『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の到達地点は、「道徳性の最上原理を探求し、それを確定すること」(Ⅳ,392)である。その到達地点に向かうため、『基礎づけ』でカントは「善意志」(guter Wille)を出発点とする。
その意味でも、カント道徳哲学の中で「善意志」は重要な位置を占める。しかしカントは、「善意志」についてあまり明確に語っていない。
そこで、本記事では「善意志」の意義を明らかにすることを目的とする。本記事の結論は次の通りである。
善意志以外のあらゆる価値からの絶対的優位性を「善意志」に与え、それを自明のものとしてカントは認めていた。
上の結論を示すため、『基礎づけ』をテキストとして使用することはもちろんであるが、加えて『ロールズ 哲学史講義 上』を参考にする。
『基礎づけ』で、最終的に「道徳法則」(moralisches Gesetz)をカントは導き出すことになる。その出発点となる「善意志」の意義を明確にすることは、カント道徳哲学全体の理解を一層深めることに繋がるだろう。
[内容]
■自明としての「善意志」
■「善意志」の絶対的優位性
■まとめ
■自明としての「善意志」
『基礎づけ』第1章「通常の道徳的理性認識から哲学的な道徳的理性認識への移行」は冒頭、次の1文から始まる。
この世界のうちで、いやそれどころか世界の外においてすらも、無制限に善いとみなしうるものがあるとすれば、それはただ善意志のみであって、それ以外に考えられない。(Ⅳ,393)
この箇所でのポイントは、「善意志」を「世界の外」であっても「無制限に善い」とカントが捉えている点である。冒頭から、カントは「善意志」の中に、すでに自らの「道徳法則」への普遍化可能性の萌芽を見出しているように思われる。
ところで、なぜカントは「善意志」を「道徳性の最上原理を探求し、それを確定する」(Ⅳ,392)ことを出発点としたのか。そもそも「善意志」とは一体何なのか。このような疑問が出てくるだろう。しかし、カントは「善意志」を出発点とした意図やその定義すらも行わない。
河村も指摘するように、カントは「善意志」を誰もがすでに了解しているものとして語り始める。そこで前提されているのはヨーロッパ近代の社会道徳であり、その基礎となるキリスト教道徳である。ここに提示されている「善意志」は、特殊ヨーロッパ的な概念である。(注1)
この河村の説明は、興味深い。ということは、ヨーロッパ文化圏以外では必ずしも「善意志」は自明性を持たなくなる。「善意志」が普遍性を持つかどうかは、実際のところ疑わしい。
この点を深入りすると、本論から外れるのでこれまでとするが、「善意志」は自明のものであるという共通認識の下、カントは持論を展開する。次にロールズの解釈を手がかりに、「善意志」の意義について探っていく。
■「善意志」の絶対的優位性
「善意志」という用語をカントは定義していないことを認めながら、ロールズは『基礎づけ』第1章第3段落にその糸口を求める。(注2)すなわち、われわれの「人格のあり方」(邦頁 233) や「傾向性から求めるもの」(ibid.)から「善意志」を区別する方法を採る。
ロールズのまとめによると、次のようになる。(注3)
【カントが区別するわれわれの人格のあり方】
・精神面での才能:知性、機知、判断など
・気質:勇気、意志の強さ、目的貫徹など
これらの性質の中に、「善意志」にとって特に役立つものもある。
【傾向性から求められるもの】
・運に恵まれること。権力、富、健康など
・自分の境遇に完全に満足しているという意味での幸福。理屈にあった仕方で自然な欲求が満たされいること
上の2つは、「二次的な価値」(邦頁 234)でしかない。これらが価値を持つのは、意志が普遍的な目的を追求する上で助けになる条件のみである。
ロールズのカント解釈を方法論的にみると、「善意志は○○ではない」というアプローチから、「善意志」の特徴を炙り出す彼の試みが確認できる。ロールズの立場に立つと、「善意志」はわれわれの「人格のあり方」でもなく「傾向性から求められるもの」でもない。
『基礎づけ』の記述にあるように、善意志は「それ自体によって善い」(Ⅳ,394)ものである。そして善意志は「すべての傾向性全体のための満足のためにもたらすかもしれない一切のものよりも比較を絶して高く評価されるべき」(ibid.)ものである。
このように考えると、「善意志」はわれわれの道徳的なあり方を超越した絶対的価値を含むものであると考えられる。このことに関して、ロールズは以下のように述べる。
善意志はあらゆる条件下でつねにそれ自体で善だが、他方で善意志以外のすべてものはある特定の条件の下でのみ善である。そしてこのことは、仮言的善がそれ自体で善である場合も、手段として善である場合も、あるいはその両方である場合も、いずれにせよ成り立つのである。(邦頁 236)
『基礎づけ』の文脈に照らして考えてみても、善意志以外のものは「仮言的善」なのかもしれない。つまり善意志以外は、すべて「目的のための手段」として善い。このように考えられる。
その結果、「善意志」の2つの際だった特徴をロールズは指摘する。(注4)
・善意志は無条件に常にそれ自体で善である。
・善意志はそれ自体で善い他のすべてのものより価値がある。
この特徴から分かるように、カントは「善意志」に「特別な位置」(邦頁 236)を与えている。それはあらゆる価値への「優位性」(ibid.)である。
■まとめ
以上、本記事では『基礎づけ』での出発点である「善意志」をロールズの解釈を手がかりに検討した。「善意志」を『基礎づけ』での出発点とした意図や、その定義づけをカントは示していないことが明らかになった。
それは善意志以外のあらゆる価値からの絶対的優位性を「善意志」に与え、それを自明のものとしてカントは認めていたからであろう。
『基礎づけ』の出発点として「善意志」を据えたことは、カントに道徳に関する何らかの確信があったからかもしれない。【終わり】
(注1) 河村,2009, 参照。本論文は前批判期、批判期そしてそれ以降で「善意志」という用語のニュアンスが変遷していることを知る上で参考になった。
(注2)Rawls.J,2000,参照。
(注3)Rawls.J,2000,参照。
(注4)Rawls.J,2000,参照。
【参考文献】
●Kant.I,1785:Grundlegung zur Metaphysik der Sitten(邦題:訳注・カント『道徳形而上学の基礎づけ』、宇都宮芳明著、以文社、1989年.).
●Paton.H.J,1947:The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy(邦題:定言命法ーカント倫理学研究、杉田聡 訳、行路社、1986年.).
●Rawls.J,2000:Lectures on the History of Moral Philosophy(邦題:ロールズ哲学史講義(上)、バーバラ・ハーマン編、坂部恵監訳、みすず書房、2005年.)
●藤本 一司,2005:カント倫理学における善い意志の概念- 単独性と無根拠からの生成 -、『釧路工業高等専門学校紀要第39号』所収、釧路工業高等専門学校、2005年.https://www.kushiro-ct.ac.jp/library/kiyo/kiyo39/fujimoto39.pdf
●河村 克俊,2009:善意志とその起源 : カント前批判期の「ボニテート」概念、『言語と文化 12』所収、関西学院大学、2009年.https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=23476&file_id=22&file_no=1
●北尾 宏之,2017:カント『道徳形而上学の基礎づけ』の研究(2)第一章の研究、『立命館文學(651)』所収、立命館大学人文学会、2017年.https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/651/651PDF/kitao.pdf