人間とは、何か。
高等学校教科書『倫理』は、この問いから始まる。
ソクラテスやカントなど様々な哲学者の思想から学ぶ前にひとつの手がかりとして、高等学校教科書『倫理』は、人間と動物との違いから出発する。
まず高等学校教科書『倫理』の内容を引用する。
私たちは他の生き物と同様に生命を与えられて、今、ここに生きている。これからの人生をどのように生きれば、意味のあるものになるだろうか。そもそも、人間とはいったい何だろうか。(p.6)
このように人間として「生きる意味」や、そもそも「人間とは何か」考える出発点として、動物との違いを高等学校教科書『倫理』は明確化しようとする。例えば、「知恵こそ人間の特質」であると、高等学校教科書『倫理』は主張する。
しかし「知恵」のある動物は、人間以外にも存在することが、様々な研究や観察から分かってきた。このような一方的な主張が、むしろ人間と動物の区別をあいまいにする。
さて高等学校教科書『倫理』は、人間を以下の6つに定義する。
①ホモ・サピエンス(知恵のある人)
②ホモ・ファーベル(工作する人)
③ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)
④ホモ・シンボリクス(象徴を用いる人)
⑤人間は自然本性的にポリス的動物である
⑥ホモ・レリギオースス(信じる人)
確かに、⑥番は人間のみの特性であると思われる。しかし①から⑤は人間以外の動物にも、備わっている。以下、順に検討する。
①ホモ・サピエンス(知恵のある人)
このように主張した人物に、植物学者リンネ(瑞 1707ー1778) がいる。
【参考:Carl von Linné 】
彼は生物を分類する上で、人類にこのような学名を与えた。彼は、人間の優位性を「知恵」に見た。
高等学校教科書『倫理』も、次のように述べる。
人間は、自分たちには知恵があることを自覚してきた。近代の生物学では、種としてのヒト(人間)をホモ・サピエンスという学名で呼んでいる。これはラテン語で「知恵のある人」という意味であり、人間と他の生き物との違いをやはり知恵の有無で区別している。(p.7)
しかし、前述したように、「知恵」のある動物は人間以外にも存在する。次の動画を、見ていただきたい。
【参考:ジュースを買うフサオマキザル】
このサルは、東北サファリパークのサル劇場に出演しているフサオマキザルの「アキちゃん」である。確かに、生まれつきこのような行動をとったとは考えにくい。しかし、ジュースを買う人間の行動を観察し学習して、自らジュースを買って飲んでいることは推測できる。
リンネが主張するように、人間は「知恵のある人」であると定義することは正しいとは言い難いし、高等学校教科書『倫理』の内容も説得力を持たない。
②ホモ・ファーベル(工作する人)
このように主張した人物に、哲学者ベルクソン(仏 1859ー1941) がいる。
【参考:Henri-Louis Bergson 】
道具を作り操るという人間の特質に、彼は注目した。
しかし、道具を作り操るという行為は人間以外の様々な動物に見られることは分かっている。例えば、南太平洋に棲息するニューカレドニアカラスである。
【参考:カラスはやはり賢い 道具を使うだけでなく自分で作る】
それ以外にも、ラッコは貝類やウニ類を胸部や腹部の上に石を乗せ、それに叩きつけて割り中身だけを食べる。石を道具として操る能力が、ラッコにはある。また、オーストラリアの沖合で目撃されたシロクラベラは、貝を岩に打ちつけて殻を割り中身を食べる習性がある。
【参考:National Geographic(2011年7月14日付)】
ベルクソンが主張するように、人間は「工作する人」であると定義することは現在の研究結果からかけ離れている。
この主張を援用する高等学校教科書『倫理』の内容も、正確な記述とは言えない。
③ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)
このように人間を定義した人物は、歴史家ホイジンガ(蘭 1872-1945)である。
【参考:Johan Huizinga】
人間の特性を、必要から離れて「遊戯」を行う点に見る。
「遊戯」つまり「遊ぶ」という行為は、何も人間だけではないことは容易に観察できる。例えば、犬などは仲間同士で遊んだりじゃれ合ったりしている光景は身の回りでよく目にする。
【参考:はじめてドッグランで他の犬と遊ぶ柴犬どんぐり】
はじめてドッグランで他の犬と遊ぶ柴犬どんぐり Shiba Inu Donguri for the first time to play with other dogs in the dog run
ベルクソンが主張するように、人間を「遊ぶ人」と定義することは、身近な事例からも無理がある。
同様な主張を行う高等学校教科書『倫理』も、現実的ではない。
④ホモ・シンボリクス(象徴を用いる人)
他者と交わるとき、人間は言語や芸術を用いる。
哲学者カッシーラー(独 1874- 1945)は、同様の意味で「アニマル・シンボリクス」という言葉を用いた。
【参考:Ernst Cassirer】
しかし、言語を用いるのは人間だけでないことは最近の研究結果から明らかである。インターナショナル・キャットケアの最高責任者クレア・ベサントによれば、大人のネコは人間の言葉を200語から300語を理解する。
また彼らは特に、尻尾で自らの感情を表現する。
【参考:ネコ学入門】
人間以外の動物が芸術的活動を行えるかは定かではない。それにしても、人間のように言葉を発し文字を書けることだけが言語能力とは限らない。
「象徴を用いる」ことから考えると、例えばネコならば、気心が知れている仲間のネコと瞬きであいさつし鼻と鼻を近づけて互いを確認し合う。
また、ミツバチはいわゆる「8の字ダンス」で、仲間に蜜源の場所を知らせる。
【参考:ニホンミツバチの8の字ダンス】
このように考えるならば、様々な方法で、人間以外の動物もコミュニケーションをとっていると考えた方がよいだろう。
この事実から考えると、カッシーラーなどが考えるように人間だけが「象徴」を用いることも説得力を持たない。
他と同様、この考えも人間の定義として不十分である。
⑤人間は自然本性的にポリス的動物である
この言葉は、『政治学』第1巻第1章でのアリストテレスによる有名な定義である。
【参考:Aristotelēs】
「ポリス」とはすなわち「社会」を意味する。
人間は、社会集団の中で生活する動物である。「社会」の中には一定のルールや秩序があり、個々人が集団の中でそれぞれ役割を果たす。この特質が、人間の中にある。
一方、アリストテレスには動物は、無秩序で一定の役割を果たさない自由奔放な存在に映ったのだろう。
しかし、これもよく考えると、アリストテレスの主張は間違いだと気づく。
例えば、ハチやアリである。ハチやアリは、「女王バチ」や「女王アリ」を中心とした「社会」を形成する。その社会の中で、「働きバチ」や「働きアリ」が獲物を捕ったり、子育てをしたりする役割をそれぞれ果たしながら、ある一定の秩序を保って生活している。
このことから考えると、「自然本性的にポリス的動物である」という言葉は、単に人間だけを表すとは限らない。他の生物も、その集団の中で一種の「社会性」を保って生活しているからである。
「社会性」を持つことが人間の特質であるという高等学校教科書『倫理』の内容は、必要条件に当てはまらない。
まとめ
以上のように考えると、人間と動物の区別はむしろ明確化できなくなる。
確かに、動物とはいってもすべて一括りで考えることはできない。程度の問題はある。しかし少なくとも、高等学校教科書『倫理』が発した「人間とは何か」という問いへの答えは余計、あいまいさを増す。
芸術や宗教など人間固有の活動も確かにあるはずである。しかし、人間と動物に共通する部分の方が多いように思われる。
したがって、「○○だから人間は動物よりも優位である」という主張の多くは、当てはまらないだろう。
物事を批判的に見ることを哲学は要求する。教科書という「権威」を疑い、「常識」を疑い、自分自身で物事を深く考えることができるのあれば、動物と人間との共生の道が開かれるかもしれない。【終わり】
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