倫理って、結局は暗記科目。カトリックとプロテスタントの違いとか、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」とかは覚えるだけ。
もしあなたがそう思っているなら、ちょっと立ち止まってみませんか。実は哲学も倫理学も、暗記するためにあるのではなく「なぜ」を考え続けるための学問なのです。
例えば、こんな場面を想像してください。友だちが困っているとき、あなたは迷わず「助けてあげよう」と思う。でも、なぜそう思うのでしょうか。人を助けるのは当たり前だから。では、なぜそれが「当たり前」なのでしょうか。
・なぜ同じキリスト教なのに、カトリックとプロテスタントで「正しさ』」が違うのだろうか。
・「氷」を見たことがない人に、なぜ氷の存在を信じてもらうのは難しいのだろうか。
・「私は存在する」って当たり前だけど、本当に確かなことなのだろうか。
これらはすべて、カトリックとプロテスタントの対立、ベーコンの「4つのイドラ」、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」から生まれる問いです。教科書に載っている「正解」はありません。しかし、それを考え続けることこそが「自分の頭で考える倫理」の第一歩です。今回の内容は以下の通りです。
[内容]
■カトリックとプロテスタント-「正しさ」が真っ二つに分かれるとき-
■「見たことないこと」を信じるって、どういうこと?-ベーコンと現代のフェイクニュース-
■私って本当にいるの?-デカルトと究極の自己探求-
■知識を覚えるのではなく「問い」と向き合う
■カトリックとプロテスタント-「正しさ」が真っ二つに分かれるとき-
人を助けるのは正しい。これ、みんな同じように思います。しかし実は、同じ神を信じる人たちの間でも「正しさ」の中身は全然違います。キリスト教の二大宗派、カトリックとプロテスタントを例に見てみましょう。
・カトリックの考え方:神に救われるには、正しい行いをすることが大切である。信仰と理性を調和させて神の秩序を理解し、その通りに生きよう。
・プロテスタントの考え方:人間の行いや理性では救われない。ただ「神への信仰のみ」が救いにつながる。
同じ聖書を読み、同じイエス・キリストを信仰しているのに、このように「何が正しいか」の基準が違う。おもしろいと思いませんか。
ここで、ちょっと想像してみてください。
暴走するトロッコが5人に向かって突進している。あなたがレバーを引けば、線路を切り替えて5人を救える。でも、切り替えた先にはひとりの人がいる。そのひとりは、あなたの最愛の息子だった。あなたは、レバーを引きますか?
これ、正解のない問題です。でも、あなたがどちらを選ぶかによって、あなたの中にある「正しさ」の価値観が見えてきます。この選択の背景には、カトリックとプロテスタントが長い間議論してきた根本的な問いがあります。
人間は、理性を使って「正しい行動」を判断し、それを実行することで神に近づけるのか。それとも、人間の理性や行動には限界があり、ただ神への信仰だけが救いなのか。
カトリックなら「信仰と理性を調和させ、神の秩序に従って最善の行動を選ぶべき」と考えるかもしれません。一方、プロテスタントなら「人間の判断は不完全である。神の恩恵にすがるしかない」と考えるかもしれません。
しかし大切なのは「どちらが正解か」ではなく、なぜそう判断するのかを考えることです。あなた自身の「正しさ」の根拠は何でしょうか。
■「見たことないこと」を信じるって、どういうこと?-ベーコンと現代のフェイクニュース-
こんな寓話があります。
氷を見たことがない南の島の村に、旅人がやってきて言いました。 「北の国では、水が凍って透明で固い塊になるんだよ」 でも村人たちは「そんなバカな!水が固くなるわけがない!」と信じませんでした。
この話、現代のSNSやニュースを見ていると、すごく身近に感じませんか。「え、それって本当?」「でも○○さんが言ってたし・・・」「ネットで見たから間違いない」。私たちも毎日、「見たことないこと」を信じたり疑ったりしています。
ベーコンは、人間の思考には4つの「思い込み」があると言いました。これを「4つのイドラ」と言います。
①種族のイドラ:人間なら誰でも持ってしまう思い込み(例:「自分の常識=世界の常識」と思ってしまう)
②洞窟のイドラ:個人の経験や教育による偏見(例:「私の家庭では○○が当たり前だったから、みんなそうでしょ?」)
③市場のイドラ:言葉の曖昧さから生まれる誤解(例:「愛」と言っても、恋人への愛・家族への愛・友情、それぞれ違う)
④劇場のイドラ:権威や伝統への盲信(例:「有名人が言ってるから正しい」「昔からそうだから間違いない」)
真理を知りたければ、まず自分の思い込みに気づこう。これって、フェイクニュースがあふれる現代にこそ必要な考え方です。
X(旧Twitter)やInstagramなどで毎日たくさんの情報を見ているはずです。その中で「これって本当?」とか「なぜみんなこの意見に賛成してるの?」とか疑問を持ったことはありませんか。
ベーコンの哲学は、そんな現代にこそ活かせます。「誰が言ったか」よりも「自分で確かめたか」を大切にする。それが哲学的思考の出発点です。
■私って本当にいるの?-デカルトと究極の自己探求-
私は存在する。当たり前すぎて、疑う余地もないですよね。しかし17世紀の哲学者ルネ・デカルトは、そんな「当たり前」さえも疑いました。
・今見えているものは、夢かもしれない。
・今聞こえる声は、幻聴かもしれない。
・この世界そのものが、偽りかもしれない。
現代風に言うなら『マトリックス』の世界です。もしも私たちが巨大なコンピューター・システムの中で、偽の現実を見せられているとしたらどうでしょうか。
しかし、デカルトは気づきます。たとえすべてが偽りでも、たった1つだけ疑えないことがある。それは「私は今、考えている」ということです。
これだけは絶対に疑えません。疑っている瞬間も「考えている」から。たとえ水槽の中の脳だったとしても、「思考している私」は確実に存在している。これが有名な「われ思う、ゆえにわれあり」です。
ここからが、さらにおもしろいいところです。デカルトの発見した「思考している私」と、普段あなたが「私」と呼んでいるものは、本当に同じでしょうか。
・もし明日、あなたの記憶がすべて消えてしまったら、それでも「あなた」ですか。
・もし事故で体の一部を失ったり、病気で見た目が変わったりしても、「あなた」は続いていますか。
・家族の前の「あなた」、友だちの前の「あなた」、先生の前の「あなた」。どれが「本当のあなた」ですか。
これらの問いに「正解」はありません。しかし、考え続けること自体に価値があります。あなたは今、10年前の自分と同じ「あなた」ですか。10年後も、今と同じ「あなた」でいるでしょうか。「私とは何か」を考えることは、自分自身との対話を深めることなのです。
■知識を覚えるのではなく「問い」と向き合う
この記事で紹介した宗教や哲学の考え方は、テストで点数を取るためだけにあるのではありません。あなたが毎日の生活で直面する「どうしよう」に向き合うための道具です。
・友だちと意見が分かれたとき(正しさの衝突)
・ネットの情報を見て迷ったとき(真偽の判断)
・将来の進路を考えるとき(自分とは何か)
そんなとき、カトリックとプロテスタントの違い、ベーコンの「4つのイドラ」、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」が、あなたの思考をサポートしてくれるはずです。
哲学の魅力は、「答えがすぐに出ない」ところにあります。数学のように「正解=1つ」ではなく、考える過程そのものが大切なのです。
・なぜそう思うのか。
・他の見方はないか。
・自分の考えの前提は何か。
こうした問いと向き合うことで、あなた自身の思考が深まり、他人の意見も理解できるようになります。それが「自分の頭で考える」ということです。
本書は、教科書的な知識を教えるだけのものではありません。あなたが自分の中の「答えのなさ」と出会うための「哲学の地図」です。
・正しさが衝突するとき、どうするか。
・信じることの根拠が揺らぐとき、何を手がかりにするか。
・「私」という存在があいまいなとき、それでも「私」を保つとはどういうことか。
問いはすぐには解けません。でも、考えた時間の分だけ、あなた自身が変わっていきます。本書には、そんな「痕跡」を残す力があります。【続く】
