ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【カント道徳哲学】カント「不完全義務」の誤解の原因|2つの事例

 

  カントの「不完全義務」という考え方は、応用倫理学の中で取り上げられる。中でもボランティアや介護などについて倫理学的に議論する場合、「不完全義務」という考え方は引き合いに出される。

 

 しかし、『道徳形而上学ので基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)で、カントは「不完全義務」への定義づけを明確に行っていない。その結果、不明瞭な理解のまま、多くの論者が「不完全義務」について語っている。今回はその事例を2つ取上げる。

 

1.ペイトンの事例ー「不完全義務」は「傾向性」に都合のよい例外を許す

 

 「不完全義務」を、われわれの傾向性に都合のよい例外を許す、ということが示唆されているとペイトンは解釈する。

 

【参考:The Categorical Imperative】

The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy

The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy

  • 作者:Paton, H. J.
  • 発売日: 1971/10/01
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 ペイトンによれば、われわれは「不完全義務」の「格率」にどんな方法で、またどこまで従うのかを、恣意的に決定する権利を持つ。

 

 ただし、われわれはその「格率」を捨てる自由はなく、単に別の「義務」の「格率」によってそれを制限する自由があるだけである。例えば、隣人への仁愛の「義務」が両親への同じような「義務」によって、制限される場合である。

 

 確かに、ペイトンが出した事例は『人倫の形而上学』でカントが示した事例である。

 

 だからといって、「不完全義務」はわれわれの「傾向性」に都合のよい例外を許す、というわけではない。つまり、「不完全義務」はそれぞれ個人の「傾向性」のために行ってもいいし行わなくてもよい「義務」であるということではない。

 

 もしもそうであるならば、カントの「義務」への定義からも反するし、「定言命法」が提示する普遍化可能性からも反する。

 

2.川島秀一の事例ー「不完全義務」は不作為を例外として許す「義務」である

 

 川島秀一によれば、「不完全義務」はその義務の不作為が悪徳でなく、単に徳の欠如の意味で「ゼロ」としての不徳である。

 

【参考:カント倫理学研究】

カント倫理学研究―内在的超克の試み (西洋思想叢書)
 

  

 だから、「不完全義務」はその不作為を例外として許す義務である。総括的にいえば、「完全義務」は、人間性の尊敬を毀損するものから防衛して保存することによって、道徳的世界の成立のため、不可欠な自他の主体的基礎を確保する。

 

 一方、「不完全義務」は、その主体としての人間が、人間性の形式目的の下に企投する道徳的世界で、実質的に志向すべき豊かな実質的諸目的を積極的に規定する。この川島の解釈によると、確かに「不完全義務」の中に何らかの程度問題を見出すことができる。

 

 しかし、ペイトンの場合と同様、だからといって「不完全義務」はその不作為を例外として許す「義務」である、ということにはならない。

 

3.カント「不完全義務」誤解の原因は「完全義務」の定義による

 

 これら誤解の原因は、カントが「完全義務」を次のように定義したことに拠る。すなわちその定義とは、「完全義務」は「傾向性のために何ら例外を許さない義務」である、ということである。

 

 「完全義務」と「不完全義務」は対立した考え方であることから考えると、「不完全義務」をわれわれの「傾向性」のために、何らかの例外を許す義務であると定義したくなるのも無理はない。しかしこのように考えてしまうと、カントの道徳哲学への本来の目的から離れてしまう。

 

 『基礎づけ』の序文で、カントは「道徳性の最上の原理を探求し、それを確定すること」(Ⅳ,392)を自らの目的とする。その過程で、カントはわれわれの「常識」から「義務」を取り出し、「命法」を「仮言命法」と「定言命法」に分類した。そして「定言命法」は、「普遍可能性」を要求している。

 

【参考:コミュニケーション理論の射程】

 

  

 このカントの立場からから考えてみても、「不完全義務」をわれわれの「傾向性」のために何らかの例外を許す「義務」とは考えにくい。

 

まとめ

 

 このように、カントの「不完全義務」は誤った理解のまま今日まで至っている。その誤解の原因はカント自身にある。

 

 しかし、われわれは少ない手がかりを頼りにカントの「不完全義務」を改めて解釈し直さなければならない。その作業が、カント道徳哲学の発展に繋がるし、現代の倫理学に関してもカントの議論が有効な手がかりになることを示唆することができる。【終わり】

 

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