5.『啓蒙とは何か』での理性の公的な利用(その1)
『啓蒙とは何か』冒頭で、カントは「啓蒙」について次のように述べる。
【参考:啓蒙とは何か】
啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気も持てないからだ。だから人間はずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。(Ⅷ,35)
カントは、「啓蒙」を「みずから招いた未成年の状態から抜け出ること」と定義する。未成年の状態は、「他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができない」ことを意味する。そして、未成年の状態から脱し、彼は「自分の理性を使う勇気」を持つことを主張する。学校現場でも、自分で考える前に教師の指示を待っている生徒は少なからずいる。
「他人の指示を仰がなければ」行動できない未成年状態は、あまりにも楽なので、自分で行動できる人は僅かであることをカントも認めている。それでは、「未成年の状態から抜け出ること」ができないことは確かである。
平成30年度告示『高等学校学習指導要領』にもあるように、「人間としての在り方生き方を考え、主体的な判断の下に行動し、自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養う」ことは難しい。
【参考:『高等学校学習指導要領』(平成30年度告示)】
この問題について考えるひとつの手がかりとして、カントの「理性の公的な利用」という考え方が有効である。カントは「理性の公的な利用」を「すべての公衆の前で、みずからの理性を行使する」(Ⅷ,37)と定義する。これは何を意味するのだろうか。
「すべての公衆の前で」という部分から、自分の言葉で考えを述べ合いながら互いの考えを向上させる弁証法的議論であると解釈できる。みずからの理性を使って、互いに意見を述べ合いながら問題解決を図る態度の育成をカントも想定している。【続く】