ネコと倫理学(ネコ倫)

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ネコと私たち人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【第1回】判断力批判|「定言命法」と「3つの格率」【カント道徳哲学】

 

 前回の記事で、「ボランティア活動の倫理学」と題して、筆者は「定言命法」に関する解釈を提示した。それは、以下の内容であった。

 

定言命法」でのポイントは、「格率」が自己矛盾を犯さないかどうかという「無矛盾性」にある。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 更に踏み込んで、今回は道徳規則に対する「普遍化可能性」(※1)を要求する「定言命法」の「格率」とはどのようなものかについて3回に渡り、考察する。

 

 その中で『判断力批判』で登場する「3つの格率」について検討し、その後「定言命法」と「3つの格率」に対する提案を2つ示す。

 

[内容]

【第1回】『判断力批判』の「3つの格率」

【第2回】「3つの格率」に関するオニールの解釈

【第3回】「定言命法」と「3つの格率」に対する2つの提案

 

 「定言命法」と「3つの格率」から、筆者は次の2点を提案する。

 

・カントが想定する「他者」は「無知のヴェール」的な存在を想定する以外にない。

・空間的・時間的に広がりを持つ道徳法則として「定言命法」を捉えることができる。

 

 以下、この2点の結論に向かって「定言命法」と「3つの格率」について考察する。

 

■『判断力批判』の「3つの格率」

 

 『判断力批判』を検討するに先立ち、『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)で定式化された「定言命法」を確認する。

 

汝の意志の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従ってのみ行為せよ。(Ⅳ,421)

 

 『基礎づけ』の中の「定言命法」で、どのような「格率」が普遍的法則となり得るかを判定するために「思惟の自己矛盾」や「意欲の自己矛盾」という手続き(※2)をカントは取り入れた。

 

 「完全義務」や「不完全義務」での例を駆使しながら、「無矛盾性」という「定言命法」の特徴について説明する試みは『基礎づけ』での「定言命法」の定式化以降から読み取れる。

 

【参考:道徳形而上学の基礎づけ】

 

 どのような「格率」が、そもそも「定言命法」として妥当し得るのか。『基礎づけ』の中でカントが行った説明が、上手くいっているかどうか疑問である。この問いに対し、『判断力批判』に登場する「3つの格率」がその答えになる。

 

 『判断力批判』の「3つの格率」とは、「第1部 情感的判断力の批判」の中に登場する次の「格率」である。以下『判断力批判』に即して検討する。

・偏見に囚われない考え方の「格率」=自分で考えること

・拡張された考え方の「格率」=他のあらゆる立場に立って考えること

・首尾一貫した考え方の「格率」=いつも自分自身と一致して考えること

            (Ⅴ,294-295 参照)

 

 『判断力批判』によれば、「偏見に囚われない考え方の格率の格率」を「受動的ではない理性の格率」(Ⅴ,294)とカントは言い換える。「受動的ではない理性」の性癖を「理性の他律に向かう」(ibid.)性癖と理解し、これを「偏見」(ibid.)とカントは捉える。

 

 「偏見」とはベーコンの言う「イドラ」であると考えられる。そうであるならば、カントの言う「偏見」には噂話などの「市場のイドラ」や権威ある者の言葉を盲信する「劇場のイドラ」が含まれるだろう。

 

 このように、他人の言動に代表される「偏見に囚われ」ず「自分で考えること」を第1の格率とした。

 

【参考:ノヴム・オルガヌムー新機関】

 

 「拡張された考え方の格率」について、『判断力批判』の中で認識能力を「合目的的に使用する考え方」(Ⅴ,295)であるとカントは補足する。

 

 この考え方は、主観的な個人的条件を脱却し「普遍的な立場」(ibid.)に基づく。この立場に基づき自身を反省する場合、カントは「拡張された考え方」を持つ人と判断する。

 

 この箇所で、「拡張された考え方の格率」を「他の人々の立場へと自分を置き移す」(ibid.)ことであるとカントは説明する。

 

 この立場を『実用的見地における人間学』の中でカントは、「複数主義」と表現する。

 

【参考:実用的見地における人間学

 

 

「首尾一貫した考え方の格率」は、そこに到達するのが「最も困難である」(ibid.)ことをカントは認める。なぜなら、前の2つの「格率」を結合して「熟練するまで繰り返し遵守」(ibid.)しなければ到達できないからである。

 

 このように、『判断力批判』に即して「3つの格率」を検討した。

 

 他方、「理性の公共的使用」(※3)という観点から、オニールは「3つの格率」を解釈する。【続く】

 

(※1)R.M.ヘアやJ.L.マッキーの議論が代表的である。道徳的判断や規則での「普遍化可能性」とは、もしもある道徳的な判断をわれわれが行う時、同じ状況であるならば、誰にとってもその判断が受け入れ可能であるという可能性である。言い換えれば同じ状況の中で自分を例外的な立場に置かない、という目線の維持を意味する。(田中,2000,15 参照)

【参考:道徳の言語】

 

【参考:倫理学ー道徳を創造する】

 

【参考:コミュニケーション理論の射程】

 

(※2)この議論については稲葉稔(1983)が詳しい。

【参考:カント『道徳形而上学の基礎づけ』研究序説】

 

(※3)「理性の公共的使用」については『啓蒙とは何か』を参照。

【参考:啓蒙とは何か】

【第3回】ボランティア活動の倫理学【試論】|「定言命法」から考えるボランティア活動

 

 前回の記事で、次の2点を確認した。

 

・ボランティア活動は「他人に対する不完全義務」である。

・ボランティア活動は「活動の幅」を持つ。

 

【参考:過去記事】 

chine-mori.hatenablog.jp

 

 【第3回】では、ボランティア活動をカント「定言命法」の観点から考察する。

 

 「定言命法」(※1)とボランティア活動との関連性について考えるならば、ボランティア活動を単に「やっても、やらなくてよい」という個人の自発性に純粋に任せた活動ではなく、ボランティア活動は「するべき」であると同時に「やりたい」という活動になる。

 

 この点について、カント道徳哲学の鍵概念となる「定言命法」とボランティア活動との関連から考察する。

 

[内容]

【第1回】ボランティア活動の定義およびその特徴

【第2回】「他人に対する不完全義務」とボランティア活動

【第3回】「定言命法」から考えるボランティア活動

 

■「定言命法」から考えるボランティア活動

 

 「定言命法」とは、「汝の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて、汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従ってのみ行為せよ」(Ⅳ,421)という道徳法則である。

 

 「定言命法」は、少なくとも自分ひとりには当てはまる規則である「格率」が普遍的な法則として同時に意欲することができる、そういう「格率」にだけ従って行為せよ、ということを命じる。

 

 「定言命法」でのポイントは、「格率」が自己矛盾を犯さないかどうかという点である。この特徴を、筆者は「定言命法」の「無矛盾性」と呼ぶ。

 

 『基礎づけ』第2章でカントは以下のように述べる。

 

行為を法則から導き出すためには理性が要求されるから、意志とは実践理性にほかならない。理性が意志を決定的に規定する場合は、そうした存在者の行為は、客観的に必然的に認められるとともに、主観的にも必然的である。(Ⅳ,412)

 

 『基礎づけ』第2章の箇所から考えて、道徳的意志決定を行う場合、われわれは客観的にも主観的にも必然的である「格率」を選択する。

 

 われわれが道徳的に普遍化できる「格率」は、客観的にも主観的にも必然性を持たなければならない。

 

 さて「定言命法」を基に、ボランティアを「べし」と「やりたい」を主とする自発性に佐藤は分けていると考えられる。

 

【参考:近藤良樹「自発性としてのボランティア」(「ボランティアの哲学的分析(論文集)」所収) 】 

ir.lib.hiroshima-u.ac.jp

 

 佐藤によれば、ボランティアを行う者は、自分のエゴを抑えて自分が引き受けなければならないと決意する。周囲を眺めて救済の強い要請を感じ、自分が「やるべき」だとして自己犠牲する決意をする。

 

 自己犠牲を感じるものとしては、「べし」としての自発性は自己強制の苦痛が伴う社会的理性の自発性になる。

 

 一方、自分の生きがいが見出だされ充実感を抱くことができるボランティアの場合、自ら「やりたい」ものとなる。

 

 理性だけでなく自分の欲求も、そのボランティアには積極的である。お祭りやイベントのボランティアなどがこの感性の自発性を負う。

 

 この2つの自発性はひとつのボランティア活動の中で混在する。「やりたい」と思って始めても、いざ手をつけてみると困難が待ち受ける。

 

 それを貫徹し活動を持続させることは、最初の「やりたい」気持ちだけでは無理が生じる場合もある。ここで、理性的な「べし」の自発性がその後を担っていかなくてはならない。

 

 継続していくと、新たな喜びも出てきて「やりたい」という意欲も回復する。最初は義務感から行なっているようなものであっても、慣れると興味が湧き感性の自発性を促すこともある。

 

 このように交錯しながら、両者がひとつのボランティア活動を成就していく。

 

 以上、佐藤のボランティア活動への理解は「定言命法」に基づいて考えられていることが確認できた。

 

 ただし「定言命法」の「無矛盾性」への解釈から考えて、佐藤のボランティア活動への理解はもう一歩踏み込まなければいけない。

 

 つまり、「べし」と「やりたい」という自発性はボランティア活動の中で「混在」ではなく「一体化」していると考えた方が、よりカント的である。

 

 「格率」は、客観的にも主観的にも必然性を持たなければならなかった。

 

 そうであるならば、「ボランティア活動すべし」という「格率」は「べし」であると同時に「やりたい」と考えなければならないだろう。

 

 このように考えるのであれば、ボランティア活動は単に「やっても、やらなくてよい」という個人の自発性に純粋に任せた活動ではなくなる。

 

 むしろ、ボランティア活動は「するべき」であると同時に「やりたい」という活動であると、カントは判断するはずである。

 

 以上、「定言命法」と佐藤の議論を基にボランティア活動について考察してきた。

 

 自分たちの住む地域や誰かのために役立ちたいという想いは、少なからず誰にでもあるだろう。

 

 もしそうであるならば、少しでも誰かに貢献するため、仕事以外で何らかの活動を行うことが道徳的人間の理想的あり方ではないだろうか。【終わり】

 

(※1)「定言命法」について他にも詳しくは以下の記事を参照

chine-mori.hatenablog.jp

【第2回】ボランティア活動の倫理学【試論】|「他人に対する不完全義務」とボランティア活動

 

 前回の記事で、厚生労働省を基にボランティア活動を定義し、近藤良樹のボランティア活動の特徴について検討した。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 ボランティア活動について考える上で、カントの「他人に対する不完全義務」での「親切」の例はヒントになる。「親切」な行為を組織化・拡大化するとボランティア活動になり得ると考えられるからである。

 

 そこで、今回はカント「他人に対する不完全義務」の「親切」の例から、ボランティア活動を素描する。

 

[内容]

【第1回】ボランティア活動の定義およびその特徴

【第2回】「他人に対する不完全義務」とボランティア活動

【第3回】「定言命法」から考えるボランティア活動

 

「他人に対する不完全義務」とボランティア活動

 

 『道徳形而上学の基礎づけ』(以外『基礎づけ』と略記)で、「他人に対する不完全義務」(※1)について考える際、カントは「親切」を例に挙げる。

 

 「われわれが安楽に生活している時、他人が困窮しているならば、その困窮している人にわれわれは何も援助をしない」という「格率」が普遍的法則としてなり得るかどうかについてカントは考える。

 

 確かに、この「格率」も普遍的法則として考えることは可能である。この「格率」を普遍的法則としてわれわれが受け入れるならば、われわれ自身とこの「格率」が衝突する。

 

 われわれには実際、人の助けを借りなければならない状況が出てくる。この「格率」を採用すると、われわれが困窮した場合、他人から援助を求める可能性を自ら奪う。だから、この「格率」を普遍的法則として意欲することはできない。以上の理由から、この「格率」は普遍的法則となり得ない。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 『基礎づけ』での「他人に対する不完全義務」のポイントは、次の2点である。

 

・「困窮している人にわれわれは何も援助をしない」という「格率」は、普遍的法則として考えることは可能である。

 ・われわれが困窮した場合、他人から援助を求める可能性を自ら奪うので、この「格率」を普遍的法則として意欲することはできない。

 

 このように、「困窮している人にわれわれは何も援助をしない」という「格率」は普遍的法則になり得ないとカントは斥け、その逆の「親切」という「格率」を普遍的法則ととして彼は採用する。

 

 「完全義務」と対照的に、「不完全義務」に該当する行為には具体的な方法や頻度が予め決まっていない。

 

 そのため「不完全義務」は「行為の格率に例外を許す」(Ⅵ,390)のではなく、「いつ・どのように」行えばよいのかを行為者自身に委ねる「活動の幅」を持つという解釈ができる。

 

 『人倫の形而上学』でも「不完全義務」は、「例外に対してある種一定の余地(latitudinem)を拒み得ない」(Ⅳ,233)と述べられている。

 

 完全義務と不完全義務の歴史的区別から考えて、小倉志祥も「活動の幅」を認めることは例外を許すことでないという解釈がカント的であるという立場をとる(※2)。

 

【参考:人倫の形而上学

 

 保護猫/地域猫活動などで、よく聞く言葉は「できるところから、自分のペースで行う」ということである。

 

 特に熱心に取り組んでいる方々は保護猫/地域猫活動は猫自体にとても地域住民にとってもやる「べき」活動であると考えている。

 

 一方、この活動のために「啓発活動」を行う者もいれば、「地域猫」の見回りを積極的に行う者もいる。

 

 ボランティア活動として、保護猫/地域猫活動は行う「べき」活動であると考える一方、そこで何を重視するかは成員それぞれの考え方や生活様式などに応じて委ねられている。

 

 このようにカントも「親切」の延長線上にあるボランティア活動も「義務」としてやる「べき」だと考えるだろう。

 

 ただし、その方法や頻度については行為者に委ねられると彼は判断するはずである。

 

 以上、本記事では次の2点を示した。

 

・ボランティア活動は「他人に対する不完全義務」である。

・ボランティア活動は「活動の幅」を持つ。

 

  さて、カント道徳哲学の鍵概念となる「定言命法」とボランティア活動との関連性はどうか。この問題に関して【第3回】で考察する。【続く】

 

※1 カント「完全義務」と「不完全義務」について、詳細は以下の記事を参照。

chine-mori.hatenablog.jp

 

※2「不完全義務」の「活動の幅」の解釈について、以下の文献を参照。

【第1回】ボランティア活動の倫理学【試論】|ボランティア活動の定義およびその特徴

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【写真】某所での地域猫活動の様子

 

 これまで本ブログで「動物倫理学」の考察に加え、保護猫/地域猫活動を通して猫とわれわれ人間の倫理的関わりについて発信してきた。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 一方、保護猫/地域猫活動など地域活動を行う側の態度やそのあり方について考えたことはなかった。

 

 保護猫/地域猫活動もボランティア活動の一部である。このように考えるのであれば、ボランティア活動を行う側の倫理的態度やあり方を整理する必要はある。

 

 この動機の下、倫理学の中でも未開拓な「ボランティア活動の倫理学」について試論を述べる。学習すべきことや考えるべき課題もあるが、読者と共に考えていきたい。

 

[内容]

【第1回】ボランティア活動の定義およびその特徴

【第2回】「他人に対する不完全義務」とボランティア活動

【第3回】「定言命法」から考えるボランティア活動

 

■ボランティア活動の定義およびその特徴

 

 まず、ボランティア活動の定義について確認する。厚生労働省のホームページではボランティア活動を次のように定義する。

 

 ボランティア活動は個人の自発的な意思に基づく自主的な活動であり、活動者個人の自己実現への欲求や社会参加意欲が充足されるだけでなく、社会においてはその活動の広がりによって、社会貢献、福祉活動等への関心が高まり、様々な構成員がともに支え合い、交流する地域社会づくりが進むなど、大きな意義を持っています。

引用元:厚生労働省ホームページ https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/volunteer/index.html

 

 ボランティア活動とは「個人の自発的な意思に基づく自主的な活動」である。厚生労働省によれば、「自発的な意思」に基づいた「自主的活動」がポイントとなる。

 

 続いて、厚生労働省は次の3点をボランティア活動の意義として挙げる。

 

・活動者個人の自己実現への欲求や社会参加意欲が充足される

・社会貢献、福祉活動等への関心が高まる

・様々な構成員が共に支え交流する地域社会作りが進む

 

 ボランティア活動は「個人の自発的な意思に基づく自主的な活動」であり、3つの意義を持つことが確認された。

 

 一方、近藤良樹はボランティアの特徴を次の4つに整理する。

 

・「無料」(無報酬・無給)である

・自発的な自由意志が大切になる

・「勤労」の奉仕である

・恵まれた者が恵まれない者に「奉仕」する

 

参照元:近藤良樹「勤労としてのボランティア」(「ボランティアの哲学的分析(論文集)」所収)
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/21046/20141016140133744449/Volunteer_kondo_yoshiki.pdf

 

 近藤によれば、ボランティア活動を通して、賃金などを超越した自己の創造的能力を満たし充実した生を展開し社会に貢献することで参加者は満足できる。

 

 ただし無給であっても、無理やりに強制されたものである場合、その行為は強制労働であってボランティアとはならない。

 

 ボランティアである条件として、自発的参加という各個人の「自由意志」(voluntas)が踏まえられる。

 

 その自発的意志に端を発することにより、無報酬の勤労内容も強制労働などとは異質の生きがいのある充実した活動に昇華される。

 

 また、ボランティアなどの自発性が真に各人の自発性となるには「しない自由」という「任意性」に裏付けられる。

 

 ボランティアの対象は「恵まれない者」である。「恵まれた者」が経済的に恵まれない人たちや社会的弱者と言われる「恵まれない者」に「奉仕」することがボランティア活動である。

 

 ここで補足しなけれならないことは、余暇・休暇など時間に「恵まれた」状況が、ボランティア活動に必要であることを近藤が強調している点である。

 

 生活するための給与や資金が十分にあって、余剰の時間がなければ活動がままならない。ボランティア活動を行う者には、生活資金以上に十分な時間が必要であると彼は捉えている。

 

 しかし、近藤のボランティア活動への理解は十分ではない。なぜなら、近藤はボランティアの対象を「人のみ」で捉えているからである。つまり、彼のボランティア活動の対象から「動物」や「自然環境」が外れている。

 

 近藤の具体的事例で挙げられているのは地域の「ゴミ拾い」や「祭り・行事」の運営などである。休暇や余暇の時間を活用して、住民と協力しながら地域の「ゴミ拾い」を行ったり、依頼されて「祭り・行事」を一緒に盛り上げるイメージをボランティア活動の中で思い描く。

 

 経済的に恵まれない人たちや「社会的弱者」と言われる人たちは、もちろんボランティアを受ける対象になり得る。また仲間と共に活動することはある種の一帯感や連帯感が生まれるのは事実である。

 

 しかし、犬猫などのわれわれに「モノが言えない動物たち」や森林や海など自然環境も対象に含めてもよい。

 

 実際、「地域猫活動」の対象は地域で生活する猫が主な対象である。また「ビーチクリーン」などの活動は、「キレイな海」を対象とする。

 

 さて、ボランティア活動について考える上で、カントの「他人に対する不完全義務」がヒントになる。次回はカント「他人に対する不完全義務」からボランティア活動を素描していきたい。

 

【参考文献】

近藤良樹,2007:ボランティアの哲学的分析(論文集)、広島大学学術情報リポジトリ広島大学文学研究科、2007年.
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/21046/20141016140133744449/Volunteer_kondo_yoshiki.pdf

【第2回】21世紀の道徳|差別とは「不合理な区別」である【動物倫理学】

 

 本記事【第1回】で、「動物倫理学」を学習する上での第一歩は、「種差別」(speciesism)という概念を理解することであるという考えを示した。そしてシンガーの議論を基に、「種差別」の基本的な考えを確認した。

 

 その後、われわれ人間が持つ能力や権利と人間以外の動物が持つ能力は異なり、それに伴う権利も当然異なるという私見を示した。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 この議論を深めるため、【第2回】となる今回はベンジャミン・クリッツァーの著書『21世紀の道徳』の第3章『なぜ動物を傷つけることは「差別」であるのか』から、「差別」と「区別」について検討する。

 

[内容]

■【第1回】シンガーの「種差別」

■【第2回】「差別」とは「不合理な区別」

■【第2回】まとめ

 

■差別とは「不合理な区別」 

 

 クリッツァーによれば、「差別」とは「不合理な区別」である。彼はその著書の中で、次のように述べる。

 

 差別とは「不合理な区別」、あるいは「正当な理由を持たない区別」だ。逆に言えば、合理的な区別や正当な理由を持つ区別は差別ではなく、ただの区別である。(p.67)

 

 この箇所で、クリッツァーは「区別」を「合理的な区別や正当な理由を持つ区別」と、「不合理な区別」あるいは「正当な理由を持たない区別」に分ける。そして「不合理な区別」あるいは「正当な理由を持たない区別」を「差別」と定義し、「合理的な区別や正当な理由を持つ区別」を単なる「区別」と定義する。

 

 「差別」と「区別」について考える上で、彼は選挙権の有無を例に挙げる。

 

 現代の日本社会では、日本国籍を持ち18歳以上であれば誰でも選挙権を持つ。この条件に関して、大半の人は異論を持たない。

 

 一方、5歳の子どもが選挙権を持たないことを非合理で不当であると考える人は、ほとんどいない。なぜなら投票行為には自分にとって利益となる政策を理解したり、それぞれの政治家の資質評価をしたりするなど複雑な種類の知的能力が要請されるからである。

 

 この理由から、少なくとも5歳の子どもに投票権を適切に行使する政治的判断力はないことは確実である。

 

 この事例から考えて、5歳の子どもが選挙権を持たないことは正当な理由に基づく合理的な「区別」である。

 

 同様にクリッツァーの立場に立つと、犬や猫などが選挙権を持たないことは「区別」である。伴侶動物についての政策は、犬猫の生活に影響を与える可能生は大いにある。しかし彼/彼女たちには自らに関わる政策内容を理解したり、判断したりする能力はない。犬猫が選挙権を持たないことは正当で理由ある「区別」である。

 

 では、動物は何の権利も持たないのか。クリッツァーによれば、「自由権」や「生存権」について動物はこれら権利を持たないと断言できない。

 

 日本国憲法では「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」がわれわれに保障されている。この点は人間以外の動物にも認めるべきであると、クリッツァーは主張する。

 

 文化的生活はさておき、犬猫でも不健康な生活を送ると病気になって苦しみ不利益を被る。また他の動物と同様に、犬猫も自由に行動できることを望む。

 

 選挙権の有無とは異なり、健康な生活に関わる利益や身体を侵害されないことに関わる利益は人間同様、人間以外の動物も持つ。このように考えるならば、生物種に応じた区別は不当になる。この「不合理な区別」こそ「種差別」であると、クリッツァーは断言する。

 

■まとめ

  

 以上、われわれはシンガーの「種差別」に関する議論を整理し、「不合理的な区別」である「差別」と「合理的な区別」である単なる「区別」があることをクリッツァーの議論を通して検討してきた。

 

 このようにシンガーとクリッツァーの議論を整理することによって、「動物倫理学」で語られる「種差別」という考えがより明確になっただろう。

 

 「種差別」に関しては「動物の権利」が鍵概念となる。ただし、『21世紀の道徳』でも述べられているように、「権利」という言葉について一塊のセットや束になっているというイメージは強い。

 

 「人間の権利」と「動物の権利」を混同して使用しているため、議論が混乱する場面が多くあるように私は感じる。両者の混乱を避けるため、浅野幸治は「基本的人権」に対して「基本的動物権」(※)という考えを提示したことは無理もない。

 

【参考:ベジタリアン哲学者の動物倫理入門】

 

 しかし浅野のような解決策を持ち出さずとも、「差別」と「区別」を分類することで「種差別」や「動物の権利」という考え方はより厳密化できる。

 

 クリッツァーの「差別」と「区別」という分類は、結果的に「動物倫理学」という倫理学的分野の進展にもつながる。

 

 また法律的には未だ解決できていない部分もあるが、クリッツァーの議論を応用すれば、われわれ人間が持つと考えられる「権利」をそれぞれの能力に応じて、人間以外の他の動物にも範囲を拡大させることで「動物の権利」を保障することも可能であろう。

 

 「動物倫理学」を学習する上で、「種差別」という考えは避けて通れない。「種差別」をキーワードとして「動物倫理学」を理解する上で、クリッツァーの小論から学問的にも実践的にも広がりを見た。

 

 今後も、「動物倫理学」に関して実践を意識しながら理論的見地を深めていきたい。【終わり】

 

(※)浅野の言う「基本的動物権」とは①生命権②身体の安全保障③行動の自由権である。  (浅野,15,2021 参照)

【第1回】21世紀の道徳|差別とは「不合理な区別」である【動物倫理学】

 

 「動物倫理学」を学習する上での第一歩は、「種差別」(speciesism)という概念を理解することにある。「種差別」という言葉は心理学者リチャード・ライダーが初めて使用し、ピーター・シンガーが『動物の解放』で世に広めた。

 

【参考:「種差別」という概念】

pyrabital.hatenablog.com

 

 また人間と人間以外の動物の道徳的関係性を考える上で、ベンジャミン・クリッツァーの『21世紀の道徳』がひとつの手がかりとなる。本書でクリッツァーは、「差別」の区分に新たな切り口を与える。

 

 今回は、彼の著書の第3章『なぜ動物を傷つけることは「差別」であるのか』を参考に、「差別」と「区別」について検討する。この作業が今後、「動物倫理学」への理解をより深化させるだろう。

 

[内容]

■【第1回】シンガーの「種差別」

■【第2回】「差別」とは「不合理な区別」

■【第2回】まとめ

 

■シンガーの「種差別」

 

 クリッツァーの主張を検討する前に、「種差別」の基本的な考えから確認する。端的にいうと、「種差別」とは人間以外の生物への差別である。

 

 「種差別」という考えは「人種差別」 (racism) に倣って作られた用語である。シンガーなど「動物の権利」(animal rights)の提唱者によって、この言葉は使用される。

 

 この立場によれば、人間のみを特権的地位に位置づけ、他の生物をないがしろにする「差別」は不当となる。

 

 『動物の解放』の中で、シンガーは「種差別」を次のように定義する。

 

スピシーシズムは・・・(中略)・・・私たちの種〔人類〕の成員に有利で、他の種の成員にとっては不利な偏見ないしは偏った態度なのである。(邦頁 27)

 

【参考:動物の解放】

 

 シンガーによれば、「種差別」とはわれわれ人間に有利で、人間以外の生物にとって不利な偏見または偏った態度を意味する。

 

 ただしシンガーによれば、植物は喜びや苦痛を感じない。基本的に「種差別」という言葉は人間以外の動物を対象とすると考えてよい。

 

 「食肉」や「娯楽」として動物を利用することを正当化する根底の中に、われわれは「種差別」的な態度を見る。

 

 味覚による快楽や、闘牛や闘鶏などによって得られる興奮や楽しさなどは動物の苦痛に比べると些細なものに過ぎない。しかし、われわれは無意識に自らの種の利害を重視する。

 

 シンガーの主張の基本路線は、古典的功利主義者であるベンサムの『道徳および立法の諸原理序説』が根拠となる。

 

『道徳および立法の諸原理序説』は次の一節から始まる。

 

自然は人類を苦痛と快楽という、2人の主催者の支配下に置いてきた。われわれが何をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするだろうかということを決定するのは、単に苦痛と快楽だけである。

 

【参考:道徳および立法の諸原理序説】

 

 「功利主義」(utilitarianism)は、道徳的判断を「苦痛」と「快楽」に置く。多くの人間が心地よさを感じるのであれば、それは善い行為である。一方、多くの人間が不快に思うのであれば、それは悪い行為である。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 「功利主義」の「快苦の原則」を、「動物の権利」に拡大した人物がシンガーである。

 

 さて、筆者は「種差別」に反対しそこに合理性はないという立場である。また「快苦の原則」は、人間にも人間以外の動物にも共通する部分であることを支持する。

 

 一方で、われわれ人間が持つ能力や権利と人間以外の動物が持つ能力は異なり、それに伴う権利も当然異なる。この点を区別しなければならない。

 

 このように主張するのが、クリッツァーである。次に、彼の著書『21世紀の道徳』の第3章『なぜ動物を傷つけることは「差別」であるのか』から、「差別」と「区別」について検討する。【続く】

 

↓次の記事も参考↓

davitrice.hatenadiary.jp

【抄訳⑳】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • University of California Press
Amazon

 

5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性 (p.184)

 

 どちらの選択肢もカント主義者にとって喜ばしい知らせではないけれども、非恣意的な選択はよい判断能力と理性を味方に付ける。

 

 人間の道徳的受益者は物件ではない。つまり彼ら自身は経験的な福利を持つ個人であり、道徳的主体は直接的な道徳的関心を持つ必要条件ではない。

 

 しかし論理に好き嫌いはない。この同じ様な条件は関連する点で彼らのように動物の場合には必要ない。

 

 経験的な福利を持つ動物たちにわれわれが直接的な義務を負うことを否定し、しかし関連する点でこれら動物のように人間の道徳的受益者の場合にこのことを肯定することは、支持されないしそして支持できない道徳の種差別主義者の理解の徴候となるだろう。【続く】

 

↓「種差別」という言葉は、1973年に心理学者のリチャード・ライダーが作った。1975年にピーター・シンガーが出版した『動物の解放』によって広く知れ渡る様になった。↓

 

※誤訳やこちらの認識不足などございましたら、コメント欄に書き込みして頂けると幸いです。

【抄訳⑲】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

 

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • University of California Press
Amazon

 

5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性 (p.183-pp.184) 

 

 カントの擁護者はカントが誤解されていると反論するかもしれない。彼が主張するように、動物を含め、単に手段として価値あるものが存在するのは、人間の道徳的主体だけでなく、人類全般のためである。

 

 したがって彼の見解では、道徳的主体だけでなく人間すべてが目的それ自体として存在し最後の段落の議論は根拠のないものとして顕わになった。

 

 さて、人間の道徳的受益者を含む人間すべてが目的それ自体として存在しているとカントは考えているかもしれないが、彼はこのことを一貫して考えることはできない。

 

 というのも人間の道徳的受益者は道徳的主体の合理的な必要条件を欠いているので、彼らは「相対的な価値しか」持たないことになり、これらの問題に関するカントの理解からすれば、物件として見なさければならないからである。

 

 つまり、人間の道徳的受益者を目的それ自体として、道徳的主体であることは目的それ自体であることの必要条件ではない(十分条件ではあるかもしれないが)と考えるか、これらの人間を物件として「相対的な価値しか」持たないと考えるか、どちらかを選択しなければならない。

 

 もし前者の選択肢を選んだならば、われわれは人間の道徳的受益者に直接的な義務を持つことができるが、後者を選択したならば、われわれはそれができない。

 

 どちらの選択肢もカントにとって有益ではない。前者を選択したならば、カントは倫理的理論の中心的な考えを放棄しなければならない。すなわち、理性的存在者のみ(すなわち、道徳的主体である者のみ)が目的それ自体として存在するということである。

 

 後者の選択肢が選ばれたならば、彼は道徳的恣意性の非難を受けることになる。【続く】

 

↓カントの「目的それ自体」に関して以下の文献を参照↓

 

※誤訳やこちらの認識不足などございましたら、コメント欄に書き込みして頂けると幸いです。

【抄訳⑱】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • University of California Press
Amazon

 

5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性 (p.183)

 

 しかしカントの立場は怪しいというよりひどい。それは恣意的である。

 

 議論のために、私が人間の道徳的受益者を苦しめることで得た喜びの結果として、やがて加虐的な習慣を身に付けるようになり、今度は私が人間の道徳的主体を苦しめるようにさせたと仮定しよう。

 

 一方の行為が他方の行為につながっているとしたら、もし私が彼らにしたことに対して2つの行為の間に類似性がないとしたら、控えめに言っても非常に驚くべきことである。

 

 例えば、もしひどく苦しむ人間の道徳的受益者に彼らを傷つけるという行動上の証拠がないならば、人間の道徳的主体にこのことを行うことが、加虐者として私が楽しんで与える苦しみを生み出すと、どのように合理的に推論できるだろうか。

 

 何気ない話を納得がいくものにするため、人間の道徳的受益者が、人間の道徳的主体と同様に苦しむ可能性がありそして苦しめられたとき人間の道徳的主体が振る舞う方法と似たやり方で彼らの苦痛を行動的に示せると仮定しなければならない。

 

 しかし、一方を苦しめることから、もう一方を苦しめることへと私が導かれるように、もしも彼らの行動が似ているならば、彼らの苦しみも同様であると確信することは妥当である。

 

 しかしもし苦しみが似ており、道徳的主体の場合にそれを引き起こすことが(カントが許容するように)彼らに負う直接的義務に反するならば、人間の道徳的受益者に苦痛を与えることが彼らに負う直接的な義務に反するという結論をどのようにわれわれは非恣意的に避けることができるだろうか。

 

 道徳的主体が定言命法に従って行動できることに対して道徳的受益者はそれができないと回答することは、事実であるが無関係である。

 

 問題は彼らの能力の違いではなく、苦しみの共通能力に関してである。

 

 もしも道徳的主体に不当な苦しみを引き起こさない義務が彼らに直接負う義務であるならば、人間の道徳的受益者に同じことをしない義務も同様でなければならない。

 

 そうでなければ道徳的正義の要件をわれわれは誇示することになり、関連ある類似の事例の異なる扱いをわれわれは認めることになる。

 

 カントの立場はこの必要条件に反しており、後で詳しく見ていくが、その違反は彼の理論の道徳的な恣意性の避けられない結果である。【続く】

 

↓上記の議論は「普遍化可能性」についての議論と関連する。「普遍化可能性」に関して以下の文献を参照。↓

 

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【第2回】保護猫カフェ「球美にゃんこ亭」に行ってきた|離島特有の現状と課題【久米島町】

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 2021年9月23日に久米島町唯一の保護猫カフェ「球美にゃんこ亭」(一般社団法人にゃんこ亭)が、オープンした。

 

 カフェの運営にあたる、代表理事K氏と専務理事A氏から、久米島町の現状と保護猫/地域猫活動の拠点として「球美にゃんこ亭」の方向性を聞くことができた。

 

 今回は、その2回目である。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

[内容]

・【第1回】久米島町の現状

【第2回】「球美にゃんこ亭」の方向性

【第2回】感想

【参考:店内の様子】

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成猫の部屋(下)。子猫と違い落ち着いた様子。去勢・不妊手術を受けた「さくらねこ」もいた。

【参考:店内の様子】

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成猫の部屋(上)。ネコは「寝子」ともいう。好きな場所でそれぞれの時間を過ごす。

 

■ 「球美にゃんこ亭」の方向性

 「球美にゃんこ亭」の方向性は次の2点にまとめられる。

 

①保護猫/地域猫活動のランドマーク

②「TNR」より「TNTA」に力点

 

 以下、この2点について深掘りする。

 

①保護猫/地域猫活動のランドマーク

 カフェの運営にあたる専務理事A氏の話によれば、これまで久米島町には保護したネコを預かったり譲渡したりする施設がなかった。

 

 またネコに関する依頼・相談・苦情に関して、行政もどうしていいか分からずなかなか対策が進まなかった。

 

 その結果、次の2点のような問題も起こった。

 

  • 漁港で子ネコを海に投棄する。
  • 別の集落にネコを移動させる。

 

 この話だけで判断すると、「残酷だ」とか「動物虐待だ」という印象を持つ読者もいるかもしれない。しかし、住民も生活がかかっている。

 

 ネコは「縄張り意識」が強く、漁港や住宅街など生活圏が人間と同じ「外ネコ」もいる。久米島町には実質的に受け皿が存在しなかったので、漁師や他の住民の身になれば止むを得ないと考えざるを得ない。

 

 このような現状から、住民とネコの問題を解決するため「保護猫カフェ」の存在は大きい。住民とネコの問題に関する相談窓口となり、ボランティアの方々と連携を図り時に行政につなぐ。

 

 住民とネコの間に立つ役割を果たすという意味で、保護猫カフェ「球美にゃんこ亭」を久米島町のランドマークとして位置付けたい、とA氏は語った。

 

②「TNR」より「TNTA」に力点

 「久米島の現状を考えて「TNR」より「TNTA」に力を入れている」と、両氏は語っていた。

 

【参考:ペットマナープロジェクトおのみち【TNR・TNTA活動について】

onomichi.mypl.net

 

 なぜなら、ネコの繁殖力に対して猫活動を行う環境が久米島町は整っておらず、「TNR」で進めるとなかなか追いつかないからである。

 

 事実、1匹の雌ネコから、1年間で子ネコが約30匹生まれる。2年後には80匹以上になり、3年後には2000匹以上になる。

 

【参考:NPO法人 ねこと人と地域の命をつなぐ会】

npo-ccc.okinawa

 

 加えて、去勢・不妊手術後の「地域猫」の見守りやエサやりなども行うとなると、現実的に厳しい。保護したネコを去勢・不妊手術後に飼い主が大切に育ててくれることを考えると、「TNTA」の方が久米島町に適している。

 

 このように地域猫活動を進める一方で、「球美にゃんこ亭」は課題を抱えている。それは、「地域猫活動と島内の生態系維持の両立」である。

 

 もともと久米島町には、「久米島ホタル」などの固有の生物が存在する。この「固有種」保護の観点からすると、ネコは「外来種」に位置づけられる。

 

 糞尿被害など久米島の「固有種」に対し問題化された時点で、A氏の話によれば、もともと久米島町には1,000匹から2,000匹程度「外ネコ」が存在していたと推測される。

 

【参考:久米島ホタルの会】

kumejimahotaru.jimdofree.com

 

 一方、町内では住民にとって「害獣」となるネズミを彼/彼女たちが駆除していたという。もしも町内すべてのネコに去勢・不妊手術を行えば、島内の生態系が崩れ、ネズミが増えてしまう。このような懸念がある。

 

 「球美にゃんこ亭」のある付近は、観光客の宿泊施設や飲食店が多数ある。「外ネコ」がネズミを駆除することで、宿泊施設や飲食店を経営する住民はいくらか助かっていたのだろう。

 

【参考:マンガで学ぶ動物倫理】

 

 A氏によれば、「TNTA」に力点を置きながら町内の生態系に配慮した「地域猫活動」を実施しなけれならない。

 

 以前、島内に存在していたと推定される1,000匹から2,000匹の範囲内で、去勢・不妊手術を施していない「外ネコ」を残しながら、「地域猫活動」を実施していきたいとA氏は語った。

 

 また、すでに確立されているネコと人の生態系の中でネコの頭数は最終的に模索すべきである。ただし活動自体が始まったばかりなので、まずは増加傾向を食い止め、以前のような頭数をどうキープするかが当面の課題のようである。

 

 この話から考えると、「去勢・不妊手術はよいことである」と単純に言い切れない。人と人以外の動物も含む島全体の「持続可能な暮らし」を目指すためには、このようなバランスも必要である。

 

 保護猫/地域猫活動の拠点として「球美にゃんこ亭」は、ネコの保護活動を通して久米島町の自然を守ることを目指す。その中で島内の多くのネコたちが不幸にならず、島内の人たちと共存できるかを模索しながら活動している。

 

■ 感想

 以上、保護護猫カフェ「球美にゃんこ亭」を通して離島特有の現状と課題についてまとめた。

 

 沖縄本島とは違う離島特有の悩みや課題など具体的に活動している方から話を聞くことで、これまで「動物倫理学」や「地域猫活動」の学習や実践から学んできたことを見直す機会をもらったことは大きい。

 

 オープン初日にも関わらず、快く色々な質問に答えて頂いたKさんとAさんに改めて感謝申し上げます。

 

 この記事を通して、地元のみならず多くの方々に保護猫/地域猫活動に関心を持って頂けたら幸いである。【終わり】

 

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球美にゃんこ亭(一般社団法人 にゃんこ亭) 
〒901‐3108 沖縄県島尻郡久米島町字比嘉160-42
14:30~18:30(不定休)

HP:https://nyankotei.jp/

instagram: kume_nyanko

Twitter@Kumeis_cat

Facebookhttps://www.facebook.com/pg/kumejimadogandcat/posts/

一般社団法人にゃんこ亭: amazon.jp/hz/wishlist/ls

 

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↓動物倫理学について以下も参考↓

www.youtube.com