ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【第2回】「定言命法」と「3つの格率」【カント道徳哲学】

 

 前回の記事で、『判断力批判』に即して「3つの格率」を検討した。『判断力批判』の「3つの格率」とは、以下の「格率」である。

 

①偏見に囚われない考え方の「格率」=自分で考えること

②拡張された考え方の「格率」=他のあらゆる立場に立って考えること

③首尾一貫した考え方の「格率」=いつも自分自身と一致して考えること      (Ⅴ,294-295 参照)

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考:判断力批判

 

 今回は「理性の公共的使用」という観点から、「3つの格率」に関するオニールの解釈を検討する。

 

[内容]

【第1回】『判断力批判』の「3つの格率」

【第2回】「3つの格率」に関するオニールの解釈

【第3回】「定言命法」と「3つの格率」に対する2つの提案

 

■「3つの格率」に関するオニールの解釈

 

 自らの著書の中で「理性の公共的使用」をキーワードに、オニールはカント解釈を進める。「3つの格率」に関して、彼が前提とする主張は次の通りである(※1)

 

・カントの原理は公共的でない理性使用の保護を促進しない。
・寛容が意見表明への反応と理解するならば、カントの原理はわずかなことしか要求しない。

 

 続けて『啓蒙とは何か』をテキストにして、カント解釈の上で「他者」との「コミュニケーション」をオニールは強調する。要約すると、次のようになるだろう(※2)

 

【参考:啓蒙とは何か】

 

 カントにとって、「公表可能生」とは公共的よりも根源的なものである。「何らかの権威を受け入れないまたは仮定しない人々」にも到達できるような「コミュニケーション」こそが、理性の完全な使用に相当するものとされる。

 

 どんな外的権威も前提としない「コミュニケーション」は、理性を公共的に使用するのに適する。

 

 たとえ範囲が小さくても、カントは理性的探求に携わる「学者」間での「コミュニケーション」を公共的と見なす。一方で、大衆の啓蒙は「公表可能性」と共に公共性を必要とする。

 

 同じ理由で、カントは友人同士の理性的議論や理性推論の内容の内的過程を公共的であるに相応しいと見なす。ただし、理性の権威以外を前提とする「コミュニケーション」すべてをカントは公共的とも「公表可能性」とも見なさない。

 

 オニールのカント解釈では、公共性と比較して「公表可能性」こそがより根源的である。「公表可能性」とは、他者に自らの考えを表明できる可能性であると考えられる。ただし、「理性の権威」以外を前提とする「コミュニケーション」すべてをカントは公共的とも、「公表可能性」とも見なさない。

 

 オニールの解釈に基づくと、カント道徳哲学は独話的ではなく、むしろ「他者」との「コミュニケーション」を意識していると考えられる。

 

 では、具体的にオニールは「3つの格率」をどう解釈したかについて以下のように順を追って検討する。

 
①偏見に囚われない考え方の「格率」

 この「格率」を採用することは、自分自身の判断を形成することである。同時に、この「格率」を採用することは単に他者の判断に導かれるだけにならないようにすることも意味する(※3)

 

 このオニールの解釈に従うと、単に他者や多数派が主張していることを自らの考えとしている人物は、カントが理想とする「自律」した人物にはなりえない。つまり、「他律」的に自身の考えを形成するのではなく、「自律」的に考えることが「格率」が普遍的法則として妥当するための必要条件である。

 

②拡張された考え方の「格率」

 超越的視点を前提しなければ、普遍的で独立した見解を採用することはある人自身の最初の判断を他者の判断の観点から見ようとするに過ぎない。「拡張された考え方の格率」を採用する人は、「他者」が実際に判断し「コミュニケーション」していることに耳を傾けなければならない(※4)

 

 このオニールの解釈に従うと、カントはこの「格率」で自己以外の「他者」を前提していると解釈できる。自己と他者との「コミュニケーション」を通じてのみ、自己を超越した視点を得ることができる。「拡張された考え方の格率」は、「他者」との「コミュニケーション」によって成立する。

 

③首尾一貫した考え方の「格率」

 前の2つの「格率」と比較して、この「格率」は「取るに足らないものであるように見えるかもしれない」。

 

 一方で、理性が複数の探求者の悟性と判断の間の首尾一貫性を達成するべきならば、首尾一貫した思考の「格率」は事実上、思考全体を整合的なものにする「格率」であるとして、「首尾一貫した考え方の格率」をオニールは認識する。

 

 われわれを取り巻く状況は常に更新される。更新されたデータを常に調査し、首尾一貫性を達成するため統合する課題に尻込みしない原理によって自らの目論みを導かなければならない(※5)

 

 オニールによれば、「首尾一貫した考え方の格率」はこのような態度を示唆している。

 

 「定言命法」と「3つの格率」についてオニールの解釈に従うと、以下の結論が得られるだろう。

 

偏見に囚われず自分で考える「格率」を起点に、「他者」との「コミュニーケーション」や更新される状況を通して「定言命法」を開放的な道徳法則として定式化している。

 

 道徳法則としての「定言命法」を、自己完結する閉鎖的なものではなく、「他者」との相互行為的な営みとしてカントは思い描いていたのだろう。

 

 では、「他のあらゆる立場」に立って考えられる「他者」とは一体誰か。また「拡張された自己」はどこまで「他のあらゆる立場」に立って「他者」を想定できるのか。次回、この問題について考察する。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

(※1)O'Neill.O.1989.邦頁66 参照。

(※2)O'Neill.O.1989.邦頁73ー74 参照。

(※3)O'Neill.O.1989.邦頁94 参照。

(※4)O'Neill.O.1989.邦頁97 参照。

(※5)O'Neill.O.1989.邦頁97ー98 参照。