ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【第1回】保護猫カフェ「球美にゃんこ亭」に行ってきた|離島特有の現状と課題【久米島町】

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 プレオープンを経て、2021年9月23日に久米島町唯一の保護猫カフェ「球美にゃんこ亭」(一般社団法人にゃんこ亭)が、遂にオープンした。

 

 オープン当日、早速お店を訪問。カフェの運営にあたる、代表理事K氏と専務理事A氏と対面。彼らから保護猫/地域猫活動について、久米島町の現状と保護猫/地域猫活動の拠点として「球美にゃんこ亭」の方向性を聞くことができた。

 

【参考:球美にゃんこ亭オープン】

 

【参考:店内の様子】

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子猫の部屋。キャットタワーやキャットウォークも充実。トイレも壁の内側に隠すなど、人も猫も居心地よい空間

 

 今回は2回に渡り保護猫カフェ「球美にゃんこ亭」を通して、保護猫/地域猫活動に関して沖縄本島とは違う離島特有の現状と課題についてまとめる。

 

[内容]

・【第1回】久米島町の現状

・【第2回】「球美にゃんこ亭」の方向性

・【第2回】感想

 

■ 久米島町の現状

 約2時間に渡って様々な話をして下さったが、両氏が感じていることは、大きく次の3点である。

 

①猫の習性や基本的な飼育方法に関する情報を得る機会が少ない。

②去勢・不妊手術ができる動物病院がない。

③住民や行政の理解や協力は徐々に得つつある。

 

 以上の3点について、深掘りする。

 

①猫の習性や基本的な飼育方法に関する情報を得る機会が少ない。

 沖縄本島では、動物病院や動物愛護団体などが猫など「伴侶動物」の習性や基本的な飼育方法を住民に啓発する活動を行っている。

 

【参考:伴侶種宣言】

 

 是非はさておき、「猫を飼育したい」と思うのであれば、「ペットショップ」に行けばその情報は得られる。

 

【参考:しっぽの声】

 

 しかし久米島町は、啓発活動自体あまり進んでいない。本来この島には「ペットショップ」が存在しない。それで、猫など身近な動物の習性や基本的な飼育方法などの情報を得る機会が、他の地域と比べて少ない。

 

 その結果、両氏の話のような猫への思い違いが生じることもある。

 

・3歳以上の猫は年老いているので子どもを産まない。

・猫を中に入れると家が汚れる。

 

 島内では猫を家の外で飼う飼い主が多い、とA氏は言う。「中に入れると家が汚れる」とか「爪とぎで家が傷つく」というのが、その理由である。猫は「完全室内飼育」が原則であることは、一般的である。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 「完全室内飼育」の原則は、猫の「交通事故」に遭うリスクを減らすことが大きな目的である。「外ネコ」の死因の第1位は「交通事故」である。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 県外から移住してきたA氏によれば、那覇市と東京の間で情報の質にそれほど差はない。一方、那覇市と離島の久米島町は情報のタイムラグがある。ここ数年で久米島町では、やっとTNRが認知されてきた。

 

 タイムラグの要因について、A氏は次の2点を挙げていた。

 

・他の離島と比べて久米島町はより閉鎖的空間である。

・ネットで情報を得る機会が少ない。

 

 宮古島石垣島と比べて、久米島町は観光や移住などでの人の流入は少ない。それで、島外からの情報が入りにくい。また住民の平均年齢が高いため、テレビか目の前の推測からの判断が大きい。

 

 このように、A氏は久米島町の状況を分析する。

 

 猫の習性や基本的な飼育方法を住民に啓発する活動を行う機会や場所を設けることが先決であると、私は感じた。加えて、地域の中高生など若い世代に保護猫/地域猫活動を広める重要性をお互いで確認した。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 
②去勢・不妊手術ができる動物病院がない。

 残念ながら、久米島町に動物病院は1軒しかない。それも月に2回程度、沖縄本島から獣医師が日帰りでやって来るだけである。

 

 TNRやTNTAで捕獲した猫の去勢・不妊手術ができる動物病院は、沖縄本島には数ヶ所ある。一方、久米島町には存在しない。厳しい環境の中、どのようにしてこの団体は猫を捕獲した後の手続きを行っているのか。

 

【参考:ペットマナープロジェクトおのみち【TNR・TNTA活動について】】

onomichi.mypl.net

 

 その質問に、A氏は次のように回答した。

 

・去勢・不妊手術ができる獣医師を招へいする。

・島内で捕獲した猫を本島や県外の猫カフェに送って去勢・不妊手術を依頼する。

 

 いずれにしても、他の地域と比べ時間とカネがかかることは間違いない。それでも今年1月から200頭以上、去勢・不妊手術が実施できたようである。

 

 厳しい環境中でも、試行錯誤しながら実行していく。この団体の保護猫/地域猫活動への実直な姿勢を垣間見た気がした。

 

③住民や行政の理解や協力は徐々に得つつある。

 保護猫/地域猫活動で最も重要なのが、住民の理解と行政の協力である。ヨソから来た人間がいきなり保護猫/地域猫活動を開始したとしても、住民の理解は得られない。

 

 住民の理解を得るためには長年、地元で活動されている方々や行政の協力が必要である。その辺りについても尋ねてみた。

 

【参考:地域猫活動について】

jspca.or.jp

 

【参考:黒澤泰&飯田基晴の地域猫活動のすすめ】

 

 話によると、厳しい環境の中でも保護猫/地域猫活動を地元で長年、行っているボランティアの方々の力が大きい。保護された猫を預かったりTNRやTNTAに参加するなど、ボランティアの方々はこの団体と協力体制を構築している。

 

 またすべてとは言わないが、ボランティアの方々のお陰で行政も協力する体制があるようだ。実際、TNRやTNTAの時には行政が地域の住民に呼びかけを行ったり、去勢・不妊手術の際には、その場所を提供したりしている。 

 

 ボランティアの方々や行政など理解ある多くの人たちのお陰で、少しずつ前進している。ここに私は希望を感じた。

 

 以上、3点が保護猫/地域猫活動に関する久米島町の現状である。では、保護猫カフェ「球美にゃんこ亭」がどのような方向性で活動しているのか、そして何に課題を感じているのか。この点について、次回見ていくことにする。【続く】

 

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球美にゃんこ亭(一般社団法人 にゃんこ亭) 
〒901‐3108 沖縄県島尻郡久米島町字比嘉160-42
14:30~18:30(不定休)

HP:https://nyankotei.jp/

instagram: kume_nyanko

Twitter@Kumeis_cat

Facebookhttps://www.facebook.com/pg/kumejimadogandcat/posts/

一般社団法人にゃんこ亭: amazon.jp/hz/wishlist/ls

 

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地域猫活動について以下の書籍も参照↓

 

【第2回】飼い猫のひみつ|「ネコ」好きなら知っておきたい!「ネコ」の3つの習性【ネコ学】

 

 前回の記事で、人間と「ネコ」との関係性を「飼いネコ」誕生の歴史から紐解いてきた。

 

【参考:前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 その結果、次の2点が明らかになった。

 

・「イエネコ」のルーツは「リビアヤマネコ」である。

・「ネコ」が人に歩み寄った理由は、人家やその周辺からネズミという恩恵を得るため。

 

 第1回に引続き、本書に沿って「ネコ」の3つの習性について検討する。この作業を通して、「ネコ」の気持ちをわれわれはより理解できるようになるだろう。

 

[内容]

■「ネコ」の気分は4通り

■転位行動

■ネオホビア

■まとめ

 

■「ネコ」の気分は4通り

 飼い主にべったりだった「ネコ」が、いきなり野生状態になることがある。

 

 例えば、お腹を上にしてゴロゴロとのどを鳴らすのでお腹を撫でていたら、数秒でツメを立ててくることがある。

 

 これは、「家ネコ」気分から「野生ネコ」気分へと切り替わった現象である。切り替えパターンは、他にもある。

 

 それは、単独性を重視する「大人ネコ」気分から「子ネコ」気分への切り替えである。気分の切り替えは、特に「飼いネコ」に特徴的である。

 

 気分の切り替えを具体的にまとめると、次の4通りである。

 

・「家ネコ」気分:(例) 安心しきって、お腹を見せて無防備に眠ったり警戒心を解いてくつろいだりする様子。

・「野生ネコ」気分:(例) 突然夜中に走り回る。いわゆる「夜の運動会」。

・「大人ネコ」気分:(例) 仕留めた獲物を飼い主のところへ持ってくる。この行動は「ネコ」にとって、自分では獲物を捕ってこられない飼い主の面倒を見ている。

・「子ネコ」気分:(例) シッポを立てて甘えたり「遊んで」とアピールしたりする。大人になっても「子ネコ」の頃のように飼い主に甘える。

野生の気分
近くに飼い主がいたとしても、すっかり安心しきって、おなかを見せて無防備に眠ったり、警戒心を解いてくつろいだりといった様子
近くに飼い主がいたとしても、すっかり安心しきって、おなかを見せて無防備に眠ったり、警戒心を解いてくつろいだりといった様子
近くに飼い主がいたとしても、すっかり安心しきって、おなかを見せて無防備に眠ったり、警戒心を解いてくつろいだりといった様子
飼い猫の気分イイエネコ
飼い猫の気分
飼い猫の気分
飼い猫の気分
飼い猫の気分
猫の4つの気分
猫の4つの気分

 

 「ネコは気まぐれである」と、よく言われる。4通りの気分が瞬時に切り替わるので、われわれには気まぐれのように感じられる。「今どんな気持ちか」を理解する上でも、「ネコ」の4通りの気分を知ることは必要である。

「猫は気まぐれ」などと言われることがありますが、それは、4つの気分が瞬時に切り替わるせいで、そこに居合わせた人には気まぐれのように感じられるのです。「愛猫が今、どんな気分なのか」を知るためにも、ここでは猫の4つの気分をご紹介します。

 

【参考:甘えているネコ】

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             【写真】https://www.pakutaso.com/20190335067post-19880.html からの画像



 ■転位行動

 

 「ネコ」は、単独のハンターとして進化した。しかし、狩りの成功率は10%前後である。失敗すると、「ネコ」でも落ち込む。この行動を、「転移行動」という。

 

 「転位行動」によって、気分を紛らわせ「ネコ」は数秒で気分転換ができる。

 

【参考:「ネコ」のあくび】

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                        【写真】Jonathan SautterによるPixabayからの画像

 

 猫が「転位行動」を行うときは、主に次の6つである。

 

・失敗したとき:(例) 獲物を捕まえようとして、失敗したとき。

・行動を中断させられたとき:(例) 自分が行きたい場所を、遮られたとき。

・仲がよくない猫と会ったとき:(例) 仲のよくない猫の近くを、通らなければならないとき。

・何かをガマンしたとき:(例) 窓ガラスの向こうに鳥など獲物がいるのに、獲れないとき。

・興奮したり驚いたりしたとき:(例) 遊んでいて興奮したり、急に驚いたりしたとき。

 

  では、「ネコ」がとる「転位行動」は具体的にどんな行動だろうか。主に、次の4つである。

 

・グルーミング:短時間に、一部分を集中的になめるような動作。舐める場所は、鼻・肩・前足・後ろ足など。

・爪とぎ:ストレスを感じたとき、壁やソファーなどに爪を立てる。

・あくび:のんびりしているのではなく、邪魔されたことや叱られたことへの抗議の意味がある。

・マウンティング:自分の優位性を、アピールする行動。「転位行動」のひとつとして、マウンティングの体勢を取ることもある。

 

 ストレスを感じたとき、「ネコ」は「転位行動」をとる。気分転換を図ることで、「ネコ」は上手くストレスに対処している。

 

■ネオホビア

 

 「ネコ」だけでなく、多くの動物は初めて見るものを警戒する。「ネコ」の中では、好奇心と警戒心が天秤に乗ってせめぎ合う。

 

 強い探索心と警戒心は、「ネコ」の特徴的な気質である。この気質は、進化を重ねる上で身に付けたネコの生存戦略である。

 

 新しいものへの用心深さは、動物行動学では「ネオホビア」(新しいもの恐怖症)と呼ばれる。

 

 新しいものへ接するとき、われわれがユーモラスに感じるくらい動物は「臆病者」な行動をとることがある。

 

【参考:ネオホビア】

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                             【写真】Dim HouによるPixabayからの画像 

 

 一方、「ネコ」を捕まえるため新しい罠にかからなくて「頭がいい」と思うこともある。

 

 動物の用心深さは「ネオホビア」によるものであり、臆病なわけでも賢いわけでもない。この習性は、毒入りのものを避ける仕組みとなる。

 

 自然界でもキノコや腐った肉など有害なものは、たくさんある。このように、ほんの一口だけ食べるという習性を身に付けた者だけが生き延びてきた。

 

 家の近所で光るCD盤をぶら下げていたり、ペットボトルが地面や塀などに置かれている光景を目にする。「ネオホビア」によれば、これは10日もすれば「ネコ」は慣れてしまう。

 

【参考:街角に置かれた猫除けのペットボトル】

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                 【写真】https://www.pakutaso.com/photo/73426.html からの画像

 

 危険物かどうか瞬時に判断する推理力は、「ネコ」にはない。厳しい世界を生き抜く上で、新しいものへの慎重に接して正しく判断し学習する力を「ネコ」は身に付けている。

 

■まとめ

 

 以上、ネコの3つの習性について確認した。まとめると、次の3点である。

 

・「イエネコ」は「家ネコ気分と野生ネコ気分」そして「大人ネコ気分と子ネコ気分」に切り替わる。

・気分転換のため、「ネコ」は「転移行動」をとる。

・「ネコ」の気質である新しいものへの用心深さは、「ネオホビア」と呼ばれる。

 

 「伴侶動物」として「ネコ」は、われわれ人間と深い関係にある。以上のような「ネコ」の習性を理解することで、彼/彼女らとより親密な関係をわれわれは築けるようになるかもしれない。【終わり】

 

【参考文献】

【第1回】飼い猫のひみつ|ネコ好きなら知っておきたい!「飼いネコ」誕生の歴史【ネコ学】

 

 本ブログの目標のひとつは、「動物倫理学」を軸にわれわれ人間と「伴侶動物としてのネコ」との関わりについて考えることである。

 

 この目標を達成する方法として、これまで様々な本や論文などを参考に「動物倫理学」全般について扱ってきた。

 

 一方、「伴侶動物」としての「ネコ」の行動や思考などについて言及することはなかった。

 

 ということで今回、本書に沿って2回に渡り、われわれの身近にいる「ネコ」の歴史や習性を紐解いていく。

 

 その第1回目として、今回は人間と「ネコ」との関係性について彼/彼女たちの歴史を通して検討する。

 

 この作業を通して、いつからそしてなぜわれわれ人間と「ネコ」が親密な関係になっていたのか、その経緯や理由を明らかしていく。

 

[内容]

■本書の目的

■「イエネコ」のルーツ

■「ネコ」が人に歩み寄った理由

■まとめ

 

■本書の目的

 本書の目的は、「現時点で考え得るネコの新説を紹介する」ことである。本書を読めば、「飼いネコ」誕生の秘密やその実態に迫ることができる。

 

 筆者によれば、「ネコ」の歴史や生態を研究する「ネコ学」について、新事実が徐々に発見され進展を見せている。

 

 例えば、子ネコの子育てにオスも参加していた事例が見つかっている。

 

【参考:世界初の発見!猫に「イクメン」がいた! 子猫を他のオスから守る父親の戦いに感動】

www.j-cast.com

 

 一方、「ネコ学」を発展させるために事実に基づいた「仮説」を立てることは大切である。

 

 「仮説」がないと、学問は発展しない。将来「仮説」が誤りとなるにしても、打ち立てることに意味がある。

 

 このように、最新の知見や「仮説」などを紹介しながら、本書はわれわれに身近な「ネコ」の生態に迫っていく。

 

■「イエネコ」のルーツ

 「ネコ」の祖先は、「リビアヤマネコ」である。「リビアヤマネコ」を飼い慣らしたものが、「イエネコ」になった。

 

【参考:リビアヤマネコ

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写真: ウィキペディアWikipedia

 本来「種」として「リビアヤマネコ」は、「ヨーロッパヤマネコ」に含まれる。「リビアヤマネコ」は、「ヨーロッパヤマネコ」の亜種である。

 

 「ヨーロッパヤマネコ」の亜種は、単に「リビアヤマネコ」だけではない。特にヨーロッパ産と比較して、北方系や熱帯系に棲む「ヨーロッパヤマネコ」は極めて特徴的な外見をしていた。

 

 北方系は、体ががっしりしていて体を覆う毛は厚い。顔面は、かなり短縮している。耳、四肢そして尾は短い。

 

【参考:ヨーロッパヤマネコ】

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写真:ウィキペディアWikipedia


 一方、熱帯地方に分布する種類は顔面が長い。耳は長く、先端が尖っている。毛は、短く艶がある。尾は、長く四肢は細い。

 

 さて、「ヨーロッパヤマネコ」の亜種は5つに分類される。

 

・ヨーロッパヤマネコ:ヨーロッパに分布する基亜種
リビアヤマネコ西アジアからアフリカ北部に分布
・アフリカヤマネコ:アフリカ南部に分布
・ステップヤマネコ:中央アジアからアフガニスタンに分布
・ハイイロネコ:ゴビ砂漠に分布

 

 ただし、気候変化や棲息地が農耕地や牧場に変わったことなどによって、これら「ヨーロッパヤマネコ」は、西部・中部ヨーロッパから姿を消した。

 

■「ネコ」が人に歩み寄った理由

 「イエネコ」が人間に歩み寄った鍵は、人類の「農耕」と「定住」の歴史にある。

 

 人間が定住に成功する直前の約1万5000年前、中東イスラエルのヨルダン渓谷にある古代ナトゥーフに元々棲んでいた小型の2種の野生ハツカネズミ(ヨウシュウハツカネズミ・マケドニアハツカネズミ)が、人類の定住地で栄え始めた。

 

【参考:古代ナトゥーフ】

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図:ウィキペディアWikipedia

 

 理由は、人類が1ヶ所に定住したことで食べこぼしなどのおこぼれを頂戴できると、ネズミたちは学習したからである。

 

 人をあまり怖れない「ヨウシュハツカネズミ」は、住家性に変わった。一方、野生を好んだ「マケドニアハツカネズミ」は、住居の近くで暮らした。

 

 定住を始めて数千年、人類は「翌年まく種子を貯蔵すること」を学ぶ。

 

 それにも関わらず、家の中や貯蔵庫では住家性の「ヨウシュハツカネズミ」に、畑では「マケドニアハツカネズミ」双方の害に悩まされ続けた。

 

  この時期、無数に繁栄してたハツカネズミを獲物として人間社会に近づいてきたのが、「リビアヤマネコ」だった。

 

 「ネコ」は、人家やその周辺からネズミという恩恵を得ることを学習し、人の側から離れようとしなかった。

 

 人類が「リビアヤマネコ」を歓迎したことは、想像に難くない。「ネコ」は、貯蔵してある穀物を守ってくれる存在だった。

 

 ところで、2004年あるフランス国立科学研究所チームが、ネコと人類の共生の謎に迫る化石を発見した。その記事が、4月8日付け米科学誌『サイエンス』に掲載された。

 

 地中海キプロス島にある約9500年前の墓から、人と一緒に埋葬されたネコの骨が、ほぼ完全な形で発見された。この9500年前の化石は、ネコと人の歴史を揺るがす大発見だった。

 

 埋葬されたネコは、全長約30㎝で推定年齢は生後約8ヶ月のネコだと見られる。調査によれば、ネコに外傷はなく、乱暴に殺害された痕跡もなかった。小さな墓穴を掘って、丁寧に埋葬されたと見られている。

 

【参考:ネコのペット歴、9500年前から キプロス島に「墓」(朝日新聞) 】

 地中海の島国キプロスで発見されたネコの骨から、人類は約9500年前にすでにネコを飼っていたらしいことが分かった。ネコのペット歴はこれまで約4000年しかさかのぼれず、イヌに大きく水をあけられていたが、一挙に5000年以上差を詰めた。仏国立科学研究センターなどのチームが、9日付の米科学誌サイエンスで発表した。

 骨は新石器時代の遺跡で出土した。人の墓から約40センチしか離れていない約9500年前の同じ地層に、小さな穴が掘られて、ネコ1匹の骨が埋まっていた。いまのイエネコより一回り大きいアフリカヤマネコに近い種類で、形が乱れていないことから、死後すぐに埋められたとみられる。

 年代は日本では縄文時代にあたる。研究チームは「農耕が始まり、穀物を狙うネズミを退治してくれるネコが重宝されるようになった」とみる。ネコが人に飼われていた古い物証はこれまで、紀元前18~20世紀のエジプト王朝時代の壁画などしかなかった。(『朝日新聞』2004年4月9日 引用)

 

 キプロス島には元々、野生のネコ科動物は分布していない。ということは、外部から人間が「ネコ」を持ち込んだことが考えられる。

 

 研究チームは、「このネコが飼い慣らされたとは断定できないが、当時既に人とネコが特別の関係を持っていたのではないか」と推測した。

 

 大切に埋葬されたことから考えると、「野ネズミを追い払うなど農業の役畜以上に、より精神的シンボルとしてかわいがられていたのではないか」と述べている。

 

 筆者によれば、1万年前に定住によって「ネコ」が家畜化されていたならば、9500年前に「ネコ」と人間が深く関わり合っていたことも十分考えられる。

 

 ネズミを退治するというビジネス的な付き合い方だけでなく、精神的に密接な絆を持って「ネコ」は人間と暮らしていたと、筆者は推測する。

 

■まとめ

  本書を通して、次の2点が明らかになった。

 

・「イエネコ」のルーツは「リビアヤマネコ」である。

・「ネコ」が人に歩み寄った理由は人家やその周辺からネズミを得るためである。

 

 人家やその周辺からネズミという恩恵を得るため、人に歩み寄った「イエネコ」のルーツである「リビアヤマネコ」が、9500年前から精神的に密接な絆を持って「ネコ」は人間と暮らすことになる。

 

 現在でも、人間と「ネコ」は親密な関係にある。「ネコのルーツ」を探ることで、彼/彼女らと、より親密な関係をわれわれは築けるようになるかもしれない。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考文献】

【独学大全】カント『宗教論』に「段落要約」と「注釈」をつけてみて学んだこと3つ【勉強法】

 

 『独学大全』は、20万部(当時)を超えるベストセラーである。本書の目的は、「独学者を支え援護する」(p.8)ことである。

 

 大学院(修士)を修了してから、20年近くが経過した。その後、どの研究機関にも所属せず、社会人として働きながら、時間や資金の制限がある中で、カント研究などを続けてきた。もちろん、誰にも強制されたわけではない。自分の興味や関心に従い、継続してきただけである。

 

 このような経緯から、「独学大全」を手に取った。これまでの学習歴を振り返りながら、本書で学んだことを実践する意図で、カントの『たんなる理性の限界内の宗教』(以下『宗教論』と略記)に「段落要約」と「注釈」を付けてみた。

 

 今回は、『宗教論』に「段落要約」と「注釈」を付ける学習法を通して、学んだことをまとめてみた。

 

  

[内容]

■『宗教論』に「段落要約」と「注釈」をつけてみて学んだこと

■『宗教論』に「段落要約」と「注釈」をつけた動機

■「段落要約」について『宗教論』で意識したこと

■「注釈」について『宗教論』で意識したこと

■まとめ

■『宗教論』に「段落要約」と「注釈」をつけてみて学んだこと

 

『宗教論』に「段落要約」と「注釈」をつけてみて学んだことは、次の3つである。

 

  • 重要文献には「精読」が必要である。
  • 哲学のような分野では「段落要約」と「注釈」は有効である。
  • どの分野でも『独学大全』の技法は応用が利く。

 

 議論を整理し、さらに新たな議論を積み上げる哲学の分野で「精読」は欠かせない。

 

 『独学大全』に登場する「段落要約」と「注釈」は、哲学を学ぶ上で有効な技法であることを、実践してみて確信した。

 

【参考:要約と注釈㉑】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 『独学大全』から学んだことを3点深掘りする前に、なぜ『宗教論』に対して「段落要約」と「注釈」を付けたのか、その動機について以下で述べる。

 

■『宗教論』に「段落要約」と「注釈」をつけた動機

 

 『宗教論』は、「第四批判書」とも呼ばれ、自らの道徳哲学の枠組みをもって宗教のあるべき姿を論じている重要な書物である。『三批判書』と並ぶ、カント哲学の中で重要な位置を占める。

 
 カント道徳哲学を学習してきた者にとっては、『宗教論』は避けては通れない書物である。しかし、これまで自分が行なってきた学習方法とは異なるアプローチを試みたいという気持ちが起こり、それが「段落要約」と「注釈」をつける学習法に繋がった。

 

 そこで、『独学大全』の中で登場する「精読」の技法のひとつ「段落要約」(技法42)と「注釈」(技法44)を活用して、『宗教論』の理解に努めた。

 

 次に、「段落要約」を行う際『宗教論』で意識したことについて述べる。

 

■「段落要約」について『宗教論』で意識したこと

 

 『独学大全』では「段落要約」のポイントを4つ挙げている。

 

  • 要約に取り組む文献と範囲を選ぶ
  • 段落ごとに番号をつけていく
  • 段落に合わせて、空欄を用意する
  • 読んだ内容を要約して、空欄を埋める(p.522ーpp.523より)

 

 『独学大全』を参考に、『宗教論』の「段落要約」で意識したことは、次の3点である。

 

  • 『宗教論』の「段落要約」を、「第1編」と「第2編」に絞った。
  • 段落ごとに番号を振り、読者を想定して読みやすい分量に区切った。
  • 「要点」を精選し、短い文に整えた。

 

  カントの文章は基本的に1文が長く、時には彼の主張を見失ってしまうことがある。そこで、彼の議論を丁寧に追うために、段落ごとに要約を作成した。

 

 具体例や想定された反論などを極力省略し、彼が最も伝えたい「要点」を精選して、要約を作成した。

 

 また、枝葉末節を除去し、長い1文を2文に分けて、文を短くまとめることで、カントの主張を整理するよう心がけた。

 

 以上の作業を通して、独自の解釈や考えを排除するように気を配りながら、カントの主張ができる限り理解できるよう『段落要約』を行った。

 

 続いて、「注釈」を付ける際『宗教論』で意識したことについて、以下で述べる。

 

■「注釈」について『宗教論』で意識したこと

 

 『独学大全』では、「注釈」を次のように定義する。

 

注釈とは、釈(旧字「釋」)を注(つ)けることを言う。注は「一か所にくっつける」ことを、釈(釋)は「解く」「解きほぐす」ことを意味する。つまり語や文の意味を解説したものを、原文の該当箇所に結びつけることが注釈することである。(p.534)

 

『独学大全』では、「注釈」についてポイントを3つ挙げている。

 

  • テキストを選ぶ。
  • 重要な箇所・注意すべき箇所に印をつける。
  • 注釈を書き込む。(p.534ーpp.535 より)

 

 このポイントを参考に、実際『宗教論』の「注釈」で意識したことは次の2点である。

 

  • 『宗教論』巻末にある「訳注・校訂注」や『カント事典』、その他書籍や論文などを参考にした。
  • 理解した範囲で、自分なりの解釈を加えた。

 

 カントの著作に取り組む場合、彼の問題意識を探ることが先決となる。そのため、前提とする命題や彼独自の「用語」を理解しなければならない。

 

 初読ということで、『宗教論』で扱われている問題意識が何かを探ることに時間を要した。「段落要約」を行った上で、疑問に思ったことを調べたり、理解できなかった箇所は「とりあえず」独自の解釈を加えた。

 

 『独学大全』でも述べられているように、「注釈はとても時間がかかる作業」(p.534)となった。しかし筆者の以下の言葉が、自分の作業を後押ししてくれた。

 

まずは「?」マークをテキストに残すぐらいの気構えでよい。これら疑問や不明点は、流し読みしていた時には、頭の中に浮かんではそのまま消えていったものだ。今やそれを書き残し、テキストという岩山に打ち込むハーケンにすることができる。(p.537 )

 

 筆者によれば、最初は調べても解決しないことの方が多い。疑問や不明点の中で、いつか解決できればよしとする。その心構えでいた方が、長続きする。そして、「疑問を持つことや解決できないこと自体が自分の読みと読解力を成長させると信じて、作業を続けよう」と、筆者は独学者を励ましている。

 

 この気構えで、『宗教論』の「注釈」を試みた。『宗教論』を読み返す度に疑問が解消されたり、また新たな疑問が湧いてくることもあるかもしれないが、それこそが独学の醍醐味であり、成長の機会と捉えることが大切だと筆者は考えている。

 

 しかし、それは自らの「読みと読解力が成長した証」となるだろう。筆者の言葉を信じ、前進することで、日々の作業を前向きに捉えることができた。

 

■まとめ

 

 以上、『宗教論』に「段落要約」と「注釈」をつけて学んだことは、次の3つであった。

 

  • 重要文献には「精読」が必要である。
  • 哲学のような分野では「段落要約」と「注釈」は有効である。
  • どの分野でも『独学大全』の技法は応用が利く。

 

 そして、『宗教論』に「段落要約」と「注釈」をつけた動機や意識したことを本文で述べた。

 

 『宗教論』は、『三批判書』と並ぶカント哲学の重要書である。『宗教論』はもちろん重要であるが、『独学大全』も自分にとって「座右の書」となることは間違いない。【終わり】

 

↓公式副読本も手元に置きたい。↓

 

↓以下の書籍の訳注も参考にした↓

 

【要約と注釈㉑】たんなる理性の限界内の宗教|第2編第2章 一般的注解(段落1~段落4)

 

[内容]

第2編 人間の支配をめぐっての善の原理による悪との戦いについて

第2章 人間支配への悪の原理の権利主張、および両原理相互の戦いについて

一般的注解

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

道徳的宗教の基礎が置かれることになれば、その導入部に歴史が結びつける「奇跡」すべてによって奇跡一般への信仰は不要になる。理性により人間の心情に根源的に銘記される義務の準則であるが、更に奇跡によって認証されないことには、それは道徳的不信仰を表す。単なる祭祀と厳律の宗教は、終わる。その代わり、霊と真理に基礎を持つ宗教が取り入れられることになったとき、歴史でのその序曲に奇跡が伴いその粉飾が施される。奇跡なくして、権威がなかった旧宗教が終焉する。こういう事情で真実の宗教が一旦現存して、今もこれからも理性根拠によって維持されるならば、以前の物語や解釈に異論を唱えたところで実りはない。不可解なものをひたすら信じて唱えることが、神に嘉する方法だと人は思うに違いない。このような申し立てに、全力で戦わなくてはならない。(Ⅵ,84ー85)

注釈

  道徳的宗教の基礎が置かれることになれば、単なる「奇跡一般への信仰」が不要になる。道徳と宗教が結び付けば、単なる祭祀と厳律の宗教は終わる。不可解なものをひたすら信じることが、神に嘉する方法であると思う人はいるに違いない。しかしこの申し立てに、われわれは全力で戦わなくてはならない。

 

[段落2]

要約

奇跡一般について、理性的な人は奇跡信仰を放棄する気はないのに実践的にそれを念頭に置かない。「理論」について奇跡の存在を信じるにしても、「実生活」では奇跡を許容しない程度である。賢明な政府は、「昔」奇跡が起ったことは容認してきた。これまで古い奇跡は、次第に限定されてきた。共同体内で混乱は、起らないことになっていた。新たな奇跡を行う人間について、公共の安寧や一般に普及した秩序などで及ばない結果のため、配慮しなくてはならなかった。奇跡とは、世界内の事象でその原因の「作用原因」がわれわれに端的に知られていないものである。今や、考えられるのは「有神論的」奇跡か「デーモン的」奇跡かのいずれかである。デーモン的奇跡は、「天使の」奇跡と「悪魔」の奇跡に分類される。本来問題となるのは、悪魔による奇跡である。(Ⅵ,85ー86)

注釈

 理性的な人は、実践的に「奇跡」を念頭に置かない。「奇跡」とは世界内の事象でその「作用原因」が、われわれに端的に知られていないものである。考えられるのは、「有神論的」奇跡か「デーモン的」奇跡かである。「デーモン的」奇跡は、「天使」の奇跡と「悪魔」の奇跡に分類される。問題は、「悪魔」による奇跡である。

 

[段落3]

要約

「有神論的」奇跡について、われわれは確かにその原因の作用法則について概念を作る。しかしこの概念は「一般的」概念に過ぎない。特殊な場合、神が自然をその法則から逸脱させることもあるならば、神がそのような事象をなす際に従う法則の概念はわれわれに一切ない。それを、われわれは獲得できない。これによって既知の法則に従った営みを阻まれ、新たな法則によりわれわれは啓発されることはない。こうした奇跡の中でも、理性使用と最も調和しにくいのがデーモン的奇跡である。「有神論的」奇跡に関して、理性は少なくともそれを使用する消極的表徴がある。デーモン的奇跡と称するものの場合、この表徴もなくなる。デーモン的奇跡に味方し、反対の積極的表徴を義務として認識するならば、悪霊によってなされたのではない表徴を理性使用のために掴み取ろうと思っても、掴み損ないがある。悪霊は、よく光の天使を装う。(Ⅵ,86ー87)

注釈

 原因の作用法則について、この概念は「一般的」概念に過ぎない。神が自然をその法則から逸脱させる特殊な事象をなす際に、従う法則の概念はわれわれにない。こうした奇跡の中で「デーモン的」奇跡は、理性使用と最も調和しにくい。デーモン的奇跡に味方して反対の積極的表徴を義務と認識すれば、悪霊によってなされたのではない表徴を、理性使用のため掴み取ろうと思っても掴み損ないがある。

 

[段落4]

要約

実生活で奇跡を当てにしたり、理性使用に際してこれを勘定に入れたりはできない。自然科学者の営みは、事象の原因を自然法則によってその中に求める。これも、実生活に属す。人間の道徳的改善も義務として、人間に課せられた営みである。人間は天の影響と自然の影響を、確実に区別できない。(Ⅵ,87ー88)

注釈

 実生活や理性使用の際に、奇跡を当てにしたり奇跡を勘定に入れたりできない。人間の道徳的改善も、「義務」として人間に課せられた営みである。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【終わり】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑳】たんなる理性の限界内の宗教|第2編第2章(段落1~段落4)

 

[内容]

第2編 人間の支配をめぐっての善の原理による悪との戦いについて

第2章 人間支配への悪の原理の権利主張、および両原理相互の戦いについて

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

叡智的な道徳的関係を、聖書は歴史の形式で語っている。この歴史では、人間の外にある人格として表される。2つの原理は互いに力を試し合うだけでなく、それぞれの権利請求を「法によって」認めさせようとしている。(Ⅵ,78)

注釈

「叡智的な道徳的関係」は、道徳法則についての善や悪という道徳関係と考えられる。この関係性を、聖書は歴史の形式で語っている。善悪という人間の中にある2つの原理は、天と地獄のように対立し合う。聖書で語られる歴史は、人間の外にある「人格」として表現されている。一方は人間の告発者として、他方は人間の弁護人にとして、それぞれの権利請求をいわば裁判官の前で「法によって」認めさせようする。

 

[段落2]

要約

人間は、地上すべての財を所有するよう定められた。それを彼は下位所有権としてのみ、上位所有者である創造者にして主の下で所有することになっていた。同時に、悪魔が配された。これは、天に所有していた財産すべて離反により失ってしまい、今や地上で別の財産を獲得しようと思っている。悪魔は、高等な種類の存在である。悪魔は、この世の物体的な対象では享楽を味わえない。そこで悪魔は、人間すべての祖先をその主権者から離反させ、自ら従属させることで「人心の」支配を手に入れようと試み、この世の支配者になることに成功する。この反逆者に神はなぜ自身の力を利用せず反逆者が興そうと企む国を、それが始まったばかりの時点で廃止されなかったかと怪しむ向きもあろうか。しかし、理性的存在者への最高の知恵による支配と統治は、この存在者の自由の原理によって彼らを遇する。彼らに起こるはずの善悪を、彼ら自身が負わねばならないようにしようとする。ここに、善の原理を無視して悪の国が興された。アダムの系統を引く人間すべてが、この国に恭順することになった。それは、すべて人間自身の同意による恭順である。人間支配の権利主張について善の原理は、その名を唯一公に崇敬することだけを基礎にした統治形式を整えることで守られはした。この統治形式だと人民の心は、いつまでもこの世の財以外のどんな動機も取ろうという気にならなかった。あくまで、この世での報酬と罰以外のものによって統治を人間は受けようとしなかった。その際、彼らが受け入れた律法でも煩わしい儀式や習慣を課すものとか、道徳的心術という内的なものが考慮されない市民法という律法以外になかった。この措置も、ただ最初の所有者の消しがたい権利をいつまでも追憶に残しただけである。(Ⅵ,78ー82)

注釈

 この箇所は、カントによる「創世記」の解釈である。人間は地上すべての財を所有するよう、神によって定められた。同時に悪魔も配された。悪魔は、われわれの世界での物体的対象では享楽を味わえない。そこで、人間すべての祖先を自ら従属させることで「人心の」支配を手に入れようと試み、この世の支配者になることに悪魔は成功した。ここに善の原理を無視して、悪の国が興された。この国は人間自身の同意による恭順である。人間支配の権利主張について善の原理は、その名を唯一崇敬することだけを基礎にした統治形式を整えることによって保守はされた。あくまで、われわれの世界での報酬と罰以外のものによる統治を人間は受けようとはしなかった。

 

[段落3]

要約

物語の主人公の側から見れば、この争いの道徳的結末は悪の原理を「征服する」ことではない。この国は、未だ続いている。それは、新たなエポックに入らなくてはならないし、そこで破壊されはずである。(Ⅵ,82ー83)

注釈

 争いの道徳的結末は、悪の原理を「征服する」ことではない。この国は、未だ続く。それは、新たな画期的時期に入らなくてはならない。

 

[段落4]

要約

生彩もあり、その時代にとって唯一「ポピュラー」でもあった表象様式から神秘的な被いを取り去れば、あらゆる世界にとってあらゆる時代に実践的に妥当し拘束力を持ってきたのはどんな人間にも一目瞭然である。そのため、義務が認識されるようになる。その意味で人間にはどんな救いも存在しない。原則このような受け入れを阻むのは、自らの責任が招いたある種の転倒あるいは欺瞞である。これは、人間すべての中にある腐敗であり克服できない。ちなみに現在なしている努力は、理性の教える「最も聖なるもの」と調和する意味を聖書に求めることである。これは、義務だと見なさなければならない。その上、「知恵ある」師が弟子たちに語られた人のことを現在をなしている努力は思い出せる。(Ⅵ,83ー84)

注釈

 その時代にとって唯一「ポピュラー」であった表象様式から神秘的な被いを取り去れば、あらゆる時代に実践的に妥当し拘束力を持ってきたものは、どんな人間にも一目瞭然である。そのため、「義務」が認識される。このような受け入れを阻むのは、自らの責任が招いたある種の転倒あるいは欺瞞である。これは、人間すべての中にある腐敗であり克服できない。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑲】たんなる理性の限界内の宗教|第2編第1章(c)(段落4~段落6)

 

[内容]

第2編 人間の支配をめぐっての善の原理による悪との戦いについて

第1章 人間支配への善の原理の権利主張について

c この理念の実在性に突きつけられる難問、およびその解決

 ・段落4 要約と注釈

 ・段落5 要約と注釈

 ・段落6 要約と注釈

 文献

 

[段落4]

要約

第3の最大の難問は、以下の通りである。人間は、悪からはじまった。この罪責は、人間から拭い去れない。これから送っていくはずのよい生き方でも、本人がその都度それ自体なすべき負い目を超えて余剰を作り出すこともできない。能力の及ぶ一切の善をなすことは、本人の義務である。人倫的悪には「心術」及び一般での悪であるがゆえ、罪責の「無限性」が伴う。どんな人間も、「無限の罰」と神の国からの排斥を覚悟しなくてはならない。(Ⅵ,71ー72)

注釈

 第3の最大の難問は、「人間は悪からはじまった」ということである。この罪責を、人間は拭い去れない。能力の範囲で善をなすことは、本人の義務である。人間はすべて「無限の罰」と神の国からの排斥を、覚悟しなければならない。

 

[段落5]

要約

この難問の解決の拠所となるのは、次の点である。人の心を知る神の判決は、被告の普遍的心術から導き出される。被告が心術を改善したことで、すでに神の満足の対象であるのに罪責の道徳的結果は、被告の心術が改善された状態にも関係づけられるかどうかが、この場合問題になる。改善後、人間はすでに新たな生命に生きていて道徳的には別人になっている。最高の義の前で、有罪者が刑を免れているはずはない。その義は満たされなくてはならない。罰は、神の知恵に適合するものとなり執行される。われわれが見なくてはならないのは、回心する状態の中によい心術を抱く新しい人間が自分の責任だと神の義が満たされるための「罰」だと見なすことができる禍が含まれるように、道徳的回心という概念だけですでに思惟されるかどうかである。(Ⅵ,72ー75)

注釈

  第3の難問解決の拠所は、次の点である。人倫的悪を犯した者、すなわち「被告」の罪責の道徳的結果は、被告の心術が改善された状態に関係づけられるどうかが問題となる。われわれが見なくてはならないのは、「道徳的回心」だけで「よい心術を抱く新しい人間」が思惟されるかどうかである。

 

[段落6]

要約

ここで更に問われるのは、罪責は負っているが神に嘉される心術へと次第に変わっていった人間が、「罪なしとされる」理念のような演繹に実践的使用があるのかということである。(Ⅵ,76ー78)

注釈

 更に、問われるのは次の点である。神に嘉される心術へと次第に変わった人間が、「罪なし」とされる理念のような演繹に実践的使用があるか、ということである。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑱】たんなる理性の限界内の宗教|第2編第1章(c)(段落1~段落3)

 

[内容]

第2編 人間の支配をめぐっての善の原理による悪との戦いについて

第1章 人間支配への善の原理の権利主張について

c この理念の実在性に突きつけられる難問、およびその解決 

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

第1の難問は、次のものである。法則によれば、「天のあなたたちの父が聖であるように、あなたたちも聖でありなさい」という。われわれが自らの中に実現すべき善と離脱しなければ、悪との隔たりは無限であり生き方が法則の聖性に適合していることについて時間の中で追いつけない。振舞は、法則と一致する普遍的で純粋な「格率」に措定されなければならない。これはひとつの「回心」である。「回心」は「義務」であり可能でなければならない。(Ⅵ,66ー67)

注釈

  第1章aより、「この理念」とは「善の原理の人格化された理念」である。道徳法則は、「天のあなたたちの父が聖であるように、あなたたちも聖でありなさい」ということを示す。われわれが自らの中に実現すべき善と離脱しなければ、悪との隔たりは無限である。われわれの生き方は、道徳法則の「聖性」に適合していることについて時間的に制約がない。われわれの行動や振舞は、道徳法則と一致する「格率」に措定されなければならない。このことを、カントは「回心」と呼ぶ。ここで、「回心」をカントは「義務」と結び付ける。

 

[段落2]

要約

第2の難問は、「道徳的幸福」に関するものである。道徳的幸福は、善について常に前進していく心術の現実性や「恒常性」の保証である。そもそも「そのような心術の不変性が堅く保証されていいれば」、絶えず「神の国を求めること」は、すでに自分がこの国を所有していることを知っているのと同じである。この心術を抱く人間は自ずと「その他一切も与えられる」と信じることになる。(Ⅵ,67ー68)

注釈

 善について、道徳的幸福は常に前進していく心術の現実性や「恒常性」の保証である。常に前進していく心術が不変性として確実に保証されていれば、絶えず「神の国を求めること」は、自分がこの国を所有していることを知っているのと同じである。

 

[段落3]

要約

自分の願いについて懸念を抱く人間には、「彼(神)の霊がわれわれの霊に証を与えてくれる」ことなどを参考にするよう指示してやることはできよう。人はうぬぼれに味方してくれるものに、思い違いをしやすいことはない。むしろ、「恐れとおののきをもって自らの浄福を得る」ことの方が有益である。しかし、一旦採用した心術に「まったく」信頼を置かないとすれば、その心術のままでいるという恒常性など不可能である。甘い狂信でも不安に満ちた狂信でも、それに身を委ねずとも心に定めた企図とこれまでの自分の生き方を比較することから信頼が現れてくる。(Ⅵ,68ー71)

注釈

  自分の願いについて懸念を抱く人間には、「神の霊がわれわれの霊に証を与えてくれる」ことを指示してやることはできる。人は、「恐れとおののきをもって自らの浄福を得る」ことの方が有益である。しかし、1度採用した心術に信頼を置かないならば、その心術のままでいるという恒常性など人は不可能である。甘い狂信であろうと不安に満ちた狂信であろうと、これら狂信に身を委ねず、心に定めた企図とこれまでの自分の生き方を比較することから信頼が現れてくる。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑰】たんなる理性の限界内の宗教|第2編第1章(b)(段落1~段落4)

[内容]

第2編 人間の支配をめぐっての善の原理による悪との戦いについて

第1章 人間支配への善の原理の権利主張について

b この理念の客観的実存性

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

実践的関係では、完全にそれ自身でこの理念[善の原理の人格化された理念]は実在性を有する。われわれは、この理念に一致してある「べき」である。合法則性一般の単なる理念が、合法則性のための動機であり得て、利益のために取ってこられるあらゆる動機より一層力強いものであることがどのように可能かは理性によって洞察できないし、経験の実例によって証明できない。(Ⅵ,62ー63)

注釈

  実践的関係では、「善の原理の人格化された理念」はそれ自体で実在する。しかし、この「合法則性一般の単なる理念」は、「合法則性のための動機」になり得て、また「利益のために取ってこられるあらゆる動機よりも一層力強いものであること」は理性では洞察できないし、経験によっても証明できない。

 

[段落2]

要約

法則に従えば、どんな人間も善の原理の人格化された理念の模範自体を正しく述べる。そのため、常に理念の中に「原像」はあり続ける。(Ⅵ,63)

注釈

  道徳法則に従うと、どんな人間も「善の原理の人格化された理念の模範」を正しく言語化できる。その理念の中に、「原像」があり続ける。

 

[段落3]

要約

神の心術を抱いた人間が、特定の時代にいわば天から地に降りて教えと生き方と受難によって、外的経験に求める限り神意に適った人間の「模範」自体を与えたとしても、その人の中に自然に生まれた人間以外の何かを想定する理由はない。この神人はこの高みと浄福を実際、永遠の昔から所有していたとか、この神人はこの高みと浄福を敵のためにさえ彼らを永遠の堕落から救おうとして、進んで放棄されたという思いはわれわれの心の中に賛美と愛と感謝の念を生じさせ、その人への好感を抱かせない。同様に、道徳性のこの完全な規則に適った振舞いという理念はわれわれが遵守すべき準則として妥当するものだと表象される。しかし、この神人そのものは模倣のための「模範として」表象され「ない」ことになる。純粋で気高い道徳的善が「われわれにも」達成できることの証明として表象されない。(Ⅵ,63ー65)

注釈

 「神の心術を抱いた人間」と同様、「道徳性の完全な規則に適った振舞い」という理念はわれわれが遵守すべき準則として妥当するものとして表象される。ただし、道徳的善が「われわれにも」達成できる証明にはならない。

 

[段落4]

要約

神の心術を持ちながら本来的に人間的な師ならば、真実をもって自身について語ることはできる。その場合、その人が話すのは自身が行為の規則としている心術だけである。しかも、その人が話すことは教えと行為を通して心術を外的に人目に供される。師が教えていることが誰にとっても義務であるならば、教えていることに師という非の打ちどころない模範を師自身のこの上なく純粋な心術だと見なすことはそれに対する反証がなければ、正当である。人間が当然そうすべきであるように、己の心術をこの師の心術に類似させるならば、心術はあらゆる時代あらゆる世界で、あらゆる人間に最高の義の前でも完全に妥当する。われわれの心術は、完全で誤りなくこの心術に適った生き方に存しなければならない。われわれの義のために最高の義を献じることは、可能でなくてはならない。(Ⅵ,65ー66)

注釈

  神の心術を持ち得ている師が教えていることが、誰にとっても義務であるならば、「師という非の打ちどころない模範」を純粋な心術だと見なすことは正当である。自身の心術を師の心術に近づけるならば、心術は「あらゆる時代、あらゆる世界であらゆる人間」に完全に妥当する。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑯】たんなる理性の限界内の宗教|第2編第1章(a)(段落1~段落4)

 

 [内容]

第2編 人間の支配をめぐっての善の原理による悪との戦いについて

第1章 人間支配への善の原理の権利主張について

a 善の原理の人格化された理念

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

世界を神の御心の対象とし創造の目的とする唯一のものは、「まったく道徳的完全性を備えた人間性」である。幸福は、最上制約としてこの完全性の最高存在者の意志に関する直接的結果である。(Ⅵ,60)

注釈

 「道徳的完全性を備えた人間性」とは理性的世界存在者一般である。幸福は道徳的完全性を備えた理性的な最高存在者の意志に関する結果である。

 

[段落2]

要約

道徳的完全性の理想にまで「高まる」ことは、人間の普遍的な義務である。この理念は、それを追究するまでわれわれが「高まる」よう力を与えてくれる。理念の方が、われわれの中に住むようになった。人間本性がこの理念に感受性を持ち得たことから、この理念の創始者はわれわれに理解できない。この原像は、天からわれわれのところに「降りてこられた」。(Ⅵ,61)

注釈

  道徳的完全性の理想まで高めることは、人間の普遍的な義務である。「道徳的完全性」という理念が、われわれの中に入り込んだ。ただしこの創始者は、われわれの理解を超える。この「原像」が天からわれわれのところに降りて来た。

 

[段落3]

要約

神意に適う人間性という理想を、われわれはある人間の理念の下でしか考えることができない。それは人間のあらゆる義務を自ら実行すると同時にできるだけ広範囲に渡って、自分の周囲に善を広めてゆくだけではない。この上なく大きな誘惑に試みられながらも、限りなく屈辱的な死に至るあらゆる受苦を世界の最善のために進んで引き受ける人間の理念である。(Ⅵ,61)

注釈

 「神意に適う人間性」という理想を、われわれ人間は自らの理念の下でしか考えられない。われわれは大きな誘惑にかられながらも、世界の最善のためにあらゆる困難を自ら進んで引き受ける。

 

[段落4]

要約

人間は「神の御子への実践的信仰」で神に嘉されるようになれるという、希望を持てるようになる。(Ⅵ,62)

注釈

 「実践的信仰」によって「神に嘉されるようになれるという希望」が持てる人は、受難にさらされても変わることなく人間性の「原像」に従う。またその人だけが、「神に嘉される」のに相応しくはない対象でないと思う資格を持つ。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。