【第1回】の記事で、カントの「不完全義務」は「例外を許す義務」という解釈は、カント道徳哲学の体系から大きく外れることを指摘した。
そして道徳の「普遍化可能性」を維持する目線をカントは常に保ち続けていると考えるならば、「義務」に例外を認める立場はカント道徳哲学にとってあり得ないという筆者の立場を明らかにした。
【参考:過去記事】
では、どう「不完全義務」を解釈すればよいか。その手がかりを、『人倫の形而上学』に求める。本記事の内容は、以下の通りである。
[内容]
【第1回】『基礎づけ』での「不完全義務」の位置づけ
【第2回】「活動の余地」としての「不完全義務」
【第2回】まとめ
■「活動の余地」としての「不完全義務」
「活動の余地」という概念は、『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)や『実践理性批判』の中では見当たらない。
【参考:道徳形而上学基礎づけ】
【参考:実践理性批判】
『人倫の形而上学』の中で、この概念は初めて登場する。端的に言うと、「活動の余地」はいつ、どこで、どの程度そしてどの方法で「義務に基づく」行為を行うかは各々の裁量に委ねられる。
『人倫の形而上学』で、「自然的完成」(Ⅵ,392)と「他人の幸福」(Ⅵ,394)を例に取り上げた後、カントは以下のように述べる。
他人の幸福を促進することは、そうした格率が普遍的法則とされたならば自己矛盾した格率となろうからである。それゆえ、この義務は広い義務であるにしかすぎない。そこである程度の活動の余地がこの義務はあり、その範囲を確定することはできない。(ibid.)
『人倫の形而上学』の中で「完全義務」に対して、カントは「不完全義務」を「倫理的義務」または「徳の義務」(Ⅵ,390)と位置づける。「自然的完成」と「他人の幸福」を「広い義務」として、カントは挙げる。
『基礎づけ』での「自己実現」と「親切」という「不完全義務」の例が、それぞれ「自然的完成」と「他人の幸福」と対応しているならば、『基礎づけ』や『実践理性批判』でのカントの議論は一貫しているだろう。
さて『基礎づけ』と『人倫の形而上学』から上記の引用箇所を検討すると、「他人の幸福」は「広い義務」に相当する。「広い義務」である「不完全義務」には、「ある程度の活動の余地」があり「その範囲を確定」できないことが、この箇所から明らかになる。
これは、「自然的完成」でも同様である。この点に関して、カントは以下のように述べる。
自分の自然的完成に関する人間の自己自身に対する義務は、たんに広いしかも不完全義務に過ぎない。なぜならこの義務はたしかに行為の格率に対する法則を含んではいるが、しかし行為そのものに関しては、その仕方および程度についてのなにも規定せず、自由な選択意志に余地を許しているからである。(Ⅵ,446)
この引用箇所からも分かるように、『人倫の形而上学』によれば「自然的完成」に関する自己自身への「義務」は「広い義務」または「不完全義務」である。
「他人の幸福」と同様、「自然的完成」も「その仕方および程度」について何の規定もない。なぜなら、その行為の格率は「自由な選択意志」に余地を認めているからである。
また『理性の構成』の中で、オニールも「不完全義務」を『人倫の形而上学』に即して解釈する。要約すると、次の通りになるだろう。
意欲に関わる非一貫性を明らかにする議論の実例は、「体系的に慈善を行わない」格率または「体系的に才能をなおざりにする」格率の採用が道徳的に無価値であることを示すに過ぎない。それら格率が基礎づける義務は、相対的に未確定な徳義務である。これら議論の第1の義務は「誰を・どの範囲で・どんな方法で・どれくらいのコスト」で助けることが、道徳的に価値があるかを規定しない。「慈善を行わない」という基本的意図を採用することが道徳的に無価値であることを単に明確にするだけである。同様に、2つ目の議論は「どの才能を・誰に・どの範囲で・どれくらいのコスト」で開発することが道徳的に価値を持つかを立証しない。「才能を開発する努力を行わない」という基本的意図を採用することが、道徳的に無価値であることを単に証明するに過ぎない。(O'Neill,1989,邦頁195ー196 要約.)
「意欲に関わる非一貫性」は、「定言命法」の「意欲の無矛盾性」と関係する(※1)。
「慈善を行わない」格率または「才能をなおざりにする」格率は、『基礎づけ』でいう「親切」と「自己実現」のそれぞれの反例である。また上記の引用箇所で、オニールのいう2つの格率は『人倫の形而上学』での「他人の幸福」と「自然的完成」に対応する。
オニールによれば、上記2つの格率は共に「誰を・どの範囲で・どんな方法で・どれくらいのコスト」で実践するかカントは規定していない。「慈善を行わない」格率や「才能を開発する努力を行わない」格率を採用することは「道徳的に無価値である」ことを単に証明するだけである。
【参考:Construction of Reason】
【参考:理性の構成】
『基礎づけ』の中で「完全義務」の例としてカントは「自殺」や「虚言」を挙げる。「自殺」にしろ「虚言」にしろ、いつ、どこで、どの程度そしてどの方法で自らを傷つけたかまたは嘘をついたのかは問題にならないだろう。程度に関わらず、とにかく「自殺」や「虚言」はカント的には義務に反する行為である。
この意味で「自殺」や「虚言」などの義務は、「活動の余地」のない「狭い義務」であり「完全義務」である。
【参考:過去記事】
【参考:過去記事】
一方、『基礎づけ』の中で「不完全義務」の例としてカントは「自己実現」や「親切」を挙げる。「自殺」や「虚言」に対して、「自己実現」や「親切」はいつ、どこで、どの程度そしてどの方法で行われたか考慮の余地はあり得る。「自己実現」や「親切」は程度や方法など各々の裁量に従い行為する「義務」であると考えられる。
この意味で、カントが挙げた「自己実現」や「親切」の「義務」は「活動の余地」がある「広い義務」であり「不完全義務」である。
【参考:過去記事】
【参考:過去記事】
ただしオニールも指摘するように、注意しなければならない点は、様々な状況を考慮して採用できたにも関わらず「自己実現」や「親切」の格率を採用しなかった場合、この格率は「義務」に反することになる。なぜなら『基礎づけ』でも『実践理性批判』でもカントが位置づけているように、「義務」は人間の意志を規定する強制力として考えられるからである(※2)。
【参考:過去記事】
■まとめ
以上、2回に渡りカント「不完全義務」を再解釈を行った。ペイトンやベックのように、「不完全義務」を「例外を認める義務」と解釈すると、道徳性の最上の原理の探求及びその確定というカント道徳哲学の目論みから「不完全義務」は大きく外れることになる。また、道徳の「普遍化可能性」を維持するカントの目線への担保ができなくなる。
そこで『人倫の形而上学』をテキストに、「不完全義務」を「活動の余地」を残す「義務」として解釈し直すことでカント道徳哲学の体系に一貫性が保たれるという対案を提出した。
この解釈が妥当であるならば、教育やボランティア活動について倫理学的に考える際にも、「不完全義務」は有効な概念になり得るだろう。
ただしひとつ懸念が生じる。それは、『人倫の形而上学』の中で「不完全義務」に「活動の余地」があることを認める一方、「不完全義務」に「活動の余地」を許容するがため、倫理学はある格率が個々の事例にどう適用されるべきかという判断力を要する決疑論に陥ることをカントが指摘する点である。(※3)。
カントの「決議論的問題」に深く立ち入ることは今回できないが、この点にカントは一筋縄ではいかない道徳的葛藤を見ていたのかもしれない。【終わり】
(※1)定言命法「意欲の無矛盾性」に関して、次の過去記事を参照.
(※2)『基礎づけ』で、カントは「義務」から道徳法則を導出する。一方『実践理性批判』で、道徳法則から「義務」を導出する。
(※3)Ⅵ,411 参照.
※私の知る限り、「不完全義務」を中心に取り上げた文献は少ない。「不完全義務」を研究する上で、数少ない有益な資料。
●筆者によれば、「倫理的義務」が「不完全義務」であるということは『人倫の形而上学』の基本命題である。
【参考:愛と正義の構造】
●「完全義務」と「不完全義務」についての基本文献。