ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【ハイデガー】存在と時間|「自我」の存在否定

 

  ハイデガーは「das Man」という概念によって、近代的な「自我」としての「私」を否定したとされる。

 

 川原栄峰によれば、ハイデガーの「das Man」という概念は、20世紀の人々に大きな衝撃を与えた。デカルトやカントなどが生きた近代以降、独立自存した「自我」としての「私」が存在することは、当たり前の事実として認められてきた。しかし一方で、ハイデガーはこのような独立自存した「自我」としての「私」の存在を否定する。

 

 今回は、ハイデガーの「das Man」という概念を、以下の2つの手順で検討する。

 

 1つ目は、「das Man」という概念を原語、すなわちドイツ語に即して検討することである。「das Man」は、日本では一般的に「世人」あるいは「人々」と訳されることが多いが、邦訳された語で検討するよりも、原語で表現される「das Man」という語で考えた方が、ハイデガーの意図がより明確に読み取れる。

 

 2つ目は、「das Man」の特徴である「公共性」について検討することである。ハイデガーは、「das Man」の特徴として「懸隔性」、「平均性」、そして「均等化」を挙げています。このことを、竹田青嗣の解説を参考に検討する。

 

 以上の2つの手順で「das Man」という概念を検討することによって、この概念を比較的明確に理解することができる。具体的には、以下の内容である。

 

[内容]

■「das Man」とは誰でもない「誰か」

■「das Man」の特徴とは「公共性」

■「das Man」は現代の生きづらさに示唆を与えてくれる

 

■「das Man」とは誰でもない「誰か」

  まずは、「das Man」を原語であるドイツ語に即して検討する。ドイツ語で「das Man」のmanは、人を表す不定代名詞である。日本語では、「ある人」とか「世の中の人々」と訳される。

 

 「das Man」の邦訳である「世人」という言葉からも分かるように、「man」は一般的な人を指す。「das Man」は、「man」という語に中性の定冠詞である「das」が付いたものである。定冠詞「das」は、男性名詞でも女性名詞でもなく中性名詞に付く。このことから、「das Man」は男性でも女性でもなく、中性的な「誰か」を意味する。

 

 『存在と時間』の中で、ハイデガーは「das Man」を「この人でもあの人でもなく、自分自身でもなく、何人かの人々でもなく、そして全ての人々でもない」と規定している(邦訳:p.240上段)。

 

 この定義からも分かるように、ハイデガーは、「das Man」として特定の人物や集団を表現するわけではない。むしろ、「誰でもない誰か」を「das Man」として定義していると言える。

 

 以上のように、「das Man」は特定の人物やある人々の集団ではなく、「誰でもない誰か」として定義され、このような人々が日常性の存在のあり方を規定していると、ハイデガーは考えた。

 

■「das Man」の特徴とは「公共性」

 

  次に、「das Man」の特徴である「公共性」について、竹田の解説を参考に検討する。竹田は「das Man」の特徴として、「公共性」を挙げる。「公共性」には「懸隔性」、「平均性」そして「均等化」という「das Man」の存在の特徴が含まれるとされる。

 

 それでは「公共性」に含まれる「das Man」の存在性格を順に検討する。

 

【参考:ハイデガー入門】

ハイデガー入門 (講談社学術文庫)

ハイデガー入門 (講談社学術文庫)

  • 作者:竹田 青嗣
  • 発売日: 2017/04/11
  • メディア: 文庫
 

  

 まず、「懸隔性」について検討する。「懸隔性」とは、他者と自分の区別を常に気にする「das Man」の性格である。人間は、普通の状態で自分の「自我」の同一性を保持することが、最大の関心事である。しかし、「das Man」は自己同一性を持たず、他者との境界線を常に曖昧にしている。このため、「das Man」は常に他者との比較や評価によって自己を確認しようとする傾向がある。それによって、他者との区別があいまいになることを避けようとする。

 

 それは、もっぱら他者と比較してどのくらい優位な状態にあるか、ということで計られる。そのような他者との比較が可能なのは、この「懸隔性」が「das Man」としてのわれわれの中に存在するからである。

 

 次に、「平均性」について検討する。「平均性」とは、「das Man」としてのわれわれが、現実的に当然としているもの、人が通用するかどうかを決めたり、成果を評価する基準となるもの、あるいは人が成果を是認したり否認したりする基準となるものが、「das Man」の特徴である。

 

 「das Man」としてのわれわれは、善悪の価値判断や社会的に認められているものを注意深く吟味することがなく、むしろ無自覚に、このような世間的な価値判断を受け入れ、それに向かって自らの「自我」の同一性を保とうとする、ということになる。

 

 「均等化」は「平均性」の中で、個性的なものや異質なものを均一化する傾向がある「das Man」の特徴であると言える。「均等化」とは、「das Man」としてのわれわれが、「平均性」の中で、突出したものや個性的なものを排除する「das Man」の特徴である。

 

 ハイデガーによれば、われわれは皆が同じようにならなければならないという均質化の圧力を感じ、突出したものや変わったものを排除する傾向があるとされる。

 

 日本には、「出る杭は打たれる」ということわざがある。特に日本では、ある集団の中でその集団とは異なった人間や異質な人間を排除してしまう傾向が強いとされている。

 

 「均等化」として表現される人間の性質を、ハイデガーは「das Man」という存在として表現し、それを人間性の中に見出した。

 

■「das Man」は現代の生きづらさに示唆を与えてくれる

  

 われわれはハイデガーの「das Man」について検討してきた。その結果、ハイデガーは「das Man」を特定の人物やある人々の集団ではなく、むしろ「誰でもない誰か」として定義したことが分かった。この「das Man」には「懸隔性」、「均等性」そして「均質化」という「公共性」が存在することが確認された。

 

 近代以降、われわれは独立自存した「自我」の存在を認めてきたが、20世紀になってハイデガーは「自我」の存在を否定した。その考えは、彼の「das Man」という概念からも読み取ることができる。

 

 SNSの普及により、われわれは「個」として存在することを望む一方、「つながり」を求めることもある。また、会社や学校などで、集団とは異なる人間や異質の人間を排除する傾向から「いじめ」や「ハラスメント」などが見られる状況もある。

 

 現代の生きづらさを考える上で、ハイデガーはわれわれに何らかの示唆を与えてくれるかもしれない。【終わり】

 

【参考文献】

Heidegger.M,1927:Sein und Zeit

(邦題:存在と時間、原佑・渡辺二郎訳、『世界の名著 74』所収、中央公論社、1980)。

川原栄峰,1981:ハイデガーの思惟、理想社。 

高田珠樹,1996:ハイデガー存在の歴史(現代思想冒険者たち第08巻)、講談社

竹田青嗣,1995:ハイデガー入門、講談社

 

※ このブログの趣旨に反するが、学生時代に書いた小論文を加筆修正して掲載した。

 

↓その他参考文献↓