ネコと倫理学

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【要約と注釈②】たんなる理性の限界内の宗教|第1版序文(段落4~段落6)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第1版序文(1793年)

 ・段落4 要約と注釈

 ・段落5 要約と注釈

 ・段落6 要約と注釈

 文献

 

[段落4] 

要約

 「法則」の聖性についてこの上ない尊敬の対象を認識するとすれば、宗教の段階になると、「法則」を遂行する再興の原因について道徳は「崇拝」の対象を表象して厳かに現われる。限りなく崇高なものという理念を人間が自らの使用に役立てようとして手にかけると、一切が卑小になる。尊敬が自由である限りのみ崇敬できるものが強制的法律によって威信が、与えられるだけの形式に従うよう強制されることになる。(Ⅵ,8)

 
注釈

「法則の聖性」について前提となるのは、「道徳法則」への尊敬である。道徳が宗教に至るのは避けられないことから考えると、「宗教の段階」では「道徳が『崇拝」』の対象を表象して厳かに現われる」。ただし、「人間が自らの使用に役立てようと」自らの都合のいいように法則を使用するのであれば、「一切が卑小」になる。「道徳法則」への尊敬によって、「威信が与えられるだけの形式」つまり「べし」(Sollen)という「義務」に従うよう、われわれは強制される。

 

[段落5] 

要約

「当局に従順であれ」という命令も、道徳的といえば道徳的である。その遵守は、あらゆる「義務」の遵守と同じく宗教に関係づけられる。このような従順さの模範となることは、宗教の特定の概念を論じるような論稿にふさわしい。従順さが証明されるのは、法律こぞって尊敬することによってでしかない。書物を審判する神学者の魂の平安に配慮するためだけに任命されているか、諸学の平安に配慮するために任命されているかのどちらかである。あらゆる学問は侵害に対して保護されるように、公共の施設に委ねられる。その施設の一員としての学者でもある審査官には聖職者に過ぎない審査官の越権を、後者による検閲のために諸学の領野で破壊が引き起こされないという条件に制限する義務がある。それが共に聖書神学者ならば、この神学を論じるよう委託される学部の大学人である審査官の方が主任検閲官の職務にふさわしい。この規則から免れると、聖書神学者が諸学の誇りを傷つけ人間悟性の試み一切を独占してしまう。(Ⅵ,8-9)

 

注釈

 「当局に従順であれ」という命令も、道徳的である。「従順さ」は、「尊敬すること」によって証明できない。それは「書物を審判する神学者の魂の平安に配慮するため」に「任命されている」か、または様々な学問の「平安に配慮するために任命されているか」のいずれかである。「公共の施設」の一員として、「聖職者に過ぎない審査官の越権」を、「後者」つまり様々な学問の「平安に配慮する」ことによる「検閲のために」様々な学問分野で「破壊が引き起こされない」よう「制限する義務がある」。もしこの規制から脱すると、「聖書神学者」が様々な学問の「誇りを傷つけ人間悟性の試み一切を独占」することになる。

 

[段落6] 

要約

諸学の領野では、聖書神学には哲学的神学というものが向き合っている。これは、他学部から委託された財である。哲学的神学が単なる理性の限界に留まるならば、この神学には届く限りの範囲に広がっていくための十分な自由がなくてはならない。それが限界を踏み越えて聖書神学に干渉したことが明白ならば、主任検閲官の職務は「その学部の一員として」の聖書神学者だけに帰属する。(Ⅵ,9)

 

注釈

「哲学的神学」とは恐らく、理性の限界内での「神学」を意味する。一方、「聖書神学」とは理性の限界を超えた「神学」であると考えられる。「哲学的神学」が単に「理性の限界」に踏み留まるならば、この神学には可能な限りでの「範囲に広がっていくための十分な自由」が必要である。ただし、「哲学的神学」が「聖書神学」の範囲に干渉したならば、聖職者である主任検閲官の職務は「聖書神学」者の職務だけに属す。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。