ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【第2回】「趣味判断」について-『判断力批判』に即して-|「趣味判断」について【カント道徳哲学】

 

2.「趣味判断」について

 

 「趣味判断」とは、あるものを「美しい」と判定する判断のことである。この判断力は、特に美しいものの判定の能力として「美感的判断」(ästhetisches Urteil)とも呼ばれる。「趣味判断」の特徴として、次の2つが挙げられる。

 

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・主観的な要素が強い:趣味判断は、個人の好みや感性によって左右されるため、同じものでも人によって判断が異なることがある。

・理性的な要素も含まれる:趣味判断は、ある程度の客観性や理性的な判断が必要である。美しいと感じるためには、対象の特徴や背景などを分析し、考えることが必要である。

 

 上の2点からから分かるように、趣味判断は主観的な要素が強い一方で、ある程度の理性的な判断を要する。つまり、その価値を判断するために、ある程度の共通の美的基準が必要であるという点には留意する必要はある。

 

 主観的な要素があるという側面から考えると、「趣味判断」は個人が持つ利害や傾向性、そして道徳的な観点に基づいていない。つまり、「趣味判断」は主観的な感性に基づき対象物を美しいと判断する力であり、個人の価値観や社会的な判断基準に左右されない。

 

 カントによれば、私たちは快適なものや道徳的行為についての関心を持たなければ、それらから得られる満足を得ることができないとされる。しかし、あるものを「美しい」と言うためには、その対象物が個人が自分自身の表象から作り出すものとして問題となる。

 

 もしも美についての判断に少しでも何らかの関心が混ざるようであるならば、与えられた表象に下される判断は極めて偏ったものになる可能性がある。一方、「趣味判断」では、個人的な関心や傾向に基づく判断を排除し、あるものの性質によって、それ自身が美しいかどうかが問題となる。つまり、趣味判断は客観的な美的価値を追求することを目的とし、個人的な感情や思い込みに左右されない美的判断を追求するものとされる。

 

 次に、「趣味判断」の2つ目の特徴について述べる。「趣味判断」は、個人が自分自身の中で見出した主観的な条件を、自分以外の人間全員に普遍的な賛同を期待するとされる。カントの説明に即していえば、以下のような例が考えらる。

 

 例えば、誰かが「このワインはおいしい」と言った場合、他の人がその人に「それはあなたにとってこのワインがおいしいという意味でしょうね」と注意することがあるだろう。しかし、「このワインはおいしい」と言った人は、このことについてまったく不満を抱かないだろう。それは、快適なものや美しいものについては、個人の趣味や好みが重要な判断基準となるからである。

 

 しかし、美についての判断は快適なものと事情がまったく異なる。例えば、誰かが「大阪城は私にとって美しい」と言ったとき、それは笑うべきであるとカントは主張するだろう。

 

 なぜなら、カントの主張によれば、もしもあるものが単にある人だけを満足させることしかできなければ、それを「美しい」と言ってはいけないからである。誰かがあるものを「美しい」と言うとき、その人は、自分以外の人たちにも同じ満足を期待しそれを要求する。

 

 このように、カントは「趣味判断」によって美しいものを自分以外の人間にも要求することができる、と考える。

 

 以上、カントは、「趣味判断」をあるものを「美しい」と判定する判断のことである、と定義した。そして、「趣味判断」には主観的な判断である一方で、あらゆる主観に普遍的妥当性を要求するという特徴を持つことが分かった。

 

 カントは、「趣味判断」を普遍妥当性を要求するものとして特徴づける。その根拠として、カントは「共通感官」という概念を挙げる。次に「共通感官」について検討してみよう。【続く】

 

 

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【参考文献】