『基礎づけ』で理性的存在者となり得るが未だ成熟していない子どもたちに道徳的判断力を形成し、どう向上させるかについてカントは言及していない。

 

 そこで、今回は上記の問いを考察するため、『実践理性批判』や『人倫の形而上学』を手がかりに、カントの道徳教育の方法論について概観する。

 

[内容]

■「教え込み」ではなく考えさせる教育法の実践

■カント道徳教育の方法論は「道徳的問答教示法」である

■終わりに

 

■「教え込み」ではなく考えさせる教育法の実践

 

 『人倫の形而上学』によれば、生徒にとって教師は「思想の産婆」という位置づけであり、教師は自分の思考過程を生徒に質問することによって生徒の中にある概念への素質を育成する。

 

【参考:人倫の形而上学

 

 徳永正直も批判するように、近年の道徳の授業は、あらかじめ設定された道徳的価値の「教え込み」(inculcation)に終始していると指摘されている。このような「教え込み」の授業は、道徳だけでなく、他の教科でも日常的に行われていることだろう。

 

【参考:徳永 正直,2016:道徳教育の新たな可能性-「市民性教育」(citizenship education)との関係を考える-】https://osaka-shoin.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4025&item_no=1&page_id=3&block_id=24

 

 一方で、『実践理性批判』によれば、実践的事例を提示して、子どもたちの道徳的判断力を形成し向上させることが重要であるとされている。抽象的ではなく、歴史的エピソードなど具体的で個別的な事例を活用し、子どもたち自身に考えさせることで、実践的な判断力を身につけることができるとされている。

 

【参考:実践理性批判

実践理性批判 [カント三批判書]

実践理性批判 [カント三批判書]

 

  

■カント道徳教育の方法論は「道徳的問答教示法」である

 

 その際に、教師が一方的に道徳について「教え込む」のではなく、生徒と教師との問答から道徳的判断力を向上させる「道徳的問答教示法」をカントは採用した。特に、未熟な生徒にとってこの方法が最も有効な手段であるとされている。

 

 『人倫の形而上学』第2部第2編「倫理学の方法論」の「注 道徳的問答教示法の断片」では、この方法を活用した生徒と教師の実例を示している。この「断片」では、教師からの問いかけと生徒の応答で成り立っている。

 

 以下、第1段落から第3段落までを引用する。 

1、教官。汝の人生における最大の、いやそれどころか全き要求は何か。
   生徒。(黙して答えず) 
     教官。万事がつねに汝の望みのままになることである。
2、教官。このような状態は、なんとよばれるか。
     生徒。(黙して答えず)
     教官。それは幸福(不断のしあわせ、満ち足りた生活、自分の状態に全面的に満足しきっていること)とよばれる。
3、教官。では汝が(この世において可能であるかぎりの)あらゆる幸福を手中に納めているとしたら、汝はそれをすべて自分のために手放さずにおくか、あるいはまたそれを汝の 隣人にも分け与えるか。
   
生徒。私はそれを分け与え、他のひとびとをも幸福にし、満足もさせるでしょう。(Ⅵ,480) 

 

   教師と生徒のやりとりがこれ以降、第8段落まで続く。

 

 様々な質問を駆使し、答えに詰まると補いながら、未発達な子どもの心を道徳的善に向かわせる道筋を教師が示す。このやりとりは、ソクラテスの対話法を想起させる。しかし注意しなければならないのは、「道徳的問答教示法」はソクラテス的対話法とは一線を画す。

 

 この箇所でのカントの主張を要約すると、以下の通りである。

 「道徳的問答教示法」は、普通の人間理性から展開する。この教授法の形式的原理はソクラテス的対話法を許可しない。ソクラテス的対話法の場合、教官のみが質問者である。教官が生徒の理性から方法的に誘導する応答は、容易に変更するべきでない一定の表現の形で作成、保存しそして生徒の記憶に委ねられなくてはならない。(Ⅵ,479 要約)

 

 ソクラテス的対話法の場合、質問者は教師のみであり、教師の誘導的な質問によって生徒に道徳的に「正解」のようなものを教え込まれることがある。それに対して、「道徳的問答教示法」は、生徒と教師が対等な立場で問いかけ合い、教師が様々な質問を駆使しながら生徒を補助し、自らの道徳的判断力を向上させる手助けする方法論である。

 

 「道徳的問答教示法」は、広瀬悠三の解説によれば、教義的でも対話法的でもない。この方法が目指すのは、生徒に道徳的な知識や概念を外部から教え込むことではなく、また生徒が既に持っている知識や概念を用いて議論することでもない。

 

 「道徳的問答教示法」は、「普通の人間理性」すなわち『基礎づけ』でいう「常識」から出発する。この方法は、あくまで生徒が持つ「常識」から答えを引き出すことを目的としている。

 

【参考 :広瀬悠三,2013:子どもに道徳を教えるということ -カントにおける道徳的問答法の意義を問う】

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173243/1/eda59_291.pdf

 

 この方法では、生徒が持つ「常識」を出発点として、教師と生徒との質問と応答を展開しながら生徒の道徳的判断力を向上させていくことを目指す。このようにして、生徒が既に持っている知識や概念を活用しながら、より深い理解を促すことができる。以上が、「道徳的問答教示法」の意義である。

 

■終わりに

 以上、今回はカント道徳教育の方法論である「道徳的問答教示法」について概観した。

 

 『学習指導要領』(平成30年告示)では、「主体的・対話的で深い学び」が重視されるようになった。また、最近では「P4C」(Philosophy for Children)という哲学的な対話が注目されている。

 

【参考:『高等学校学習指導要領』(平成30年告示)】

高等学校学習指導要領

高等学校学習指導要領

 

  

 最近の哲学界でも、対話を通じた自己思考や自己成長が重視されいる。カントの道徳教育の方法論は、自己思考を促す手がかりとしても有用であると考えられる。【終わり】

 

※引用や要約する著作はすべてアカデミー版カント全集からであり、引用や要約に際し、その巻数とページ数を記載した。