『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の中で、カントは、「義務」(Pflicht)を2種類に分類する。2種類の「義務」とは、すなわち「完全義務」(vollkommene Pflicht)と「不完全義務」(unvollkommene Pflicht)である。
【参考:前回の記事】
本稿で筆者は、『基礎づけ』の中のこの4種類の義務に反する「格率」(Maxime)の論証方法に着目し、「完全義務」や「不完全義務」をカントがどのように説明しているかについて考察している。今回は【第2回目】である。内容は以下の通りである。
[内容]
【第1回】自分自身に対する完全義務-自殺-
【第1回】他人に対する完全義務-虚言-
【第2回】自分自身に対する不完全義務-自己実現-
【第2回】他人に対する不完全義務-親切-
【第2回】まとめ
■自分自身に対する不完全義務-自己実現-
第3に、「自分自身に対する不完全義務」に反する「格率」について検討する。
カントは、「安楽な状態に身を置いているとき、自己開発を目指すのではなく、むしろ楽しみを追求する」という「格率」が、普遍的法則になり得るかどうかを考えた。以下、この「格率」に対するカントの論証を検討してみよう。(注1)
この「格率」が普遍的法則として考えられるかどうかについて、確かに認めることはできる。しかし理性的存在者として、われわれはこの「格率」を追求できない。
なぜなら、われわれは自らの才能を開発することを必然的に「意欲する」(wollen)からである。この「格率」は、われわれの必然的な意欲と矛盾する。
したがって、この「格率」は「他人に対する不完全義務」に反すると判断し、普遍的法則として成立しない。
この箇所でカントは、この「格率」が「意欲する」点で矛盾を引き起こすと指摘する。まとめると、次のようになるだろう。
①人間は必然的に自らの才能を開発することを「意欲する」。
②この「格率」は人間の必然的な意欲と矛盾する。
③この「格率」は「自分に対する不完全義務」に反する。
しかし、カントのこの説明に疑問が残るだろう。すなわち次の2点である。
● 自己実現はそもそも義務なのか。
● われわれが必然的に「意欲する」とはどういうことか。
なぜわれわれは自らの才能を開発することを必然的に意欲し、それが「義務」なのか。その回答をカントは一切行っていない。
この点に関して、例えば、『人倫の形而上学』や『判断力批判』でカントの思想を辿ることによって、若干理解を得られる兆しは見えるかもしれない。(注2)
ただ少なくとも『基礎づけ』に関して、カントは「自分自身に対する不完全義務」についての説明は、不十分である。
■他人に対する不完全義務-親切-
最後に、「他人に対する不完全義務」に反する「格率」について検討する。
「われわれが安楽に生活している時、他人が困窮しているならば、その困窮している人に対してわれわれは何ら援助をしない」という「格率」が、普遍的法則としてなり得るかどうかについて、カントは考える。
この「格率」に対して、カントの論証は以下の通りである。(注3)
「自分自身に対する不完全義務」に反する「格率」と同様、確かに、この「格率」も普遍的法則として考えることは可能である。
しかし、この「格率」を普遍的法則としてわれわれが受け入れるならば、われわれ自身と、この「格率」が衝突する。
なぜなら、われわれは、どうしても人の助けを借りなければならない状況があるからである。また、われわれが困窮した場合、他人から援助を求めることができる可能性を、自ら奪うことになる。ゆえに、この「格率」を普遍的法則として意欲することはできない。
カントのこの「他人に対する不完全義務」の「格率」の中で、持ち出した理由は適切ではない。
カントは、「われわれが安楽に生活している時、他人が困窮しているならば、その困窮している人に対してわれわれは何ら援助をしない」という「格率」を採用した場合の不幸な結果を考えて、その反省を促しているからである。
つまり、このカントの主張はカント自身が非難する結果主義に基づいている。
また「他人に対する不完全義務」の説明から考えると、もしもわれわれが困窮しない世界を考えるのであれば、われわれは他人から援助を求めることはないだろうし、他人に援助をしなくてもいいという見方もできる。
カントのこの説明は、ある種「仮言命法」的な説明になっている。
このように『基礎づけ』でのカントの「他人に対する不完全義務」についての説明は、成功していない。「他人に対する不完全義務」の例は結果主義的な理由になっている。この点を考えると、このカントの説明には無理があるように思われる。
■まとめ
以上、今回はカントの「完全義務」と「不完全義務」に関する論証を検討した。その結果、次のことが明らかになった。
すなわち「完全義務」に関しては更なる検討の余地はあるが、一定の説得力を持ち得る論証である一方、「不完全義務」に関しては『基礎づけ』の中でのカントの論証は不十分であるということである。
ただ論証が不十分であるといって、カント道徳哲学全般が破綻していると考えてはいけない。『人倫の形而上学』や『判断力批判』など他のカントの著作を検討・考察しながら、今回浮上した疑問などは幾分解決されるだろう。【終わり】
(注1)Ⅳ、422ー423 参照。
(注2)『人倫の形而上学』の中で「自己の完全性」は「自分自身に不完全義務」であることを言及してういる。また、『判断力批判』の中の「共通感官」という概念がわれわれが「意欲する」ことによって、「格率」が普遍的法則となり得ることへの手がかりを与えてくれるだろう。
(注3)Ⅳ,423 参照。
【参考文献】
Kant.I,1790:Kritik der Urteilskraft(邦題:『訳注・カント判断力批判』、宇都宮芳明訳、以文社、1994年。)
__ ,1797:Die Metaphysik der Sitten(邦題:『人倫の形而上学』(カント全集11所収)、吉澤・尾田訳、理想社、1975年。)


