ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【第2回】子どもへの教育実践は「不完全義務」か-『理性の構成』を手がかりに【教育倫理学】

 

 前回の記事で『理性の構成』を基に、教師に代表される教育実践を司る立場は「特定」の他者である眼前の子どもに、ある行為を果たすことあるいは控える「義務」を要求される、という結論を提示した。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 更に歩を進めるため、『理性の構成』での該当箇所を引き続き検討する。

 

[内容]

【第1回】子どもへの「義務」で要求されること3点

【第2回】子どもへの教育実践と「不完全義務」

【第2回】まとめ

 

■子どもへの教育実践と「不完全義務」

 

 『理性の構成』の中でオニールは、「不完全義務」について次のように述べる。

 

不完全義務は、伝統的には、援助・配慮・思いやり・才能の開発などの事柄を含むと考えられており、他者はそれらの事柄が具体的に実行されることに対して権利を持っていないけれども、行為者は何らかの形でいずれかの他者へその事柄を実行することを義務づけられている。(O'Neill,1989,邦頁388)

 

 上記の箇所によれば、伝統的に「不完全義務」は「援助」や「才能の開発」などの事柄を含む。それら事柄が、具体的に実行されることへの権利を他者は持たない。

 

 一方、行為者は何かの形でいずれかの他者へ、その事柄を実行することが義務づけられる。

 

『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の中で、確かにカントは「不完全義務」の事例として「自己実現」と「援助」を挙げている(注1)

 

 また『人倫の形而上学』の「徳論」の中でも、「自己の完成」(注2)と「他人の幸福」を「不完全義務」としてカントは挙げていることが読み取れる。

 

【参考:道徳形而上学の基礎づけ】

 

【参考:人倫の形而上学

 

 これまでの議論から、ここでいう「他者」とは眼前にいる子どもであり、「行為者」とは教育実践を司る立場である教師であると考えられる。

 

 ということは伝統的カント解釈では、「不完全義務」は「援助」や「才能の開発」を含む「自己の完成」を含む。それら事柄が、具体的に実行されることへの権利を子どもは持たない。

 

 一方、行為者である教師は何らかの形で子どもにその事柄を実行することは「義務」である。

 

 このオニールの主張を受け容れるならば、教師という立場は次のようになるだろう。すなわち、教師は子ども自身の「自己の完成」とその「援助」という「不完全義務」を遂行する立場であると。

 

 この立場と共に「行為者は何らかの形でいずれかの他者へその事柄を実行することを義務づけられている」という記述から、『人倫の形而上学』での「活動の余地」を残す教育実践を、オニールは教師に要求していることが窺える。

 

 では、なぜ子どもは「自己の完成」に対する「援助」が必要なのか。この点に関して、オニールの次のような人間観から読み取ることができる。

 

人間は単に理性的存在者であるだけではない。人間の合理性と相互間での自立性-それはまさに人間の行為者性の基礎である-が不十分であり、相互に傷つきやすく、社会的に生み出されるという意味で人間は傷つきやすく、援助を必要とする存在でもある。(O'Neill,1989,邦頁388-389 太字は筆者)

 

 この箇所で、オニールは人間を「理性的存在者」である同時に「傷つきやすく、援助を必要とする存在」という人間観を提示する。これは、「理性的存在者」である同時に「感性的存在者」であるというカントの人間観を踏襲していると考えられる。

 

 特に「傷つきやすく、援助を必要とする」特定の時期が存在する。それが、オニールにとっての子どもの時期である。

 

 続いて、オニールは子どもの教育と「不完全義務」について『基礎づけ』の「普遍的法則の方式」の「意志における無矛盾」で用いられた論じ方を基に、持論を展開する(注3)

 

援助も必要とする多くの個別的な理性的存在者は、相互無関心という原則に基づいて普遍的に行為することはできない。もし理性的存在者がそのようなことを行うならば、その時期に行為の原則を採用できない者に対する行為者性は衰えて縮小してしまう。その結果として普遍的に共有されうる原則に基づく行為の可能性そのものが蝕まれてしまうであろう。理性的であると共に援助を必要とする存在者が、相互に[自分に対する]すべての援助を拒否するという原則、あるいは、行為のための能力を強化し、発達させるための努力を何も行わないという原則に基づいて行為することは、普遍的なものとしては可能ではない。(O'Neill,1989,邦頁389)

 

 援助を必要とする「理性的存在者」は、相互無関心という原則に基づき普遍的に行為できない。

 

 もし「理性的存在者」がそのように行為するならば、子どもの時期に行為の原則を採用できない者への行為者性は縮小する。

 

 理性的であると同時に援助が必要である存在者が「援助すべてを相互に拒否する」という原則、あるいは「行為のための能力を強化し発達させる努力を何も行わない」という原則に基づく行為は、普遍的ではあり得ない。

 

 ただし、オニールは「他者」として子どもすべてを援助する限界を認める。同時に、子どもの能力を援助し発達させる義務は、「不完全義務」でなければならないことをオニールは明らかにする。

 

 こうした義務によって要求される特定の行為には、「活動の余地」が残される。子どもと共に生活し働く教育実践者としての教師は、彼/彼女の「ケア」と教育の双方に積極的に参加しなければならない。

 

しかしながら、あらゆる仕方ですべての他者を援助することは不可能である。だからこそ他者の能力を援助し発達させる義務は不完全義務でなければならない。こうした不完全義務は、特定の他者への援助となる特定の行為を指示しない。不完全義務の構成が、合理的であると共に援助を必要とする存在に対して委ねるのは、人間の潜在的能力を援助することの原則的な拒否とその潜在的能力を発達させることの原則的な放置を避けることだけである。こうした義務によって要求される特定の行為は、生活が異なれば、それに応じて変化する。子どもたちと共に生活し働く者は、[子どもたちのケアと教育の両方に関して]何もしないことが上記の義務を原則的に拒否することにはならないとしても、子どもたちのケアと教育の双方に積極的に参加しなければならないと考えるであろう。(O'Neill,1989,邦頁389-390)

 

「他者の能力を援助し発達させる義務」は、「不完全義務」でなければならない一方、すべての他者を援助することは不可能であるし、「不完全義務」は特定の他者への援助となる特定の行為を支持しないという「活動の余地」をカントに従ってオニールは認めている。この箇所は、注目すべき点である。

 

 これを子どもへの教育実践に置き換えると、次のようになるだろう。

 

 すなわち、「他者の能力を援助し発達させる義務」として子どもへの教育実践は「不完全義務」である、と。

 

 ただし、すべての「他者」である子どもたちを援助することは不可能である。また「不完全義務」は「活動の余地」があるため、眼前にいる特定の子どもたちに援助する行為は特定的ではない。

 

 これは子どもたちへの教育実践はもちろんそれ以外の「ケア」も同様であり、双方積極的に参加しなければならない。この活動の主体となるのは、学校現場では主に教師である。

 

■まとめ

 以上、『理性の構成』での議論をまとめると、教師の役割に代表される教育実践は「不完全義務」であることが結論づけられただろう。「他者」としての子どもの「能力を援助し発達させる」ことは「義務」である一方、その範囲は限定的であり方法も特定的ではない。

 

 本稿で子どもへの教育実践のあり方が明示されたが、カントは子どもへの教育実践を具体的にどう考えていたか。ここに足を踏み入れることはできないが、『実践理性批判』や『人倫の形而上学』で登場する「道徳的問答教示法」がカントによるこの問いへの回答である(注4)

 

 教育は理論と実践が、両輪でなければならない。子どもへの教育について、学校現場や地域で取組まれた実践事例なども大いに有効であろう。一方で、カントに代表される古今東西の哲学者などの考えも示唆に富む。

 

 子どものため、または社会全体の利益に繋げるため教育実践は日々行われる営みであることは間違いない。その目標を見失わず、理論が実践を伴っているか、また実践が理論を根拠としているかという点を常に自己点検し、日々子どもたちと向き合う姿勢こそ教師にとって必要であるように思われる。【終わり】

 

(注1) Ⅳ,422-423 参照。

 

(注2) 『人倫の形而上学』では「自己の完成」について、能力開発を意味する「自然的完成」と「道徳的完 成」という両方の発展と増大を「不完全義務」としている。

 

(注3) O'Neill,1989,邦頁391 参照。

 

(注4)「道徳的問答教示法」について、『実践理性批判』の第2部「純粋実践理性の方法論」及び『人倫の形而上学』の「徳論」第2編「倫理学方法論」を参照。その他、以下の論文も参考になる。

 

・中沢哲,2001:カントにおける道徳教育方法論の思考法、『教育哲学研究 巻 83 号』所収、教育哲学会、2001年.https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyouikutetsugaku1959/2001/83/2001_83_60/_pdf/-char/ja

 

・広瀬悠三,2013: 子どもに道徳を教えるということ-カントにおける道徳的問答法の意義を問う、『京都大学大学院教育学研究科紀要 59』所収、京都大学大学院教育学研究科、2013年. https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173243/1/eda59_291.pdf