『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の中で、カントは、「義務」(Pflicht)を2種類に分類する。2種類の「義務」とは、すなわち「完全義務」(vollkommene Pflicht)と「不完全義務」(unvollkommene Pflicht)である。
さらにカントは、この2種類の義務を「自分自身に対する完全義務」、「他人に対する完全義務」、「自分自身に対する不完全義務」、そして「他人に対する不完全義務」の4種類に分ける。
「完全義務」について、カントは「傾向性の利益のためにけっして例外をみとめない義務」(Ⅳ,421)と定義する。
つまり「完全義務」とは、どのような状況や立場にあっても必ず同じように行わなければならない義務を指す。一方、「不完全義務」ついてカントは何の定義づけも行っていない。
それにもかかわらず、カントは「完全義務」と「不完全義務」を更に細分化した4つの「義務」について、それぞれに反する「格率」(Maxime)の例を挙げている。これによって、「完全義務」と「不完全義務」を明確化しようとする。
本稿で筆者は、『基礎づけ』の中のこの4種類の義務に反する「格率」の論証方法に着目する。そして、「完全義務」や「不完全義務」をカントがどのように説明しているかについて考察する。内容は以下の通りである。
[内容]
【第1回】自分自身に対する完全義務-自殺-
【第1回】他人に対する完全義務-虚言-
【第2回】自分自身に対する不完全義務-自己実現-
【第2回】他人に対する不完全義務-親切-
【第2回】まとめ
■自分自身に対する完全義務-自殺-
第1に、「自分自身に対する完全義務」に反する「格率」について検討する。
カントは、「われわれの生命が快適さよりも災いをもたらす場合、自愛に基づいて生命を短縮する」という「格率」が、普遍的法則となり得るかどうかを考えた(注1)。
そして、この「格率」は普遍的法則になり得ないと結論づけた。なぜなら、この「格率」を普遍的法則として考えると、自己矛盾に陥るからである。カントの論証は以下の通りである。
われわれの感情の本分は、生の促進を図ることである。しかし、自殺を図ることは、われわれの感情が自らの生を破壊することになる。そのため、われわれの感情が一方で生の促進を図り、他方で自らの生を破壊することになる。それで、この「格率」は普遍的法則になり得ない(注2)。
カントの論証構造をまとめると、次のようになるだろう。
① 私たちの感情の本来の役割は、生命を維持し促進することである。
② 自殺を図ることは、われわれ感情が自らの生命を破壊することを意味する。
③ 感情が一方で生命を促進し、他方で破壊するという自己矛盾が生ずる。
カントは、われわれの行動の指針となる「格率」が「普遍的法則」となり得るかどうかを重視した。つまり、ある行動指針を採用したとして、それが矛盾なく成立するかを考えたのである。
確かに、「自分自身に対する完全義務」について「われわれの感情の本分は、生の促進を図る」というカントの前提を検討する余地はあるかもしれない(注3)。
しかし、私たちが日々食事や睡眠を通じて生命維持に努めている事実を考えると、この前提にも一定の説得力があると言えるだろう。
■他人に対する完全義務-虚言-
第2に、「他人に対する完全義務」に反する「格率」について検討する。
「金に困窮した人が金を返すことができないことを知りながら他人から借金をする」という状況を、カントは設定する(注4)。
ここで、カントは「金に困っている時に他人から借金をして、金を返すことが決してできないことを知りながら返済の約束をする」という「格率」が、普遍的法則となり得るかどうかを考えた。
この「格率」が普遍的法則になり得るかどうかを考えると、「自分自身に対する完全義務」と同様に、この「格率」が自己矛盾を犯すという結論をカントは下す。カントの論証は以下の通りである。
もしも「金に困っている」という理由で、誰でも思いついたことを守るつもりもなく約束することができることを普遍的法則として考えるのであれば、約束を約束によって達成することができる目的を、それ自体不可能にする。
嘘の約束によって誰も何か約束されたとは信じないし、人々はこうした約束を空しい申し出としてあざ笑うだろう(注5)。
この箇所でのカントの論証構造は、次のようになるだろう。
① 借金をするという行為は、返済の約束に基づいている。
②「金を返すことは決してない返済の約束をする」という「格率」が普遍化されると、約束自体が無意味になってしまう。
③誰も約束を信じなくなり、貸し借りのシステムが崩壊する。
カントの主張には説得力はあるが、同時に疑問も生じるかもしれない。例えば、いわゆる『嘘論文』(注6)のような生命の危機などの極端な状況では、嘘をつくことは正当化され得るかという疑問である。この点に関しては、今後検討する余地はあるだろう。【続く】
【次の記事】
(注1)Ⅳ,422 参照。
(注2)ibid. 参照。
(注3)このことに関して、『人倫の形而上学』では「自己保存」をカントは動物性をという性質を備えた自己自身に対する義務と記述している。Ⅳ,421 参照。
(注4)Ⅳ,422 参照。
(注5)ibid. 参照。
(注6)『人間愛からの嘘』 参照。
【参考文献】
kant.I,1797: (邦題:『人倫の形而上学』、『カント全集11』所収、吉澤・尾田訳、理想社、1975年.)
――,1797:Über ein vermeintes Recht aus Menschenliebe zu lügen(邦題:『人間愛からの嘘』(『カント全集13』所収)、谷田信一訳、岩波書店、2003年.)
稲葉稔,1983:カント『道徳形而上学の基礎づけ』研究序説、創文社、1983年.
Shumaker.H,1992:Sharing Without Reckonng(邦題:『愛と正義の構造-倫理の人間学的基盤-』、加藤・松川訳、晃洋書房、2001年.)