カントの道徳哲学を読み解く際、われわれはしばしばひとつの錯覚に陥る。それは、カントの哲学体系が純粋に自己完結的な主体性の哲学であるという誤解である。確かに『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)や『人倫の形而上学』の中で、カントは「理性的存在者」(vernünftigen Wessen)としての自己に発する「道徳法則」(moralisches Gesetz)、つまり「定言命法」(kategorischer Imperativ)を中心に据えている。しかし、この「自己から発する」という事実は、カントが他者を排除していることを意味するのだろうか。
答えは、むしろ逆である。力ントの道徳哲学の真の射程は、自己と他者の複雑な緊張関係の中に広がっている。一見すると『基礎づけ』と『判断力批判』では他者の扱いに大きな差異があるように思われるが、これらの著作に通底する哲学的問いは同一である。すなわち、「理性的存在者としての自己」と「現実世界における他者」との関係をいかに構築するかという問いである。
本記事では、カントの道徳哲学での他者の問題を、これまで見過ごされてきた角度から再検討する。具体的には以下2点である。
第1に、『基礎づけ』と『人倫の形而上学』での「虚言」の位置づけの変化を分析する。この変化は単なる分類上の問題ではなく、カントの他者観の深層を映し出す鏡である。特に注目すべきは、『人倫の形而上学』での「虚言」が「自己に対する完全義務」として再定義されたことの哲学的含意である。
第2に、『判断力批判』での「拡張された考え方の格率」(Maxime der erweiterten Denkungsart)を検討する。この「格率」(Maxime)は、単なる思考実験ではなく、カントが構想した間主観性の核心を表している。この「格率」を通じて、カントの道徳哲学での他者の位置づけを再評価する。
この考察を通じて明らかになるのは、カントの道徳哲学が想定する「他者」とは何か、という根本的問いである。それは単なる「自己の延長」なのか、それとも実在する「他者そのもの」なのか。この問いへの応答は、カント哲学の全体像を左右するだけでなく、現代の倫理学での「他者」の問題に新たな視座を提供するものである。内容は以下の通りである。
[内容]
■「虚言」の哲学的位置づけの変容
■「拡張された考え方」と他者の実在性
■結論と展望
■「虚言」の哲学的位置づけの変容
カントが『基礎づけ』では「虚言」を「他者に対する完全義務」の違反として扱い、『人倫の形而上学』では「自己に対する完全義務」の違反として再定義したことは、単なる分類上の揺れではない。この変化は、カント道徳哲学での自己と他者の力学を理解する鍵となる。
『人倫の形而上学』の中で、カントは「虚言」(Lüge)を次のように定義する。すなわち「虚言」とは、口にする言葉と内心の思いの意図的な乖離である、と。
更にカントはこれを「外的虚言」と「内的虚言」に分類する。この区分は表面的には単純だが、その含意は深遠である。なぜなら、「内的虚言」の概念は、人間の内面に他者性を導入するからである。つまり、私が「内的虚言」を犯すとき、私の中に「語る自己」と「聴く自己」という二重性が生じる。この内的分裂こそが、自己と他者の問題の原型である。
カントによれば、「虚言」によって人間は、自己の尊厳を放棄するのではなく、むしろ自己の人格における人間性の尊厳そのものを無にする。自分の言葉を自ら信じない人間は、単なる物よりも価値がない。
この言葉が示すのは、「虚言」の問題が単に他者を欺くという対他関係の問題ではなく、同時に自己の人格的統一性を破壊する問題でもあるという点である。ここでカントは「自己に対する義務」と「他者に対する義務」を二項対立的に捉えているのではなく、むしろ「自己に対する義務」の中に「他者に対する義務」の基盤を見ている。
加藤泰史の指摘通り、カントが『人倫の形而上学』で「自己に対する義務」を「他者に対する義務」より優先させるのは、前者が後者の可能性の条件だからである。カントにとって「自己に対する義務」とは、単なる自己保存や自己実現の義務ではなく、「理性的存在者としての自己」という普遍的な価値の保持の「義務」(Pflicht)である。
この視点から見れば、カントが『基礎づけ』から『人倫の形而上学』にかけて「虚言」の位置づけを変えたことは、彼の思想の深化を示している。それは「他者との関係」から「自己の内なる他者との関係」へと問題の次元を移行させることで、道徳の根源的な条件を掘り下げようとする試みだったのである。
■「拡張された考え方」と他者の実在性
『判断力批判』の中で提示される3つの格率、特に「拡張された考え方の格率」は、カント哲学での他者の問題を新たな角度から照らし出す。
この格率は「他のあらゆる人間の観点から考える」という要請であり、一見すると『基礎づけ』や『人倫の形而上学』での自己中心的な道徳の構造とは対照的に思われる。しかし、これはカントの思想の矛盾ではなく、むしろその完成である。
牧野英二が鋭く指摘するように、「拡張された考え方」は単なる思考実験ではない。それは「立場の交換」(Stellungswechsel)を通じた具体的な他者との遭遇の試みである。重要なのは、この「立場の交換」が「普遍的な自我の拡大」ではないという点である。つまり、他者の視点を自分のものとするためには、他者の他者性をあくまで保持したまま、その視点に身を置く必要がある。
カント主張もするように、「拡張された考え方」とは、自分自身の判断を他者の普遍的な観点から反省する能力であり、これは自分を他者の立場に置くことによってのみ達成されるのである。
ここでカントが示唆しているのは、道徳的判断の妥当性が、単に自己の理性の形式的操作によってのみ保証されるのではなく、具体的な他者との対話的関係の中で検証されなければならないということである。
この観点からすれば、『基礎づけ』での「普遍化可能性の原理」と『判断力批判』での「拡張された考え方」は、同じ問題に対する異なるアプローチと見ることができる。前者は理性的存在者の形式的普遍性から道徳を基礎づけようとする試みであり、後者は具体的な他者との関係性から道徳を捉え直す試みである。
しかし、カントが『判断力批判』で想定する「他者」とは何か。それは単なる「自己の延長」なのか、それとも実在する「他者そのもの」なのか。この問いは、カント研究の中でも最も根本的な問いのひとつである。
牧野英二は、カントが想定する他者を「実在する他者」と解釈する一方で、新田孝彦や加藤泰史は「自己の延長としての他者」と解釈する。この解釈の相違は、カント哲学の全体像を左右する重要な問題である。
私見では、この二者択一的な図式自体はカントの思想を過度に単純化している。むしろカントは、「理性的存在者としての他者」と「経験的存在者としての他者」という二重の他者概念を想定していたと考えるべきではないだろうか。前者は確かに「自己の延長」としての他者だが、後者は「実在する他者」としての不可避性を持つ。カントの思想の深みは、この2つの他者概念の間の緊張関係にこそある。
■結論と展望
本記事では、カントの道徳哲学での他者の問題を、『基礎づけ』、『人倫の形而上学』そして『判断力批判』の比較を通じて検討してきた。そこで明らかになったのは、カントの思想での自己と他者の複雑な緊張関係である。
『基礎づけ』や『人倫の形而上学』では、確かに自己の道徳的主体性に焦点が当てられているが、それは他者を排除するためではなく、むしろ他者との関係の可能性の条件を探るためであった。特に「虚言」の問題は、自己と他者の境界線上に位置する問題として、カントの他者観を浮き彫りにする。
一方『判断力批判』では、「拡張された考え方の格率」を通じて、より具体的な他者との関係性が模索されている。この「格率」は、単なる思考実験ではなく、他者の他者性を保持しつつその視点に身を置くという実践的な要請である。
残されている重要な問いは、カントが想定する「他者」の実在性についてである。この問いへの応答は、「不完全義務」(unvollkommene Pflicht)の概念とも深く関わっている。なぜなら「不完全義務」とは、まさに具体的な他者との関係における義務だからである。
カントの道徳哲学を独我論的と批判する立場があるが、これは彼の思想の一面のみを捉えた誤解である。確かにカントは道徳の根拠を自己の理性に求めるが、それは他者を排除するためではなく、むしろ他者との関係の普遍的可能性を探るためであった。
今後の研究課題としては、カントの「不完全義務」の概念を、『判断力批判』での「拡張された考え方」の格率と結び付けて再解釈することが挙げられる。この作業を通じて、カントの道徳哲学での自己と他者の関係に新たな光を当てることができるだろう。
カントの思想は、単なる自己完結的な主体性の哲学ではなく、自己と他者の緊張関係の中に道徳の可能性を探る試みだった。その意味で、カント道徳哲学は現代の倫理学にでの「他者」の問題に対しても、なお重要な示唆を与え続けている。【終わり】
【参考文献】
加藤泰史,1994:普遍化の論理と相互承認の倫理、『現代思想 3月臨時増刊 カント』所収、青土社.
―――,1992:「定言命法」・普遍化・他者-カント倫理学における「自己自身に対する義務」の意味について―,平田・渋谷編、『実践哲学とその射程』(現代カント研究 3)所収、理想社.
中島義道,1987:自由な・他者の・存在-カント哲学における他者の問題、『教養学科紀要 第十九号』所収、東京大学教養学部教養学科.
新田孝彦,1986:普遍化可能性と相互主体性-カントにおける倫理的基準の統一理解のために-、愛知県立大学文学部一般教育学科編、『愛知県立大学文学部 一般教育編 35』所収、愛知県立大学文学部.
牧野英二,1996:理性批判と共通感覚論、日本カント協会編、『カントと現代-日本カント協会記念論集-』所収、晃洋書房.



