ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【カント道徳哲学】悪から始まる道徳- カントが示す目覚めの道徳哲学ー

 

 

 カント道徳哲学では、「善意志」(guter Wille)や「定言命法」(kategorischer Imperativ)はよく知られた出発点である。しかし、カントが真に見据えていたのは、人間の道徳性が単なる善への志向から生まれるわけではないという、より複雑で現実的な事実だった。

 

 むしろ、カントは人間が悪をなす存在であることを正面から引き受け、それを出発点として道徳哲学を構想する。この視点は、道徳哲学史の中で革命的な転回を意味するものだった。

 

 本記事では、カントのテクストを手がかりに、悪の自覚を軸としたカント道徳哲学の深層構造を明らかにする。内容は以下の通りである。

 

[内容]

■善意志と定言命法 - 理性的自由の倫理的構造
■根源悪 - 理性を持つ者に特有の倒錯
■悪への目覚め - 道徳的尊敬の発生条件
■歴史哲学からの視座-人類史での悪の弁証法
■結論-悪から始まる道徳の意義

 

■善意志と定言命法 ー理性的自由の倫理的構造ー

 カントは『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の中で、道徳法則に従う「善意志(guter Wille)」を最高善として位置づけ、あらゆる外的条件から独立した道徳の普遍性を提示した。「善意志」は結果や傾向性に依存することなく、それ自体として無条件に善なるものである。『基礎づけ』から有名な一節を引用する。

 

 この世界の中で、いやおよそこの世界の外でも、制限なく善いと評価され得るものは、ひとり何らかの善意志において他にまったく考えられない。(Ⅳ,393)

 

 ここでカントは「制限なく善いと評価され得る」ものを「善意志」であるとしている。「善意志」とは、例えば「ウソをついてはいけない」といった具体的な行動そのものではなく、それらを行う動機や意図が善いとされる意志のことである。

 

 このようにカントは『基礎づけ』の中で「善意志」を分析し、道徳的に善い行為の中に共通する法則を探求していく。

 

 その道徳的行為の根拠となるのが「定言命法」である。すなわちそれは、「汝の意志の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従って行為せよ」(Ⅳ,421)という道徳法則である。

 

 この「命法」は、「理性的存在者」(vernünftiges Wesen)としての人間に本質的に与えられた自律的自由を前提としている。

 

 ここでカントが描く道徳哲学の構造は、一見すると善と自由の理念的結合を完成させているかのように見える。しかし、決定的な問題が残されている。なぜこの理想的な道徳構造が現実の中で「実現されない」のか。この問いから、「悪」という契機が不可避的に浮上してくる。

 

■根源悪 - 理性を持つ者に特有の倒錯

『たんなる理性の限界内の宗教』(以下『宗教論』と略記)の中で、カントは道徳哲学での重大な転回を行う。それが「根源悪(radikale Böse)」の導入である。この概念は、カント道徳哲学の体系の中でも議論が分かれるところであるが、しかし本質的な洞察のひとつである。

 

 『宗教論』第1編「悪の原理が善の原理とならび住むことについて、あるいは人間本性のうちなる根源悪について」の中で、カントは「人間は生来悪である」という命題を提示する。この主張の核心は以下の通りである。

 

 人間は道徳法則を理性的に認識できるにもかかわらず、それに反する行為を選ぶ根源的傾向を持つ。すなわち、人間は道徳法則を意識していながら、道徳法則からの逸脱を「格率」(Maxime)の中に採用する。

 

 この傾向は、衝動や本能による偶発的な逸脱ではない。それは理性をもってして、あえて道徳法則を自愛の動機に従属させる選好構造そのものである。カントによれば、経験を通して知られる人間のあり方から、このような逸脱はどんなに善い人間の中にも前提できる。

 

 この「人間は生来悪である」という命題は、類として見られた人間について言われる。つまり、この性癖そのものが道徳的に悪であると見なされ、それは選択意志の反法則的な「格率」に存するのでなければならない。

 

 「格率」すべての主観的な最上根拠が人間性そのものに織り込まれていなければ、悪の普遍性と辻褄が合わなくなる。このあらゆる「格率」の主観的な最上根拠である悪への本性的性癖を、カントは人間本性の内なる生得的な「根源悪」と呼ぶ(Ⅵ,32参照)。

 

 ここで重要なのは、カントが「根源悪」を非理性的傾向ではなく、むしろ理性に固有の倒錯的可能性として捉えている点である。理性的自由であるがゆえに、人間は善を選ぶことも悪を選ぶこともできる。この自由こそが、人間を天使とも動物とも区別する固有の存在論的条件なのである。

 

 「根源悪」は、人間存在の根底に横たわる構造的悪として、理性を持つ者に特有の倒錯として提示される。

 

■悪への目覚め - 道徳的尊敬の発生条件-

  では、この「根源悪」をいかに乗り越えるのか。ここでカントが示すのは、悪の自覚こそが真の道徳的覚醒の契機であるという逆説的な洞察である。

 

 人間が自らの行為を省察し、「これは理性に反する」、「これは義務に背いている」と認識する瞬間の自己反省的な気づきの中で、初めて本格的な道徳的主体性が立ち上がる。

 

  カントが「尊敬(Achtung)」と呼ぶ道徳感情は、この内的緊張関係から生まれる。『実践理性批判』の中から引用する。

 

  道徳法則はあらゆる人間を不可避的に謙抑にさせるが、それは人間がこの法則と自分の本性の感性的性癖とを比較することによってである。そのものの表象がわれわれの意志の規定根拠として、われわれをわれわれの自己意識において謙抑にさせるものは、それが積極的であり規定根拠である限りにおいて、それだけで尊敬を引き起こすのである。それゆえ道徳法則は、主観的にもまた尊敬の根拠である。(V,74)

 

 この引用が示すように、道徳法則への「尊敬」は、単なる憧憬や崇拝ではない。それは、自らの感性的傾向性すなわち、悪への傾向性と道徳法則との対比の中で生じる謙抑の感情であり、同時にその法則を意志の規定根拠として受け入れることから生まれる積極的な感情でもある。

 

 言い換えれば、この「尊敬」は悪をなし得る自由を持つ存在が、それでもなお善を選ぼうとする意志の内的葛藤から生じる、極めて複雑で深層的な感受性なのである。

 

  悪の可能性を知らない存在、例えば神的な存在や動物には、この種の道徳的尊敬は成立し得ないだろう。まさに人間の有限性と自由の両義性の中で、真の道徳的感情が開かれる。

 

■歴史哲学からの視座-人類史での悪の弁証法-

 カントのこの視点は、彼の歴史哲学の中で、より大きな文脈の中で展開される。ここでは2つの重要な論考を通じて、悪が人類史の中で果たす積極的な役割を検討する。

 
●「非社交的社交性」の弁証法

 『世界市民という視点からみた普遍史の理念』(以下『普遍史』と略記)で提示される「非社交的社交性」(ungesellige Geselligkeit)という概念は、人間本性の根本的な矛盾を歴史発展の原動力として捉える試みである。以下、『普遍史』から第4命題を引用する。

 

 自然のあらゆる素質の発展を実現するために自然が用いる手段は、社会における自然素質の敵対関係であり、しかもそれはこの関係が最終的に社会の合法則的秩序の原因となる限りでのことである。私がここで理解する敵対関係というのは、人間の非社交的社交性のこと、すなわち人間が社会のなかに入ってゆこうとする性癖であるが、同時にこれは社会を絶えず分断する恐れのある一般的抵抗と結び付いている性癖のことでもある。(Ⅷ,21)

 

 「非社交的社交性」とは、人間が社会の中に入ってゆこうとする性癖である一方、同時に社会を絶えず分断する恐れのある一般的抵抗と結び付いている性癖である。『普遍史』の中で、カントは人間に「社会を作ろうとする傾向性」を認める一方で、独りでいたいという傾向性も認める。この相反する傾向性をカントは人間の中に見出す。

 

 注目すべき点は、この相反する傾向性をカントが否定的に見ていないことである。むしろ「悪の現実」を前提とした道徳への漸進的歩みとして捉えている。

 

 この抵抗[他人に対する抵抗]こそは、人間のあらゆる力を呼び覚まし怠惰へと傾く気持を乗り越えさせ、確かに一緒にいるのはいやだがしかし放っておくこともできない仲間のもとで、功名心や支配欲や所有欲に駆り立てられ一つの地位を獲得するまでに人間をし向ける当のものである。このとき、粗野な状態から抜け出て、人間の社会的価値を本質とする文化的状態への本当の第一歩が生じ、またこのとき、あらゆる才能が少しずつ伸ばされ、趣味が形成され、また絶えざる啓蒙によって思惟様式の構築が始まる。

(.ibid[ ]内は筆者) 

 

 この箇所で、カントは人間の本性に内在する矛盾を指摘する。人間は他者との共存を嫌悪しながらも、同時にそれを必要とする存在である。この対立的関係が、人間を「粗野な自然状態」から「文化的状態」へと押し上げる。

 

 ここでの「文化的状態」とは、人間の社会的価値が本質となる状態、つまり道徳的・理性的存在としての人間性が発揮される段階を指す。この矛盾こそ人類の進歩を駆動する原動力となる。

 

●楽園追放という「理性の誕生」

 『人類の歴史の臆測的始元』(以下『臆測的始元』と略記)の中で、カントは聖書の楽園追放の物語を哲学的に再解釈する。アダムとイブが禁断の果実を食べることで善悪の知識を得るという出来事を、単なる堕落としてではなく、理性的自由の獲得として読み直した。

 

 かくして人間は、あらゆる理性的存在者との平等に達した。つまり自己自身が目的であり、ほかのすべての者から目的として尊重され、誰によっても、単に他の目的のための手段としてのみ使用されることがないという権利要求、この権利要求に関する平等である。人間がより高次の存在者たちとさえも無制限に平等であることの根拠は、まさにこの点[道徳的=実践理性の観点]にあるのであって、単に多くの傾向性を満足させるための道具としてしか見られないような理性[技術的=実践理性]のうちにあるわけではない。(Ⅷ,114)

 

 この引用部分は、禁断の果実を食べた人間が、それまでの本能的な生活から脱却し、道徳的判断能力を獲得したことの帰結を示している。カントにとって、善悪の知識を得ることは、人間が単なる自然的存在から道徳的存在へと「昇格」することを意味した。

 

 すなわち、人間は自らを「目的それ自体」として認識し、同時に他者をも同様に尊重する義務を負う存在となったのである。ただし、カントはこの理性の誕生を無条件に肯定しているわけではない。

 

 しかし理性が自分の仕事を開始し、その理性がいかに脆弱であれ、理性にあらがう動物性との全力をつくした格闘に入ったとき、そこには災悪が発生せざるをえなかったし、理性がよりいっそう文化的に陶冶された場合には、さらにひどいことに悪徳が生じざるをえなかったのである。これは、無知と無垢の状態にはまったく見られなかったものである。それゆえ、この無垢の状態から外に出る第一歩は、道徳的側面からみれば、堕落であった。また自然的な側面からみれば、ここに初めて知ることになった生活上の夥しい災悪は、かかる堕落の結果としてもたらされる刑罰なのである。かくして、自然の歴史は善から始まる。なぜならそれは神の作品だから。しかし、自由の歴史は悪から始まる。なぜならそれは人間の作品だから。(Ⅷ,115)

 

 ここでカントは、理性の誕生が必然的に伴う両面性を明確に示している。理性の獲得は、一方では道徳的自由と尊厳をもたらすが、他方では動物性との葛藤を通じて災悪や悪徳を生み出す。この逆説的な構造こそが、人間存在の根本的条件である。

 

 「自然の歴史は善から始まる。なぜならそれは神の作品だから。しかし、自由の歴史は悪から始まる。なぜならそれは人間の作品だから」という定式化は、カントの歴史哲学の核心を端的に表している。人間の自由な意志による歴史は、必然的に悪から出発せざるを得ない。しかし、この悪こそが道徳的覚醒の起点となる。

 

■結論-悪から始まる道徳の意義-

 カント道徳哲学の中で、彼が「悪」に注目したのは、人間に対する悲観主義からではない。むしろそれは、人間の理性的自由に対する深い信頼の表れであった。カントは『臆測的始元』の中で、人間の使命について以下のように述べる。

 

 人類の使命は完全性に向かう進歩のうちにあり、この目標に到達しようとする試みは、人類の成員たちの長い連鎖のなかで、相次いで繰り広げられてゆくのであって、その試みが最初の段階でうまくいかなかったとしても、それは問題ではない。(Ⅷ,115)

 

 カント道徳哲学の根本的な企図は、人間を単なる善良な存在として理想化するのではなく、悪をなしうる自由を持つ存在として現実的に捉え、その現実的な人間理解の上に、真に普遍的で持続可能な道徳を構築することにあった。

 

 カントの信頼は、「人間が善人である」ことへの信頼ではない。それは、「悪を自覚し、それを超えようとする理性の力」への信頼であった。そしてこの信頼こそが、現代を生きるわれわれにとっても、最も必要な倫理的勇気の源泉となるだろう。

 

 道徳は理想から始まるのではなく、現実の複雑さと困難さから始まる。カントのこの洞察は、われわれにとって、ますます切実な意味を持つものといえるかもしれない。【終わり】

 

【参考文献】