ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【第1回】エゴイズム-『実用的見地における人間学』を中心に-|「悪」から見るカント道徳哲学【カント道徳哲学】

 

 『単なる理性の限界内の宗教』(以下『宗教論』と略記)でカントは「人間は生来悪」(Ⅺ,32)と明示し、『世界市民という視点からみた普遍史の理念』(以下『普遍史』と略記)では「非社交的社交性」(ungesellige Geseligkeit)という独自の概念を提示する。

 

【過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 これらの概念は、カントが人間を「理性的存在者」(vernünftiges Wessen)として捉える一方で、悪の視点からも人間を理解していたことを示している。

 

 この観点をさらに掘り下げるため、本稿では『実用的見地における人間学』(以下『人間学』と略記)に登場する「エゴイズム」(Egoismus)を検討する。この概念の分析を通じて、カントの人間性と道徳哲学への深い洞察が明らかになるだろう。内容は以下の通りである。

 

[内容]

■【第1回】「定言命法」と「エゴイズム」

■【第1回】3つの「エゴイズム」と「定言命法

■【第2回】「エゴイズム」の克服と「複数主義」

■【第2回】まとめ

 

■「定言命法」と「エゴイズム」

 『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の中で、カントは「定言命法」(kategorischer Imperativ)を次のように定式化する。すなわち、それは「汝の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従って行為せよ」(Ⅳ,42)という「道徳法則」(moralisches Gesetz)である。

 

 この原理は「エゴイズム」の克服と密接に関連している。そこで、『人間学』で言及される3つの「エゴイズム」の形態を「定言命法」の観点から考察する。

 

■3つの「エゴイズム」と「定言命法

 『人間学』で提示される3つの「エゴイズム」は、「論理的エゴイズム」(logischer Egoisums)、「美的エゴイズム」(ästhetischer Egoismus)そして「道徳的エゴイズム」(moralischer Egoisums)である。それぞれについて、「定言命法」との関係を検討する。

 
①論理的エゴイズム
 

 「論理的エゴイズム」を「自分の判断を他人の悟性の観点からも吟味してみるということを無用なことと見なす」(Ⅶ,128)態度と、カントは定義する。これは「定言命法」の普遍化可能性の原理に反する。(注1)

 

 『基礎づけ』の文脈から考えると、すべての人が自己の判断のみを正しいと考える世界では、知的対話や真理の追求が不可能となる。(注2)

 

  また、『啓蒙とは何か』でカントが示唆する「理性の公的な使用」を通した「啓蒙」(Aufklärung)の進展も阻害されるだろう。(注3)

 

②美的エゴイズム

 
 「美的エゴイズム」は、自らの芸術が他者の眼から見ても悪評である一方、それを指摘されても「自分独自の趣味に自己満足」(Ⅶ,130)している態度である。

 

 『判断力批判』で「美的判断」(ästhetisches Urtail)の普遍的賛同を主張するカントにとって(注4)、「美的エゴイズム」は「定言命法」の観点からも彼の主張に反する。すべての人が自己の「美的判断」のみを絶対視するなら、文化的対話や芸術の発展は阻害されるだろう。

 

③道徳的エゴイズム

 

「道徳的エゴイズム」は「あらゆる目的を自分自身に関係づけて、自分に役立つもの以外のものには益を認めない」(ibid.)態度である。この態度は、「義務」(Pflichit)(注5)という「試金石」(criterium veritatis externum)が不要である。

 

 「道徳的エゴイズム」は、「定言命法」の第2方式である「目的自体の方式」(注6)に反する。自己の利益のみを追求し、他者を手段としてのみ扱う態度は普遍化不可能である。このような人物を、カントは「実践的エゴイスト」(praktischer Egoist)と呼んだ。

 

 以上、『人間学』で提示される3つの「エゴイズム」について検討を行った。ここで注意しなければならないのは、カントは「エゴイズム」を承認し、ここを起点として自らの道徳哲学を確立しようとしている点である。

 

 中島も指摘しているように、エゴイズムを素直に承認する態度はカントの人生観の基本を形づくっている。徹底的に利己主義を打ち砕き普遍的な道徳法則を目指すカント道徳哲学も、各人のエゴイズムを直視するところから出発している。(注7)

 

 この視点は、『三批判書』及び『基礎づけ』などから読み解くことは難しい。むしろ、『宗教論』や『人間学』などのカントの後半の著作の中から読み取ることができるだろう。

 

 どのように「エゴイズム」とカントは対峙しているのか。この問題意識を持ってカントを読みなおすことができるのであれば、新たなカント道徳哲学の地平が見えてくるだろう。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

(注1) 以下の記事を参照。

chine-mori.hatenablog.jp

 

(注2) Ⅳ,44 参照。

 

(注3 )邦頁14-16 参照。

 

(注4) 以下の記事を参照。

chine-mori.hatenablog.jp

 

(注5) 以下の記事を参照。

chine-mori.hatenablog.jp

 

(注6)Paton.H.J,1958 第16章 参照。

 

(注7) 中島義道,1997,13 参照。

 

【その他参考文献】

 

宮島光志,1989:カントのエゴイズム論 ー『実用的見地における人間学』の冒頭をめぐってー、『東北哲学年報 5巻』所収、東北大学大学院文学研究科 、1989年。https://www.jstage.jst.go.jp/article/tpstja/5/0/5_KJ00003915054/_pdf/-char/ja