Es irrt der Mensch, solang er strebt.

カント道徳哲学、動物倫理学そして教育倫理学についての記事を書いています。

動物の賢さがわかるほど人間はそれほど賢くないー高等学校教科書『倫理』を手がかりに

  人間とは何か。高等学校教科書『倫理』はこの問いから始まる。ソクラテスやカントなど様々な哲学者の思想から学ぶ前にひとつの手がかりとして高等学校教科書『倫理』は人間と動物との違いから出発する。

 

 まず高等学校教科書『倫理』の内容を引用する。

 私たちは他の生き物と同様に生命を与えられて、今、ここに生きている。これからの人生をどのように生きれば、意味のあるものになるだろうか。そもそも、人間とはいったい何だろうか。(p.6)

 

 このように人間として「生きる意味」やそもそも「人間とは何か」考える出発点として動物との違いを高等学校教科書『倫理』は明確化しようとする。

 

 例えば「知恵こそ人間の特質」であると高等学校教科書『倫理』は主張する。しかし「知恵」のある動物は人間以外にも存在することが様々な研究や観察から分かってきた。このような一方的な主張がむしろ人間と動物の区別を曖昧にする。

 

 さて高等学校教科書『倫理』は人間を以下の6つに定義する。

①ホモ・サピエンス(知恵のある人)

②ホモ・ファーベル(工作する人)

③ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)

④ホモ・シンボリクス(象徴を用いる人)

⑤人間は自然本性的にポリス的動物である

⑥ホモ・レリギオースス(信じる人)

 

 確かに⑥番は人間のみの特性であると思われる。しかし①から⑤は人間以外の動物にも備わっている。以下順に検討する。

 

①ホモ・サピエンス(知恵のある人)

 このように主張した人物に植物学者リンネ(瑞 1707ー1778) がいる。彼は生物を分類する上で人類にこのような学名を与えた。彼は人間の優位性を「知恵」に見た。

 

 高等学校教科書『倫理』も次のように述べる。

 人間は、自分たちには知恵があることを自覚してきた。近代の生物学では、種としてのヒト(人間)をホモ・サピエンスという学名で呼んでいる。これはラテン語で「知恵のある人」という意味であり、人間と他の生き物との違いをやはり知恵の有無で区別している。(p.7)

 

 しかし前述したように「知恵」のある動物は人間以外にも存在する。次の動画を見ていただきたい。


ジュースを買うフサオマキザル

 

 このサルは東北サファリパークのサル劇場に出演しているフサオマキザルの「アキちゃん」である。確かに生まれつきこのような行動をとったとは考えにくい。しかしジュースを買う人間の行動を観察し学習して自らジュースを買って飲んでいることは推測できる。

 

 リンネが主張するように、人間は「知恵のある人」であると定義することは正しいとは言い難いし高等学校教科書『倫理』の内容も説得力を持たない。

 

②ホモ・ファーベル(工作する人)

 このように主張した人物に哲学者ベルクソン(仏 1859ー1941) がいる。道具を作り操るという人間の特質に彼は注目した。しかし道具を作り操るという行為は人間以外の様々な動物に見られることが今日分かっている。例えば南太平洋に棲息するニューカレドニアカラスである。


カラスはやはり賢い 道具を使うだけでなく自分で作る

 

 それ以外にもラッコは貝類やウニ類を胸部や腹部の上に石を乗せ、それに叩きつけて割り中身だけを食べる。石を道具として操る能力がラッコにはある。またオーストラリアの沖合で目撃されたシロクラベラは貝を岩に打ちつけて殻を割り中身を食べる習性がある。

natgeo.nikkeibp.co.jp

 

 ベルクソンが主張するように、人間は「工作する人」であると定義することは現在の研究結果からかけ離れている。この主張を援用する高等学校教科書『倫理』の内容も正確な記述とは言えない。

 

③ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)

 このように人間を定義した人物は歴史家ホイジンガ(蘭 1872- 1945)である。人間の特性を必要から離れて「遊戯」を行う点に見る。「遊戯」つまり「遊ぶ」という行為は何も人間だけではないことは容易に観察できる。例えば犬などは仲間同士で遊んだりじゃれ合ったりしている光景は身の回りでよく目にする。


はじめてドッグランで他の犬と遊ぶ柴犬どんぐり Shiba Inu Donguri for the first time to play with other dogs in the dog run

  

 ベルクソンが主張するように、人間を「遊ぶ人」と定義することは身近な事例からも無理がある。同様な主張を行う高等学校教科書『倫理』も現実的ではない。

 

④ホモ・シンボリクス(象徴を用いる人)

 他者と交わるとき人間は言語や芸術を用いる。哲学者カッシーラー(独 1874- 1945)は同様の意味で「アニマル・シンボリクス」という言葉を用いた。しかし言語を用いるのは人間だけでないことは最近の研究結果から明らかである。インターナショナル・キャットケアの最高責任者クレア・ベサントによれば、成猫は人間の言葉を200語から300語を理解する。また彼らは特に尻尾で自らの感情を表現する。

 

ネコ学入門: 猫言語・幼猫体験・尿スプレー

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 人間以外の動物が芸術的活動を行えるかは依然定かではない。それにしても人間のように言葉を発し文字を書けることだけが言語能力とは限らない。「象徴を用いる」ことから考えると、例えば猫ならば、気心が知れている仲間の猫と瞬きであいさつし鼻と鼻を近づけて互いを確認し合う。またミツバチはいわゆる「8の字ダンス」で仲間に蜜源の場所を知らせる。

 

 このように考えるならば、様々な方法で人間以外の動物もコミュニケーションをとっていると考えた方がよいだろう。

 

 この事実から考えるとカッシーラーなどが考えるように人間だけが「象徴」を用いることも説得力を持たない。他と同様この考えも人間の定義として不十分である。

 

⑤人間は自然本性的にポリス的動物である

  この言葉は政治学』第1巻第1章でのアリストテレスによる有名な定義である。

 

 「ポリス」とはすなわち「社会」を意味する。人間は社会集団の中で生活する動物である。「社会」の中には一定のルールや秩序があり、個々人が集団の中でそれぞれ役割を果たす。この特質が人間の中にある。一方アリストテレスには動物は無秩序で一定の役割を果たさない自由奔放な存在に映ったのだろう。

 

 しかしこれもよく考えるとアリストテレスの主張は間違いだと気づく。例えば蜂や蟻である。蜂や蟻は「女王蜂」や「女王蟻」を中心とした「社会」を形成する。その社会の中で「働き蜂」や「働き蟻」が獲物を捕ったり子育てをしたりする役割をそれぞれ果たしながらある一定の秩序を保って生活している。

 

 このことから考えると「自然本性的にポリス的動物である」という言葉は単に人間だけを表すとは限らない。他の生物もその集団の中で一種の「社会性」を保って生活しているからである。「社会性」を持つことが人間の特質であるという高等学校教科書『倫理』の内容は必要条件に当てはまらない。

 

まとめ

 以上のように考えると人間と動物の区別はむしろ明確化できなくなる。確かに動物とはいってもすべて一括りで考えることはできない。程度の問題はある。しかし少なくとも高等学校教科書『倫理』が発した「人間とは何か」という問いへの答えは余計曖昧さを増す。

 

 芸術や宗教など人間固有の活動も確かにあるはずである。しかし人間と動物に共通する部分の方が多いように思われる。したがって「○○だから人間は動物よりも優位である」という主張の多くは当てはまらないだろう。

 

 物事を批判的に見ることを哲学は要求する。教科書という「権威」を疑い「常識」を疑い自分自身で物事を深く考えることができるのあれば、動物と人間との共生の道が開かれるかもしれない。【終わり】

【読書ノート】道徳と、人間と動物のきずな

 

 ピーター・シンガーによれば、どんな生きものであろうと平等の原則がその苦しみが他の生きものと同様の苦しみと同等に考慮されなければならない。人間であれ人間以外の存在であれ苦痛という「感覚」を持つことがその生きものの利益を考慮するかどうかについての唯一の妥当な判断基準となる。

 

 しかし動物を倫理的考慮の対象にする場合、その基準を「苦痛」だけに求めることは十分ではない。また例えば野生動物を「野生動物として」、家畜動物を「家畜動物として」そして伴侶動物を「伴侶動物として」われわれは理解しなければならない。ピーター・シンガーをはじめ動物倫理学を扱う多くの研究者たちは動物を一括りに扱っている。

 

 一方『コンパニオン・アニマルー人と動物のきずなを求めて』所収、バーナード・E・ローリンの論文「道徳、人間と動物のきずな」は対象を伴侶動物に絞る。同時に彼は動物を倫理的考慮の対象にする基準を「苦痛」以外に置く。

 

 彼によれば、人間と動物の間に見逃すことができない異なる重要な関係がある。人間にとって伴侶動物は確かに道具としての価値を持つ。一方、動物には生命を持った感覚のある「道徳的存在」として本来的価値がある。これら動物は人間にとって重要であるかとは無関係である。動物自身が生命を持つ存在である。効用より遥かに重みのある「道徳という絆」によってわれわれは彼らと結ばれている。

 

 ここで彼が言いたいことはわれわれと伴侶動物との関係のあり方である。彼はカントの「目的」という概念を持ちだして伴侶動物を愛玩目的の「手段」として利用することは間違っていることを指摘する。

 

 愛玩動物の役割を超えて伴侶動物にも生命を持った感覚のある「道徳的存在」としての本来的価値を彼は認める。したがってもしも動物が道徳的配慮の対象であるならば、道徳的に正当な理由がない限り、どんなことがあってもわれわれは動物を殺してはならないし動物の本性を侵害してはならない。

 

 また人間と動物との相違点とされてきたものの中で道徳的観点から妥当性のあるものはまったくないと彼は主張する。人間にとって道徳的に妥当性があり重要であるとわれわれが考える特徴が動物にも同じように備わっている。それは次の2点である。
 ①動物は生きている

 ②食物、仲間関係、性、運動、痛みの回避など自身にとって身体上、行動上必要なも
 のや重要なものを動物は持っている。

 

 確かに①も②も人間も動物も道徳的に妥当性があり重要である特徴である。この点から考えると、苦痛という「感覚」が生きものの利益を考慮するかどうかについて唯一の妥当な判断基準であるというピーター・シンガーの主張は揺らぐ。

 

 以上の点を踏まえて彼は動物への栄養上や生物上の要求についてわれわれは理解が欠けていることを彼は指摘する。その結果、望まれない動物が増えたり野犬の群れなどができたりする。

 

 本論文にあるように、例えば「動物は痛みを感じない」や「動物は理性を持たない」など多くの説得力のない議論や動物への無理解が彼らを「手段」として扱うことに繋がった。

 

 長年共に生活を重ねると、単なる「癒やし」を与えてくれる存在を超えて伴侶動物は「かけがえのない存在」となる。生命を持つ感覚ある「道徳的存在」としての本来的価値をお互い認め合うならば、動物と人間を超えた「特別な間柄」をわれわれは構築できるようになるだろう。【終わり】

【途中経過】今年の目標

 気づけば9月も半ば。新たな赴任先で頑張ろうと決意するも「コロナ禍」の中で4月から約2ヶ月間不規則な出退勤だった。仕事もままならず5月までネット環境が整わない中、ブログ執筆をよくも継続できたなと自分で自分を褒める。

 

 単身赴任生活があと2年半続くが、その間できることを地道に進めていきたい。

 

 さて今回は今年1月に立てた目標の途中経過を見ていく。

chine-mori.hatenablog.jp

 今年立てた目標は以下の通り。7項目順にみていく。

[途中経過:今年の目標]

①【終了】『純粋理性批判(上)(下)』読破

②【終了】『道徳の形而上学』の「第2部 徳論の形而上学的基礎論」要約

③【継続】ブログ100記事執筆

④【終了】『The Case for Animal Rights』読破

⑤【変更】腹筋のトレーニングと骨盤矯正ヨガ

⑥【継続】服の購入及び美容室に定期的に通う

⑦【延期】ドイツ語検定5級

 

①【終了】『純粋理性批判(上)(下)』読破

 『純粋理性批判(上)』は予定通り今年1月に読了。今年7月に『純粋理性批判(下)』を読了した。これでカント『三批判書』は読破したことになる。『純粋理性批判』は「時間・空間論」「カテゴリー論」「理性の二律背反」「宗教論」そして「道徳」など話題が多岐に渡る。カント道徳哲学を研究する上でも本書は避けて通れない。折に触れて読み返す必要性を感じた。『第四批判書』とも言われる『単なる理性の限界内の宗教』にも今後挑戦してみたい。

純粋理性批判 下

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カント全集 10 たんなる理性の限界内の宗教 (岩波オンデマンドブックス)

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②【終了】『道徳の形而上学』の「第2部 徳論の形而上学的基礎論」要約

 昨年12月頃から作業開始。1段落ずつ要約を始め5月に終了。「不完全義務」について更に深く理解できた。今後の論文執筆の材料にしたい。

カント全集 第11巻 人倫の形而上学
 
 
 ③【継続】ブログ100記事執筆

 この記事で73本目。100記事まであと27本。100記事書くと新たな景色が見えるだろうか。楽しみながら地道に進めていく。

[参考] ブログで成果が出るまでの期間は「100記事」です【魔法はありません】

www.youtube.com

 
④【終了】『The Case for Animal Rights』読破

  初めて洋書に挑戦。2019年1月から読み始めて今年8月に終了。時間は大分かかった。「動物倫理学」でトム・レーガンはあまり主流でない感じはする。だからこそ研究を継続したい。特に本書のカントについての考察部分を約4ヶ月かけて「試訳」できたのはいい経験だった。

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • 発売日: 2004/09/01
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 ⑤【変更】腹筋のトレーニングと骨盤矯正ヨガ

  当初、腹筋と骨盤矯正ヨガを毎日頑張っていたが「ムキムキにならなくてもいい」ことに気づき路線変更。運動と食生活を自動化することを意識した生活に切り替えた。朝5時起床し散歩または雨が降れば腹筋20回。朝食も含め朝やるべきことを自動化。夕食はほぼ毎晩豆腐と納豆とキムチ。その結果悩みだったお腹の凹みが以前より2㌢減った。朝活を始めたことで仕事にもよい影響が出た。結局体が資本。この習慣は継続したい。

[参考]【究極】生産性を極めた人間の「モーニングルーティン」

www.youtube.com

 
⑥【継続】服の購入及び美容室に定期的に通う

 新たな赴任先で美容室探しが難航したが何とかよい美容室を見つけた。今のところ毎月通うことができている。家にいることが多くなったので私服を買うことはほとんどなくなったが職場で着ていく服を固定して服選びの負担を少なくした。これで時間を圧縮して他の所にエネルギーを回すことができた。

 

 ⑦【延期】ドイツ語技能検定5級

 上半期は参考書や過去問に取り組んだ。夏の試験はすべて中止になった。冬の試験は今のところ実施する予定のようだが、コロナ感染のリスクを考えて今年は試験を見合わすことにした。コロナが落ち着いたら挑戦したい。

[参考]ドイツ語技能検定試験

www.dokken.or.jp

 

 目標設定のポイントは「具体的に」設定することである。抽象的だと計画倒れに終わってしまう。『「具体⇆抽象」トレーニング』によれば、具体化とは「逃げ道をなくすこと」である。目標を具体的に設定したお陰で今年立てた目標が上半期で3つ達成できた。残り3ヶ月頑張っていきたい。【終わり】

 

【試訳】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)㉑

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • 発売日: 2004/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

 5.5 KANT’S POSITION:HUMANITY AS END IN ITSELF (p.184-pp.185)

  One final point, one that plumbs the depths of Kant’s arbitrariness, merits our attention before moving on. As remarked earlier, Kant offers what he regards as alternative, equivalent formulations of the categorical imperative. Any act that passes the best of Universal Law also passes the test of End in Itself, and vice versa;and any act that fails the one also fails the other. This can be shown to be false. Suppose I am considering whether to be a vegetarian, not out of considerations that relate to my health but because I think that the intensive rearing of farm animals is wrong and is wrong because of how the animals are treated. If I make use of the Formula of Universal Law, there is no reason why I cannot universalize the relevant subjective maxim: no one is to support the intensive rearing of farm animals by purchasing meat from these sources. But now suppose I consult the Formula of End in Itself. That formula instructs me always to treat humanity, either in my own person or in the person of any other, always as an end, never as a means merely. But how am I to assess the morality of my moral objections to factory farming by references to that formulation of the categorical imperative? Since the beings I am concerned about are not human beings, that formula provides me with no possible guidance. But if it provides me with no possible guidance, then the two formula- that of Universal Law and End in Itself- are not equivalent after all. For though my subjective maxim about not supporting the intensive rearing of animals passes the test of Universal Law, the morality of supporting the intensive rearing of animals cannot even be tested by, let alone pass, the Formula of the End in Itself. The moral arbitrariness characterizing Kant’s position thus makes its presence felt at the most fundamental level – at the level of his interpretation of the fundamental principle of morality. Only undefended prejudice could lead Kant to suppose that an expansive formulation of the fundamental principle of morality (that of Universal Law), one that allows us to test directly our maxims with regard to how animals may be treated, is equivalent to a restrictive formulation (that of End in Itself), one that has no direct bearing on questions relating to how animals may be treated. To limit the direct scope of the supreme principle of morality to how humans are to be treated arbitrarily favors these individuals as it arbitrarily excludes others.

 

【試訳】

  最後の1つのポイントは、カントの恣意性の深みを掘り下げるものであり、先に進む前にわれわれが注意を払う価値はある。以前に述べたように、選択肢として見なすもの、つまり定言命法の法式と同等のものをカントは提示する。最高の普遍的法則を通過するどんな行為も目的それ自体の試験にも合格し、逆もまた同様である。そして一方が失敗すると、もう一方も失敗する。このことは偽であることが示される可能性がある。自身の健康に関連する考慮事項からではなく、農場の動物の集中的な飼育は間違っており、動物の扱い方が間違っていると考えて、菜食主義者になるかどうか考えていると仮定しよう。もしも普遍的法則の法式を利用するならば、関連する主観的格率を普遍化できない理由はない。これら供給源から肉を購入することによって家畜の集中飼育を支援する者はいない。しかし今目的それ自体の法式を考慮に入れたとしよう。自分自身の人格または他人の人格のいずれかで、この法式は常に自分自身を人間性として、つまり決して単なる手段としてではなく、常に目的として扱うよう命じる。しかしこの定言命法の法式を参照して工場農業への私の道徳的反対の道徳性をどのように評価するのか。関心を持つ存在は人間ではないので、その法式は私に可能な手引きを与えない。しかしもしもそれが可能な手引きを与えないならば、2つの法式、つまり普遍的法則の法式と目的それ自体の法式と結局同等ではない。というのも動物の集中飼育を支持しないことについて自分の主観的格率は普遍的法則の試験に合格するけれども、動物の集中的飼育を支持する道徳は、それ自体言うまでもなく、目的それ自体の法式によって試験することさえできない。したがってカントの立場を特徴づける道徳的な恣意性はその存在を最も基本的な水準、つまり道徳の基本原理の彼の解釈の水準で感じさせる。弁護されていない偏見だけがカントを道徳の基本原理(普遍的法則の法式)の拡張的な法式化、つまり動物がどのように扱われるかついて直接的なわれわれの格率を試験することを許容するものは、制限的な法式化(目的それ自体の法式)、つまり動物がどのように扱われるかついての問題に直接関係がないという想定に導く。他人を恣意的に排除するので、どのように人間が恣意的に扱われるかということへの道徳の最高原理の直接的な範囲を制限することはこれら個人を偏愛する。【終わり】

【試訳】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)⑳

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  5.5 KANT’S POSITION:HUMANITY AS END IN ITSELF (p.184)

 Though neither alternative is welcome news for Kantians, the selection of the nonarbitrary one has good sense and reason on its side. Human moral patients are not things; they themselves are individuals who have an experimental welfare; moral agency is not a necessary condition of being of direct moral concern. But logic plays no favorites. This same condition cannot be necessary in the case of those animals like them in the relevant respects. To deny that we have direct duties to those animals who have an experimental welfare, but affirm this in the case of human moral patients like these animals in the relevant respects, would be symptomatic of an unsupported, and unsupportable, speciesist understanding of morality.

 

【試訳】

 どちらの選択肢もカント主義者にとって歓迎すべき知らせではないけれども、非任意的なものの選択はその立場についてよい判断能力と道理を持つ。人間の道徳的な受動者は物件ではない。つまり彼ら自身は経験的な福利を持つ個人である。すなわち道徳的主体は直接的な道徳的関心である必要条件ではない。しかし論理は気に入らない。この同様な条件は関連する点で彼らのように動物の場合に必要ない。経験的な福利を持つ動物たちにわれわれが直接的な義務を負うことを否定することは、しかし関連する点でこれら動物のように道徳的な受動者の場合このことを断言するが、支持されないそして支持できない道徳の種差別主義者の理解の兆候となるだろう。【続く】

【試訳】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)⑲

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  5.5 KANT’S POSITION:HUMANITY AS END IN ITSELF (p.183ーpp.184)

 A defender of Kant might object that Kant has been misinterpreted. It is, he holds, for humanity generally, not just for human moral agents, that things having value merely as a means, including animals, exist. Thus, all human beings, not just those who are moral agents, exist as ends in themselves, on his view, and the argument of the last paragraph is exposed as unfounded. Now, it may be that Kant thinks that all human beings, including human moral patients, exist as ends in themselves, but he cannot consistently think this. For since human moral patients lack the rational prerequisites for moral agency, they can have “only a relative value” and must, therefore, given Kant’s understanding of these matters, be viewed as things. This attempted defense of Kant misfires, therefore, and only serves to sharpen the dilemma he must face: he must choose between viewing human moral patients as ends in themselves, so that being a moral agent is not a necessary (though it may be a sufficient) condition of beings an ends in itself, or viewing these humans as having “only a relative value” as things. If the chooses the former option, then we can have direct duties to human moral patients; if he chooses the latter, we cannot. Neither alternative is salutary for Kant. If the former is chosen, then he is obliged to surrender a central tenet of his ethical theory-namely, that only rational beings (i.e., only those who are moral agents) exist as ends in themselves. If the latter alternative is chosen, he is open to the charge of moral arbitrariness.

 

【試訳】

 カントの擁護者はカントが誤解されていることに反対するかもしれない。彼が支持するように、動物を含め、単に手段として価値あるものが存在するのは、人間の道徳的主体のためだけでなく、人類全般のためである。したがって彼の見解では、道徳的主体だけでなく人間すべてが目的それ自体として存在し最後の段落の議論は根拠のないものとして晒される。さて、人間の道徳的な受動者を含む人間すべてが目的として存在しているとカントは考えているかもしれないが、彼はこのことを一貫して考えることはできない。というのも人間の道徳的な受動者は道徳的主体の合理的な必要条件を欠いているので、彼らは「相対的価値のみ」を持つことができ、それゆえこれら問題のカントの理解を前提として、物件と見なさなければならない。したがって、この企てられたカントの弁護が失敗し彼が直面しなければならないジレンマを辛辣にするためにのみ尽くすだけである。道徳的主体であることは目的それ自体である必要条件(それは十分かもしれないが)または、これらの人間を「相対的価値のみ」を持つ物件として見なすので、人間の道徳的な受動者を目的それ自体であると見なす間で彼は選択する必要がある。もしも前者の選択肢を選んだならば、われわれは人間の道徳的な受動者に直接的義務を持つことができる。つまり後者を選択したならば、われわれはそれができない。どちらの選択肢もカントにとって有益ではない。前者を選択したならば、倫理的理論の中心的主義、つまり単に合理的存在者(つまり道徳的主体である者)のみが目的それ自体として存在することを彼は放棄しなければならない。後者の選択肢が選ばれたならば、彼は道徳的恣意性の批判を受ける。【続く】

【試訳】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)⑱

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  5.5 KANT’S POSITION:HUMANITY AS END IN ITSELF (p.183)

 But Kant’s position is worse than implausible; it is arbitrary. Let us suppose, for the sake of argument, that as a result of the pleasure I take in causing human moral patients to suffer, I came in time to develop sadistic habits and that these in turn lead me to cause human moral agents to suffer. It would be quite remarkable, to say the least, if doing the one led me to do the other if there was no resemblance between how the two reacted to what I did to them. If, for example, putting human moral patients on the rack produced no behavioral evidence that this hurt them, then how could I reasonably infer that doing this to human moral agents would produce the suffering which, as a sadist, I enjoy inflicting? In order for the casual story to be at all plausible, we must suppose that human moral patients, like human moral agents, can suffer and that they can manifest their anguish behaviorially in ways that resemble the ways human moral agents behave when they are made to suffer. If their behavior is similar, however, as it must be if I am to be led from causing the one to suffer to causing the other to suffer, it is reasonable to believe that their suffering also is similar. But if the suffering is similar, and if causing it in the case of moral agents violates a direct duty owed to them (as Kant allows), then how can we nonarbitarily avoid the conclusion that causing suffering to human moral patients violates a direct duty owed to them? To reply that moral agents can act in accordance with the categorical imperative while human moral patients cannot is true but irrelevant. The issue concerns their shared capacity for suffering, not their differing abilities. If the duty not to cause moral agents gratuitous suffering is duty owed directly to them, the same must be true of the duty not to do the same to human moral patients. Otherwise we flaunt the requirement of moral justice; we allow dissimilar treatment of relevantly similar cases. Kant’s position does violate this requirement, and the violation of it, as we shall see more fully in a moment, is an unavoidable consequence of the moral arbitrariness of his theory.

 

【試訳】

 しかしカントの立場は信じられないほど間違っている。それは独断的である。議論のために、私が人間の道徳的な受動者を苦しめることで得た喜びの結果として、やがて加虐的な習慣を私は発展させるようになり、それが今度私に人間の道徳的主体を苦しめるようにさせたとしよう。いくら控えめに言っても、もし彼らにしたことにその2人がどのように反応したかの間で類似点がなかったならば、一方が私を他方に導いたならば、それはかなり注目に値するだろう。例えば、もしひどく苦しむ人間の道徳的な受動者に彼らを傷つけるという行動の証拠を生み出さなかったならば、人間の道徳的主体にこのことを行うことが加虐者のように、私が与える苦痛を生み出すとどのように合理的に推論できるだろうか。何気ない話をもっともらしいものにするため、人間の道徳的な受動者が、人間の道徳的主体と同様に苦しむ可能性がありそして苦しめられたとき人間の道徳的主体が振る舞う方法に似たやり方で彼らの苦痛を行動的に示せると仮定しなければならない。しかしながら、私が一方を苦しめることから、もう一方を苦しめることへと導かれるべきであるように、もしも彼らの行動が似ているならば、彼らの苦しみも同様であると信じることは理に適っている。しかしもし苦しみが似ており、道徳的主体の場合にそれを引き起こすことが(カントが許容するように)彼らに負う直接的義務に反するならば、人間の道徳的な受動者に苦痛を与えることが彼らに負う直接的義務に反するという結論をどのようにわれわれは非恣意的に避けることができるだろうか。人間の道徳的な受動者に対して道徳的主体が定言命法に従って行動できると回答することは正しくはないが無関係である。問題は彼らの異なる能力ではなく苦しみの共有能力に関係する。もしも道徳的主体に不当な苦しみを引き起こさない義務が彼らに直接負う義務であるならば、同じことが人間の道徳的な受動者に同じことをしないという義務に当てはまるはずである。そうでなければ道徳的正義の必要性をわれわれは誇示する。つまり関連ある類似の事例の異なった扱いをわれわれは許容する。カントの立場はこの必要条件に反しており、後で詳しく見ていくが、その違反は彼の理論の道徳的恣意性の避けられない結果である。【続く】