ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【第1回】子どもへの教育実践は「不完全義務」か-『理性の構成』を手がかりに【教育倫理学】

 

 前回の記事で、カント「不完全義務」は「活動の余地」を持つ「義務」であるという結論を示した。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 教育倫理学的視点で理解するため、この結論を足がかりに、子どもへの教育実践は「不完全義務」であるかという問いについて考察する。

 

 この作業を、カントに忠実な解釈を行うという評価が高いオニール(注1)の『理性の構成』を手がかりに、2回に渡り行う。

 

 内容は、以下の通りである。

 

[内容]

【第1回】子どもへの「義務」で要求されること3点

【第2回】子どもへの教育実践と「不完全義務」

【第2回】まとめ

 

 子どもへの教育実践について考える前に、子どもへの「義務」それ自体について『理性の構成』でのオニールの立場を検討する。

 

子どもへの「義務」で要求されること3点

 

 まず始めに、「子どもたちの生活」それ自体についてオニールはどう考えているかを確認する。『理性の構成』第10章「子どもたちの権利と生活」で、オニールは子どもたちの生活を次のように定義する。

 

子どもたちの生活は決して私的な問題ではなく、子どもたちの権利を促進することによってかなえられうる一つの公共的な関心事なのである。(O'Neill,1989,邦頁367)

 

 この箇所からも分かるように、オニールは「子どもたちの生活」をひとつの「公共的な関心事」として捉えている。

 

 「子どもたちの生活」は、単に家庭だけはない。学校教育の場も、「公共的な関心事」として彼/彼女たち生活の場であると考えられる。

 

 さて、『理性の構成』でオニールは子どもへの「義務」で要求されることを以下の3点に整理する(注2)

 

①「すべて」の他者にこの種の行為を果たすことあるいは控えること

②「特定」の他者にある行為を果たすことあるいは控えること

③「不特定」の他者あるいは「すべてとは限らない」他者にある行為を果たすことあるいは控えること 

 

 では、オニールの言う子どもを教育する「義務」で要求されることは何か。以下、3点を順に検討する。

 

①「すべて」の他者にこの種の行為を果たすことあるいは控えること

  

 オニールの言う「すべて」の他者とは、子どもたち「すべて」を意味する。『理性の構成』での「この種の行為を果たすことあるいは控えること」とは、子どもたちすべてを「酷使したり性的虐待しない」ということである。この行為は、われわれすべてが「義務」の行為主体となる。

 

 この意味で、酷使したり性的虐待をされない権利を所有する者はすべての子どもとして「特定される」(O'Neill,1989,邦頁371)。「子どもたちを酷使したり性的虐待しない義務」は、「普遍的義務」である(ibid.)。

 

 なぜなら、「誰に対しても責任を負っている」(ibid.)からである。この意味で「普遍的義務」は「完全な」(O'Neill,1989,邦頁371-371)または「完璧な義務」(O'Neill,1989,邦頁371)である。

 

 カント的に考えると、①のオニールの視点は「完全義務」として考えられる。「酷使したり性的虐待をしない」という「義務」は、どの子どもにも該当する。どの子どもにも、われわれはこの「責任を負っている」。

 

 また、子どもを「酷使する」ことや「性的虐待をする」という行為それ自体が義務違反である。両者の行為に程度問題は発生しない。

 

 この意味で、子どもを「酷使したり性的虐待しない」という「義務」は、カントの言う「狭い義務」(Ⅳ,424)つまり「完全義務」として考えた方がよい。

 

②「特定」の他者にある行為を果たすことあるいは控えること 

 

 オニールによれば、「特定」の子どもにその「ケアを引き受けてきた人々」(O'Neill,1989,邦頁371)はその子どもたちに「義務」を持つ。

 

 「特定」の子どもへの「義務」は、「完璧にあるいは完全に」(ibid.)その主体は特定される。その「義務」は「完全義務」ではあるが、「特定の行為主体によって特定の子どもたちに対して果たされる」(ibid.)。

 

 まず、ここで確認しておきたいことが2点ある。

 

 1つ目は、オニールは子どもを具体的に示していない点である。

 

 本書によれば、②に対応する「義務」は「完全義務」である。ただしこれは、「特定の行為主体」(ibid.)に対応して「特定の子どもたち」(ibid.)に果たされる「義務」である。「民法」に照らして子どもを0歳から17歳までと考えるならば(注3)、それぞれ年齢に応じた発達段階がある。

 

 また障害の有無や家庭環境なども考慮すると、子どもは多種多様な存在である。その年齢や環境に応じて対応すべき行為主体や方法は、異なってくる。

 

 2つ目は、オニールが「ケア」を厳密に捉えていない点である。

  

 『ケアリング』の中でノディングスが言うように、「ケア」の「精神的な関わり合い」(Noddings,1984,邦頁3)をもちろんオニールも踏襲しているように思われるが(注4)、「ケアを引き受けきた人々」は様々な子どもの状況に応じて存在する人々だと理解できる。

 

【参考:Caring-A Feminine Approach to Ethics & Moral Education】

 

 両親だけでなく例えば乳児であれば保育士であり、児童であれば小学校教諭などである。その他、障害の有無や家庭環境などに応じて、特別支援学校教諭やソーシャルワーカーなども考えられる。

 

 このように、「特定の子どもたち」に応じて「特定の行為主体」が決定される。それに応じた「ケア」が、それぞれの子どもに果たさなければければならない。

 

 この意味で②の「義務」は「完全義務」であるが、「特定の子どもたち」に応じて「行為主体」が特定されるとオニールは明示しているのだろう。

 

③「不特定」の他者あるいは「すべてとは限らない」他者にある行為を果たすことあるいは控えること

 

 ③に関してオニールによれば、子どもを「ケア」するためにわれわれ大人は次の2種類の「義務」を持つ(注5)

 

・親切であり思いやりを持つ

・大人の面倒をみなければならない時とは異なる方法で面倒をみる

 

 確かに、上記2つの「義務」は行為者すべてを拘束するかもしれない。

 

 しかしこの「義務」は、特定された権利の所有者が存在しない。どの権利の遂行を、要求も放棄も誰もできない。したがって、基本的な義務を履行された結果は状況に応じて異なる。

 

 また社会的で制度的文脈から分離されて考慮された場合、普遍的でない基本的義務は「完璧ではない」あるいは「不完全」である。

 

 ここで、オニールの議論を検討する。まず「大人」と「異なる方法で面倒をみる」とは、どういうあり方なのか。

 

 この疑問を解決するため、カントの『教育学』がひとつの手がかりになり得る。

 

 『教育学』冒頭で、カントは次のように述べる。

 

人間は教育されなければならない唯一の被造物である。教育とは、すなわち養護(保育、扶養)と訓練(訓育)と教授ならびに陶冶を意味する。これに従って、人間は乳児でありー生徒であり―そして学生である。(Ⅸ,441)

 

【参考:教育学】

 

 『教育学』によれば、教育とは「養護・訓練・教授・陶冶」である。これに従って、「乳児・生徒・学生」に教育を施す。「乳児・生徒・学生」とは、子どもを意味する。それ以外の存在を、「大人」と理解していいだろう。

 

 ということは「大人」と「異なる方法で面倒をみる」とは、「養護・訓練・教授・陶冶」と考えていいだろう。

 

 ③の記述から、オニールが見ている「義務」の対象の視野は広いように思われる。つまり、「義務」の対象として眼前に存在しない子どもにまでオニールは拡大している。

 

 そのような子どもを、「不特定」の他者あるいは「すべてとは限らない」他者とオニールは呼ぶ。

 

 例えば「不特定」で「すべてとは限らない」子どもとは、遠くの国にいる子どもであり、これから誕生する子どもを意味するのかもしれない。

 

 いずれにせよ、今眼前にいない子どもを考えるならば、「権利の所有者」は存在しないし「義務」を履行された結果は状況に応じて異なる、というのがオニールの見解である。

 

 この意味で③は、「完璧ではない」あるいは「不完全」な「義務」である。

 

 以上、オニールの見解に従って子どもへの「義務」で要求される3点を検討してきた。この結果から、次のことが考えられる。

 

 すなわち①の対象は、子どもたちすべてである。①は、子どもすべてを「酷使したり性的虐待をしてはいけない」という「義務」である。①の対象は既に決定され、それに合わせた「義務」も決定している。

 

 カントの用語で言い換えると、①で要求される「義務」は対象も行為も「狭い」すなわち「完全」である。

 

 ②の対象は、「特定」の子どもである。その子どもたちに応じて「特定の行為主体」の役割が代わり、その役割に応じて子どもへの「ケア」が変わってくる。

 

 カントの用語で言い換えると、②で要求される「義務」は対象が「特定されている」という意味で「狭い」すなわち「完全」であるが、役割に応じて子どもへの「ケア」の方法が変わってくるという意味で「広い」すなわち「不完全」である。

 

 ③の対象は、「不特定」の子どもである。「義務」を履行された結果は状況に応じて異なる。

 

 カントの用語で言い換えると、③で要求される「義務」は対象も行為も「広い」すなわち「不完全」である。

 

 『理性の構成』の議論に基づくのであれば、直接関わらなくても「酷使したり性的虐待」しないというように、子どもたちの心身や生活を保護するというわれわれの道徳的態度が「完全義務」として基盤となるだろう。

 

 更に子どもへの教育実践に考えを進めるならば、教師に代表される立場は、②という子どもへの「義務」を要求されることになるのだろう。この考察は、次回へ続く。【続く】

 

(注1) 「オニールのカント研究は、英米圏のカント研究の中で最も洞察と分析に優れたものの一つであると同時に、カントに忠実な解釈であるとして現在でも変わらず高く評価され続けてきている。」(加藤,2020,462)

 

(注2)  O'Neill,1989,邦頁370-372 参照.

 

(注3) 2022年4月から日本では18歳成人に引き下げられる。今回はその法的基準に準じた。

 

【参考:政府広報オンライン

www.gov-online.go.jp

 

(注4)邦訳書は次の書籍を参考。『ケアリング 倫理と道徳の教育ー女性の観点から』、立山・林他訳、晃洋書房、1997年.http://www.koyoshobo.co.jp/book/b312849.html 

 

(注5) O'Neill,1989,邦頁372 参照.

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp