4. 『実践理性批判』での道徳的教育方法(その2)
【参考:過去記事】
【続き】
ただし、カントの道徳的教育方法は、ソクラテスの「問答法」を意識しているように思われる。『人倫の形而上学』によれば、教師は生徒の思想の産婆である。
教師は、自分の生徒の中に宿る、ある種の概念への素質を育成することによって指導する。
自分自身で考えることができると悟る生徒の反問によって、教師はいかに上手に質問しなければならないかを、学ぶ機会が与えられる。
【参考:嶋崎 太一,2019:「ソクラテス式問答」と道徳教育 :カントの教育方法学】
『人倫の形而上学』第2部第2編「倫理学の方法論」の「注 道徳的問答教示法の断片」では、「問答法」を活用した生徒と教師の実例を示している箇所がある。この「断片」では、教師からの問いかけと生徒の応答で成り立っている。
以下、第1段落から第3段落までを引用する。
【参考:人倫の形而上学】
1、教官。汝の人生における最大の、いやそれどころか全き要求は何か。
生徒。(黙して答えず)
教官。万事がつねに汝の望みのままになることである。
2、教官。このような状態は、なんとよばれるか。
生徒。(黙して答えず)
教官。それは幸福(不断のしあわせ、満ち足りた生活、自分の状態に全面的に満足しきっていること)とよばれる。
3、教官。では汝が(この世において可能であるかぎりの)あらゆる幸福を手中に納めているとしたら、汝はそれをすべて自分のために手放さずにおくか、あるいはまたそれを汝の隣人にも分け与えるか。
生徒。私はそれを分け与え、他のひとびとをも幸福にし、満足もさせるでしょう。(Ⅵ,480)
教師と生徒のやりとりが、これ以降、第8段落まで続く。
様々な質問を駆使し、答えに詰まると補いながら、未発達な子どもの心を道徳的善に向かわせる道筋を教師が示す。これが、カントの理想とする道徳的教育方法である。
本稿冒頭でも述べたように、大きな社会変化の中で「主体的・対話的で深い学び」の授業実践は必要である。
【参考:過去記事】
その実践の中で、必要なことは教師対生徒のような「問答法」的な授業方法ではないだろう。
むしろ、生徒対生徒のような双方向的な生徒同士で考えさせる授業を意識した方がいいと思われる。
その点について、「ケア論」的な教育実践を採用する方が適切だろう。
【参考 : 池谷 壽夫,2017:脆弱性,ケアと道徳教育】
さて、『実践理性批判』と平成30年告示『高等学校学習指導要領解説 公民編』を比較すると、両者に共通点が見出される。
それは、具体的事例に基づいて道徳的判断力を生徒間で善悪の評価を行うことを通して道徳的判断力を育成することを視野に入れていることである。
徳永正直も指摘するように、近年道徳の授業は予め設定された道徳的価値の「教え込み」(inculcation)に終始している。
その結果、子どもに「偽りの自己」としての「良い子」を演じさせる「隠れたカリキュラム」に道徳の授業は陥っている、と考えられる。
【参考:徳永 正直,2016:道徳教育の新たな可能性-「市民性教育」(citizenship education)との関係を考える-】
「教え込み」など教師の高踏的で驕慢な要求によって、子どもに道徳的効果を与える授業を回避し、「モラル・ジレンマ」を活用した方法が効果的である、とカントも文部科学省も考えているのだろう。【続く】
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