本稿では、『実用的見地における人間学』(以下『人間学』と略記)に登場する「エゴイズム」(Egoismus)を、他のカントの著作なども参考にしながら考察している。前回の記事では、「エゴイズム」と「定言命法」(kategorischer Imperativ)について検討してきた。
【前回の記事】
カントは、どのように「エゴイズム」を克服していこうとしたのか。この点について、今回は「複数主義」(Pluralismus)という概念をキーワードとして考察する。
[内容]
■【第1回】「定言命法」と「エゴイズム」
■【第1回】3つの「エゴイズム」と「定言命法」
■【第2回】「エゴイズム」の克服と「複数主義」
■【第2回】まとめ
■「エゴイズム」の克服と「複数主義」
『人間学』の中で、カントは「エゴイズム」の対極として「複数主義」を提示する。「複数主義」を「自分を単なる一世界市民とみなし、そのように行為するという考え方」(Ⅶ,130)とカントは定義する。これは単なる抽象的理念ではなく、実践的生き方の指針を示すものである。
「知恵に達するための3つの格率」として、カントは『人間学』の中で以下のように実践的生き方の指針を明示する。
(1) 自分で考える。
(2) (他者と交流する場合には)その他者の立場を考える。
(3) 常に自分自身に矛盾することがないように考える。(Ⅶ,200)
特に(2)の「格率」を、「寛大な、他人の概念を受け止めることのできる思考様式の原理」(Ⅶ,228-229)とカントは明示する。「その他者の立場を考える」とは、相手の立場に立って、すなわち「複数主義」の視点から道徳的判断を下すことが示唆されている。(注1)
また、カントは「共通感官」(sensus communis)を重要な概念として取り扱う。これは、個人の主観的判断を超えて、他者の立場を考慮に入れる能力を指す。「複数主義」的態度は、この「共通感官」を実践的に体現するものといえるだろう。
『判断力批判』の第40節「一種の共通感官(sensus communis)としての趣味について」に次のような記述がある。まとめると、次のようになる。
(1)自分で考えること。
(2)他のあらゆる立場に立って考えること。
(3)いつも自分自身と一致して考えること。(注2)
特に、(2)を「拡張された考え方の格率」(ibid.)とカントは呼ぶ。この格率は「他のあらゆる立場に立って」自分を「拡張」して道徳的判断を下す。「複数主義」的態度は『判断力批判』の中からも読み取れる。(注3)
以上の検討結果から、【第1回】で述べた「エゴイズム」を次のように克服できることをカントは明らかにしているのだろう。
①論理的エゴイズムの克服
他者の視点を取り入れることで、自己の判断の限界を認識する。
②美的エゴイズムの克服
多様な美的判断の可能性を認めながらも、自らの趣味の普遍的賛同を要求する。
③道徳的エゴイズムの克服
自己を拡張させて捉えることで、道徳的利己主義を超越する。
このように「複数主義」によって、「論理的エゴイズム」、「美的エゴイズム」そして「道徳的エゴイズム」いずれも克服できる可能性をカントは示している。
■まとめ
以上、『人間学』を中心に「エゴイズム」とその克服について考察してきた。
あくまでも、カントは最初から「エゴイズム」を否定しているわけではない。むしろわれわれの「エゴイズム」を認めながら、高次の道徳的立場への積極的な移行を試みている。
それは『人間学』で示された実践的指針であると同時に、『判断力批判』で展開された哲学的洞察の具現化でもある。
また、われわれの中に「エゴイズム」が潜んでいることを認識しなければ、『道徳形而上学の基礎づけ』や『実践理性批判』に登場する「義務」や「定言命法」という独自のアイデアや深遠な彼自身の道徳哲学は構築され得なかったであろう。
「エゴイズム」というわれわれ個人としての限界を自覚することによって、真の意味での「世界市民」として道徳的に成熟した存在へと成長する可能性を見出すことができるのかもしない。
(注1) この点に関して、「定言命法」の視点からも読み取れる。以下の記事を参照。
(注2)Ⅴ,145 参照。
(注3) 以下の記事を参照。
【その他参考文献】