ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/食物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと私たち人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【抄訳と訳注⑧】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • University of California Press
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5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性 (p178-pp.179)

 

 Three preliminary criticisms are worth making before moving on to assess Kant’s general account of our duties involving animals.First, Kant is mistaken when he claims that “animals are not self-conscious.” Arguments have been advanced earlier (2.5) that make ascriptions of self-consciousness to animals both intelligible and confirmable. 

 

[訳]

 動物に関してわれわれの義務に関するカントの一般的な説明を評価する前に3つの予備的批判は価値がある。第1に、「動物は自己意識がない」と彼は主張しているが、カントは誤解している。動物への自己意識の帰属を理解可能かつ確認可能なものにする議論は以前(2.5参照)述べられた。

 

[訳注]

 動物に関する「義務」(duties)へのカントの説明を検討する前に、レーガンは3つの予備的批判を展開する。1つ目は、「動物は自己意識がない」というカントの誤解である。

 

Second, on one interpretation of what it means to “judge”, it is false that a dog and, by implication, similar animals” cannot judge”.If to judge that something is a bone requires (a) having a (even our) concept of bone and (b) applying that concept in a given case-that is, judging (believing) ‘That is a bone’-then it is false, for reasons given in chapter2, that “animals cannot judge”.If, instead, Kant has some other kind of judgement in mind- in particular, if he means that animals cannot make moral judgement by making reference to the categorical imperative-then what he says is doubtless true. 

 

[訳] 

 第2に、「判断する」とは何を意味するかについてのひとつの解釈について、犬、および暗に、類似の動物が「判断できない」ことは誤りである。何かあるものが骨であると判断するために、(a)(われわれでさえ)骨の概念を持ち、(b)その概念を特定のケースに適用する-つまり、「それは骨だ」と判断している(信じる)ー必要があるならば、第2章に示す理由から、「動物は判断できない」というのは誤りである。その代わり、カントが他の種類の判断を念頭に置いているなら、ー特に、動物が定言命法を参照して道徳的判断を下すことができないことを意味するならばー彼の言うことは間違いなく真実である。

 

[訳注]

 2つ目は、動物は「判断できない」(cannot judge)ことへの誤解である。ただし、動物が「定言命法」(categorical imperative)を基準に「道徳的判断」(moral judgement)を下すことができないことをカントが意味するならば、それは正しいことなる。しかし、カントはこのようなことを意図していないはずである。

 

The same is true of moral patients generally, however, so that Kant cannot disqualify animals as objects of direct moral concern because they cannot make moral judgement unless he also is willing to disqualify all moral patients.And to disqualify human moral patients, as will be argued below, will cause serious problems indeed for Kant’s general position.

 

[訳]

 一般的な道徳的受益者についても同じことが言えるので、カントはすべての道徳的受益者を失格としない限り、動物が道徳的判断を下せないという理由で、動物を直接的な道徳的関心の対象として失格とすることはできない。そして以下で議論されるように、人間の道徳的受益者を失格者と判定することは実際にカントの一般的な立場にとって深刻な問題を引き起こすだろう。

 

[訳注]

 「一般的な道徳的受益者」(moral patients generally)とは、例えば障害者やお年寄りなどの存在である。レーガンによれば、このような「道徳的受益者」すべてを道徳的地位を持つ者として配慮の対象外としなければ、動物を直接的な道徳的関心の対象として排除できない。人間の「道徳的受益者」を道徳的配慮の対象外として判定することは、カント的には深刻な問題を引き起こす。

 

Third, in the passage just quoted Kant fails to support his assertion that animals exist “merely as a means to an end”, that end being “man”. And it is difficult to see how he could provide a compelling argument in this regard.The plausibility of viewing animals as having value only if or as they serve human ends lessens as we begin to recognize that, like relevantly similar humans, animals have a life of their own that fares better or worse for them, logically independently of their utility value for others.

 

[訳]

 第3に、引用された箇所で、動物は「単に目的のための手段として」存在し、その目的とは「人間」であるという自身の主張を支持することにカントは失敗している。そして、この点で彼が説得力ある議論を行うことは難しい。人間の目的に役立つ場合にのみ価値があると見なす妥当性は、関連する類似の人間のように、論理的に他の功利的価値とは無関係に、動物たちが彼らにとってよくも悪くも自身の人生があると認識するにつれ減少する。

 

[訳注]

 3つ目は、動物は「単に目的のための手段として」存在し、その目的は「人間」であるという自身の主張を支持することにカントは失敗している点である。人間の目的に役立つ場合のみ価値があると人間以外の動物を見なす妥当性は、人間以外の動物が彼/彼女自身の人生があることを認識するにつれ減少していく。この点で説得力ある議論を行うことは難しい。

 

It is thus exceedingly unclear how it could be correct supports that their value is reducible, without remainder, to their utility to mankind, unless one is willing to make the same judgement in the case of humans like these animals in the relevant respects, which Kant is not. This line of argument will be developed more fully momentarily.

 

[訳] 

 カントではないが関連する点でこれら動物のように人間の場合と同じ判断をしたいと思っていない限り、余すことなく人類への彼らの功利性に彼らの価値が還元できると支持することは非常に不明確である。この一連の議論は直ちにより完全に展開されるだろう。

 

[訳注]

 人間以外の動物もわれわれ人間と同じ判断をしようと思わない限り、人類への功利性に彼/彼女らの価値が還元できると支持することは不明確である。【続く】

 

↓本記事に関して、以下の書籍や記事も参照。↓

 

 

 

note.com

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【抄訳と訳注⑥】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • University of California Press
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  5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性(p.177)

 

 While Kant’s moral theory is not a version of egoism, it has affinities with the rational egoism of Narveson and the contractarianism of Rawls, when it comes to specifying those individuals to whom one has direct duties.

 

[訳]

 カントの道徳理論はエゴイズムの一種ではないが、直接的な義務を負う個人を特定する際、ナーブソンの合理的利己主義やロールズの契約主義と類似性がある。

 

[訳注]

 カントの道徳理論はもちろん、「エゴイズム」(egoism)ではない。しかし誰に「直接的な義務」(direct duties)を負っているかをカント的に考えるとき、カントの理論は「合理的利己主義」(the rational egoism)(注1)や「契約主義」(the contractarianism)(注2)と「類似性」(affinities)を持つ。

 

On the rational egoism model, these are, as we know, those individuals, and only those individuals, who are themselves capable of entering into the “agreements” that are chosen to mutually regulate the behavior of individual rational egoists; moral patients in general and animals in particular are excluded.

 

[訳]

 合理的利己主義モデルに関して、われわれが知っているように、これらは個々の理性的なエゴイストの行動を相互に調整するため選択された「合意」に加入できる個人が対象である。つまり道徳的な受益者、特に動物は一般的に除外される。

 

[訳注]

 「合理的利己主義モデル」(the rational egoism model)では、「合意」(agreements) に参加できる個人が対象となる。すなわち、人間以外の動物はその対象から除外される。

 

The same is true, though for different reasons, given Kant’s position.Moral agents have direct duties only to moral agents, whether themselves or others. This is so, on Kant’s view, because beings who exist but are nonrational have “only a relative value” and thus fail to be ends in themselves.

 

[訳]

 カントの立場を考えると、様々な理由はあるが、同じことが当てはまる。自分自身であれ他人であれ、道徳的主体は道徳的主体にのみ直接的な義務を負う。カントの見解によると、存在者であるが非理性的存在者は単に「相対的な価値しかない」ため、目的それ自体にはならないからである。

 

[訳注]

 カントも、特にナーブソンの「合理的利己主義モデル」と同様の立場をとる。「道徳的主体」(moral agents)は、他の「道徳的主体」にのみ直接的な義務を負う。なぜなら、「非理性的存在者」(beings who exist but are nonrational )は「単に相対的な価値」(only a relative value)しか持たないため、「目的それ自体」(ends in themselves)ではないからである。

 

Because they fail to have independent value, we have no direct duty to them to treat them, in accordance with the formula on Ends in Itself, in those ways we are duty -bound to treat those beings (rational beings, moral agents) who are ends in themselves.

 

[訳]

 彼らは独立した価値を持っていないため、目的それ自体の法式に従って、われわれが彼らを扱う直接的な義務はない。これらの方法で、われわれは目的それ自体でのこれらの存在(理性的存在者、道徳的主体)を扱う義務がある。

 

[訳注]

 人間以外の動物は、「独立した価値」(independent value)を持っていない。「目的それ自体の法式」(the formula on Ends in Itself)に従うと、「道徳的主体」である「理性的存在者」(rational beings)とは対照的に、われわれは彼/彼女らに直接的な義務はない。

 

If we have duties to nonrational beings, they must be indirect duties, or duties having an indirect bearing on our discharging those duties we have directly to moral agents, ourselves or others.

 

[訳]

 非理性的存在者への義務をわれわれが持つのであれば、それらは間接的な義務または、道徳的主体であるわれわれ自身または他者に直接負う義務を果たすことに間接的に関係する義務でなければならない。

 

[訳注]

「非理性的存在者」に対してわれわれが「義務」持つのであれば、その義務は「間接的な義務」(indirect duties)(注3)である。【続く】

 

(注1)ナーブソンの「合理的利己主義」に関して以下の文献を参照。

The Libertarian Idea

The Libertarian Idea

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●森村 進,2008:ジャン・ナーヴソンの契約論的リバタリアニズム、『一橋法学7巻2号』所収、一橋法学大学院法学研究科法学部、2008年. https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/15899/hogaku0070200150.pdf

 

(注2 )ロールズについて以下の文献を参照。

 

 

(注3) カント「間接的な義務」に関して以下の文献を参照。

 

 

 

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【抄訳と訳注⑤】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • University of California Press
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5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性  (p.176ーpp.177)

 

 Kant’s understanding of the foundation of morality, unlike Narvison’s and Rawls’s, is not egoistic. We are not to imagine that morality arises from, or consists in abiding by, agreements(contracts) reached by rational, self-interested individuals because it is in their long-term self-interest to do so.

 

[訳]

 ナ-ブソンやロールズと異なり、道徳の基礎へのカントの理解は利己的ではない。長期的で利己的であるため、合理的で利己的な個人によって結ばれた合意(契約)から道徳性が生じ、または遵守する中で道徳性が成立するとわれわれは考えてはいけない。

 

[訳注]

 ナ-ブソンやロールズの立場では、人間は「利己的」(egoistic)な存在である。一方、カントは「理性的存在者」(rational beings)として人間を捉える。ナ-ブソンやロールズの人間観に基づくならば、道徳性を生じさせるために、「合意」(agreements)や「契約」(contracts)が必要になってくる。しかしカントによれば、「合意」や「契約」を遵守する中で道徳性は成立し得ない。

 

Indeed, for Kant, to view morality as grounded in self-interest is to leach the very life blood from it. What morality presupposes, on this view, is that, independently of any consideration of self-gain, individual moral agents can do what is right because it is the right thing to do.It is only when individuals do their duty, because it is their duty, that what they do has moral worth.

 

[訳]

 確かに、カントにとって、道徳性を利己主義に基づくと見なすことは、そこからまさに生命を奪うことである。この見方によれば、道徳性が前提とすることは、自己利益を考慮することなく、正しいことだから個々の道徳的主体は正しいことを行うことができるということである。義務であるゆえに、個人が自らの義務を果たすときだけ、その行為は道徳的価値を持つ。

 

[訳注]

 カントの「道徳性」(morality)の前提は「正しいことだから個々の道徳的主体は正しいことを行うことができる」点である。このレーガンのカント解釈は、「定言命法」(categorical impertive)にも繋がると考えられる。また「義務であるゆえに、個人が自らの義務を果たすときだけ、その行為は道徳的価値を持つ」というレーガンの理解は、カントの「義務」(duty)に関する「道徳性」に通じる。

 

To suppose, as Nerveson and Rawls do, that the basis of morality is self-interest is to destroy the very possibility of morality, as Kant understand this.Moreover, though on Kant’s view moral agents do stand in a relationship of reciprocity, in the sense that fundamental direct duty I have to any moral agents is very same duty that any moral agent has to me, the obligatoriness of my treating you with respect, as benefits your independent value, is not contingent upon your treating me in a reciprocal way.

 

[訳]

 ナーブソンやロールズのように、道徳の基礎が利己主義であると仮定することは、カントが理解していた、道徳性の可能性を破壊することになる。さらに、カントの見方では、道徳的主体は互恵関係にあるが、道徳的主体に私が持つ基本的な直接義務は道徳的主体が私に持つ義務とまさに同じであるという意味で、あなたを尊敬と共に扱う義務は、あなたの独立した価値のため、あなたが私を互恵的に扱うことを条件としていない。

 

[訳注]

 道徳の基礎が利己主義であると仮定することは、道徳性の可能性を破壊することになる。カントの見方では、道徳的主体は互恵関係にある。私が持つ直接義務はあなたが私を互恵的に扱うことを条件としていない。このレーガンのカント理解は、「定言命法」の「目的それ自体の法式」を下敷きにしていると考えられる。

 

【参考:道徳形而上学の基礎づけ】

 

【参考:The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy]】

 

The direct duties I have to you would not evaporate or diminish if you failed to fulfill your duties as they affect me, or vice versa

 

[訳]

 私に影響を与えるように自らの義務を果たすことができなくても、またその逆でも、私があなたに課す直接義務は消滅したり減少したりしないだろう。

 

[訳注]

 自らの「義務」が結果的に果たせなかったとしても、「義務」は消滅したり減少したりはしない。カントにとって結果でなく、われわれの行為が「義務」に基づいているかどうかが問題となる。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

Such failure on your part, fulfill your duties to me, which would destroy the foundation of our moral relations given a view. Since I am not a participant in the moral game, so to speak, because of what I stand to gain by playing, the rules are not rescinded or eased by your behaving in ways that flaunt them and harm me.

 

[訳]

 ある見方を与えられたわれわれの道徳的関係の基礎を破壊することになるあなた側のそのような過失は、私にあなたの義務を果たすことになる。いわば道徳的なゲームの参加者ではないので、プレーすることで得られるもののため、ルールを破り私を傷つけるような行為によってそのルールが取り消されたり緩和されたりしない。

 

[訳注]

 「過失」(failure)によって「われわれの道徳的関係の基礎」(the foundation of our moral relations) が破壊されたとしても、「義務」は果たされたことになる。「道徳的なゲーム」( the moral game)での「ルール」(the rules)が守られず破られたとしても、その「ルール」自体が消滅したり「緩和」(eased)されることはない。

 

For my part, I must continue to act as morality requires, out of respect for what is right, not with a view to my self-interest.

 

[訳]

 私にとって、何が正しいかという点から離れて、自らの利己主義の観点ではなく、道徳的な要求通りに行為を継続しなければならない。

 

[訳注]

 カントにとっては、「私にとって」(for my part)「何が正しいか」(what is righ)ということや「利己主義」(self-interest)と道徳的行為は無関係である。あくまで「道徳的な要求」(morality requires)に従って行為し続けなければならない。【続く】

 

ロールズについて次の文献を参照↓

 

↓ナーブソンについて以下の文献を参照↓

 

森村 進,2008:ジャン・ナーヴソンの契約論的リバタリアニズム、『一橋法学7巻2号』所収、一橋法学編集委員会編、一橋大学大学院法学研究科、2008年.

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/15899/hogaku0070200150.pdf

 

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【第2回】子どもへの教育実践は「不完全義務」か-『理性の構成』を手がかりに【教育倫理学】

 

 前回の記事で『理性の構成』を基に、教師に代表される教育実践を司る立場は「特定」の他者である眼前の子どもに、ある行為を果たすことあるいは控える「義務」を要求される、という結論を提示した。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 更に歩を進めるため、『理性の構成』での該当箇所を引き続き検討する。

 

[内容]

【第1回】子どもへの「義務」で要求されること3点

【第2回】子どもへの教育実践と「不完全義務」

【第2回】まとめ

 

■子どもへの教育実践と「不完全義務」

 

 『理性の構成』の中でオニールは、「不完全義務」について次のように述べる。

 

不完全義務は、伝統的には、援助・配慮・思いやり・才能の開発などの事柄を含むと考えられており、他者はそれらの事柄が具体的に実行されることに対して権利を持っていないけれども、行為者は何らかの形でいずれかの他者へその事柄を実行することを義務づけられている。(O'Neill,1989,邦頁388)

 

 上記の箇所によれば、伝統的に「不完全義務」は「援助」や「才能の開発」などの事柄を含む。それら事柄が、具体的に実行されることへの権利を他者は持たない。

 

 一方、行為者は何かの形でいずれかの他者へ、その事柄を実行することが義務づけられる。

 

『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の中で、確かにカントは「不完全義務」の事例として「自己実現」と「援助」を挙げている(注1)

 

 また『人倫の形而上学』の「徳論」の中でも、「自己の完成」(注2)と「他人の幸福」を「不完全義務」としてカントは挙げていることが読み取れる。

 

【参考:道徳形而上学の基礎づけ】

 

【参考:人倫の形而上学

 

 これまでの議論から、ここでいう「他者」とは眼前にいる子どもであり、「行為者」とは教育実践を司る立場である教師であると考えられる。

 

 ということは伝統的カント解釈では、「不完全義務」は「援助」や「才能の開発」を含む「自己の完成」を含む。それら事柄が、具体的に実行されることへの権利を子どもは持たない。

 

 一方、行為者である教師は何かの形で子どもにその事柄を実行することは「義務」である。

 

 このオニールの主張の受け容れるならば、教師という立場は次のようになるだろう。すなわち、教師は子ども自身の「自己の完成」とその「援助」という「不完全義務」を遂行する立場である。

 

 この立場と共に「行為者は何らかの形でいずれかの他者へその事柄を実行することを義務づけられている」という記述から、『人倫の形而上学』での「活動の余地」を残す教育実践を、オニールは教師に求めていることが窺える。

 

 では、なぜ子どもは「自己の完成」に対する「援助」が必要なのか。この点に関して、オニールの次のような人間観から読み取ることができる。

 

人間は単に理性的存在者であるだけではない。人間の合理性と相互間での自立性-それはまさに人間の行為者性の基礎である-が不十分であり、相互に傷つきやすく、社会的に生み出されるという意味で人間は傷つきやすく、援助を必要とする存在でもある。(O'Neill,1989,邦頁388-389 太字は筆者)

 

 この箇所でオニールは人間を「理性的存在者」である同時に「傷つきやすく、援助を必要とする存在」という人間観を提示する。これは

、「理性的存在者」である同時に「感性的存在者」であるというカントの人間観を踏襲していると考えられる。

 

 オニールによれば、特に「傷つきやすく、援助を必要とする」特定の時期が存在する。それが、子どもの時期である。

 

 続いて、オニールは子どもの教育と「不完全義務」について『基礎づけ』の「普遍的法則の方式」の「意志における無矛盾」で用いられた論じ方を基に、持論を展開する(注3)

 

援助も必要とする多くの個別的な理性的存在者は、相互無関心という原則に基づいて普遍的に行為することはできない。もし理性的存在者がそのようなことを行うならば、その時期に行為の原則を採用できない者に対する行為者性は衰えて縮小してしまう。その結果として普遍的に共有されうる原則に基づく行為の可能性そのものが蝕まれてしまうであろう。理性的であると共に援助を必要とする存在者が、相互に[自分に対する]すべての援助を拒否するという原則、あるいは、行為のための能力を強化し、発達させるための努力を何も行わないという原則に基づいて行為することは、普遍的なものとしては可能ではない。(O'Neill,1989,邦頁389)

 

 援助を必要とする「理性的存在者」は、相互無関心という原則に基づき普遍的に行為できない。

 

 もし「理性的存在者」がそのように行為するならば、子どもの時期に行為の原則を採用できない者への行為者性は縮小する。

 

 理性的であると同時に援助が必要である存在者が「援助すべてを相互に拒否する」という原則、あるいは「行為のための能力を強化し発達させる努力を何も行わない」という原則に基づく行為は、普遍的ではあり得ない。

 

 ただし、オニールは「他者」として子どもすべてを援助する限界を認める。同時に子どもの能力を援助し発達させる義務は「不完全義務」でなければならないことを、彼は明らかにする。

 

 こうした義務によって要求される特定の行為には、「活動の余地」が残される。子どもと共に生活し働く教育実践者としての教師は、彼/彼女の「ケア」と教育の双方に積極的に参加しなければならない。

 

しかしながら、あらゆる仕方ですべての他者を援助することは不可能である。だからこそ他者の能力を援助し発達させる義務は不完全義務でなければならない。こうした不完全義務は、特定の他者への援助となる特定の行為を指示しない。不完全義務の構成が、合理的であると共に援助を必要とする存在に対して委ねるのは、人間の潜在的能力を援助することの原則的な拒否とその潜在的能力を発達させることの原則的な放置を避けることだけである。こうした義務によって要求される特定の行為は、生活が異なれば、それに応じて変化する。子どもたちと共に生活し働く者は、[子どもたちのケアと教育の両方に関して]何もしないことが上記の義務を原則的に拒否することにはならないとしても、子どもたちのケアと教育の双方に積極的に参加しなければならないと考えるであろう。(O'Neill,1989,邦頁389-390)

 

「他者の能力を援助し発達させる義務」は、「不完全義務」でなければならない一方、すべての他者を援助することは不可能であるし、「不完全義務」は特定の他者への援助となる特定の行為を支持しないという「活動の余地」をカントに従ってオニールは認めている。この箇所は、注目すべき点である。

 

 これを子どもへの教育実践に置き換えると、次のようになるだろう。

 

 すなわち、「他者の能力を援助し発達させる義務」として子どもへの教育実践は「不完全義務」である。

 

 ただし、すべての「他者」である子どもたちを援助することは不可能である。また「不完全義務」は「活動の余地」があるため、眼前にいる特定の子どもたちに援助する行為は特定的ではない。

 

 これは子どもたちへの教育実践はもちろんそれ以外の「ケア」も同様であり、双方積極的に参加しなければならない。この活動の主体となるのは、学校現場では主に教師である。

 

■まとめ

 以上、『理性の構成』での議論をまとめると、教師の役割に代表される教育実践は「不完全義務」であることが結論づけられるだろう。「他者」としての子どもの「能力を援助し発達させる」ことは「義務」である一方、その範囲は限定的であり方法も特定的ではない。

 

 本稿で子どもへの教育実践のあり方が明示されたが、カントは子どもへの教育実践を具体的にどう考えていたか。ここに足を踏み入れることはできないが、『実践理性批判』や『人倫の形而上学』で登場する「道徳的問答教示法」がカントによるこの問いへの回答である(注4)

 

 教育は理論と実践が、両輪でなければならない。子どもへの教育について、学校現場や地域で取組まれた実践事例なども大いに有効であろう。一方で、カントに代表される古今東西の哲学者などの考えも示唆に富む。

 

 子どものため、または社会全体の利益に繋げるため教育実践は日々行われる営みであることは間違いない。その目標を見失わず、理論が実践を伴っているか、また実践が理論を根拠としているかという点を常に自己点検し、日々子どもたちと向き合う姿勢こそ教師にとって必要であるように思われる。【終わり】

 

(注1) Ⅳ,422-423 参照。

 

(注2) 『人倫の形而上学』では「自己の完成」について、能力開発を意味する「自然的完成」と「道徳的完 成」という両方の発展と増大を「不完全義務」としている。

 

(注3) O'Neill,1989,邦頁391参照。

 

(注4)「道徳的問答教示法」について、『実践理性批判』の第2部「純粋実践理性の方法論」及び『人倫の形而上学』の「徳論」第2編「倫理学方法論」を参照。その他、以下の論文も参考になる。

・中沢哲,2001:カントにおける道徳教育方法論の思考法、『教育哲学研究 巻 83 号』所収、教育哲学会、2001年.https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyouikutetsugaku1959/2001/83/2001_83_60/_pdf/-char/ja

・広瀬悠三,2013: 子どもに道徳を教えるということ-カントにおける道徳的問答法の意義を問う、『京都大学大学院教育学研究科紀要 59』所収、京都大学大学院教育学研究科、2013年. https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173243/1/eda59_291.pdf

【第1回】子どもへの教育実践は「不完全義務」か-『理性の構成』を手がかりに【教育倫理学】

 

 前回の記事で、カント「不完全義務」は「活動の余地」を持つ「義務」であるという結論を示した。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 教育倫理学的視点で理解するため、この結論を足がかりに子どもへの教育実践は「不完全義務」であるかという問いについて考察する。

 

 この作業を、カントに忠実な解釈を行うという評価が高いオニール(注1)の『理性の構成』を手がかりに、2回に渡り行う。

 

 内容は、以下の通りである。

 

[内容]

【第1回】子どもへの「義務」で要求されること3点

【第2回】子どもへの教育実践と「不完全義務」

【第2回】まとめ

 

 子どもへの教育実践について考える前に、子どもへの「義務」それ自体について『理性の構成』でのオニールの立場を検討する。

 

子どもへの「義務」で要求されること3点

 

 まず始めに、「子どもたちの生活」それ自体についてオニールはどう考えているかを確認する。『理性の構成』第10章「子どもたちの権利と生活」で、オニールは子どもたちの生活を次のように定義する。

 

子どもたちの生活は決して私的な問題ではなく、子どもたちの権利を促進することによってかなえられうる一つの公共的な関心事なのである。(O'Neill,1989,邦頁367)

 

 この箇所からも分かるように、オニールは「子どもたちの生活」をひとつの「公共的な関心事」として捉えている。「子どもたちの生活」を「私的な問題」として大人は見るのではなく、「公共的な関心事」として見なければならない。

 

 「子どもたちの生活」は、単に家庭だけはない。学校教育の場も、「公共的な関心事」として彼/彼女たち生活の場であると考えられる。

 

 さて、『理性の構成』でオニールは子どもへの「義務」で要求されることを以下の3点に整理する(注2)

 

①「すべて」の他者にこの種の行為を果たすことあるいは控えること

②「特定」の他者にある行為を果たすことあるいは控えること

③「不特定」の他者あるいは「すべてとは限らない」他者にある行為を果たすことあるいは控えること 

 

 では、オニールの言う子どもを教育する「義務」で要求されること3点を順に検討する。

 

①「すべて」の他者にこの種の行為を果たすことあるいは控えること

  

 オニールの言う「すべて」の他者とは、子どもたち「すべて」を意味する。『理性の構成』での「この種の行為を果たすことあるいは控えること」とは、子どもたちすべてを「酷使したり性的虐待しない」ということである。この行為は、われわれすべてが「義務」の行為主体となる。

 

 この意味で、酷使したり性的虐待されない権利を所有する者はすべての子どもとして「特定される」(O'Neill,1989,邦頁371)。「子どもたちを酷使したり性的虐待しない義務」は、「普遍的義務」である(ibid.)。

 

 なぜなら、「誰に対しても責任を負っている」(ibid.)からである。この意味で「普遍的義務」は「完全な」(O'Neill,1989,邦頁371-371)または「完璧な義務」(O'Neill,1989,邦頁371)である。

 

 カント的に考えると、①のオニールの視点は「完全義務」として考えられる。「酷使したり性的虐待しない」という「義務」は、どの子どもにも該当する。どの子どもにも、われわれはこの「責任を負っている」ことになる。

 

 また、子どもを「酷使する」ことや「性的虐待をする」という行為それ自体が義務違反である。少なくとも、両者の行為に程度問題は発生しない。

 

 この意味で、子どもを「酷使したり性的虐待しない」という「義務」は、カントの言う「狭い義務」(Ⅳ,424)つまり「完全義務」として考えた方がよいだろう。

 

②「特定」の他者にある行為を果たすことあるいは控えること 

 

 オニールによれば、「特定」の子どもにその「ケアを引き受けきた人々」(O'Neill,1989,邦頁371)はその子どもたちに「義務」を持つことになる。

 

 「特定」の子どもへの「義務」は、「完璧にあるいは完全に」(ibid.)その主体は特定される。その「義務」は「完全義務」であるが、「特定の行為主体によって特定の子どもたちに対して果たされる」(ibid.)。

 

 まず、ここで確認しておきたいことが2点ある。

 

 1つ目は、オニールは子どもを具体的に示していない点である。

 

 本書によれば、②に対応する「義務」は「完全義務」である。ただしこれは、「特定の行為主体」(ibid.)に対応して「特定の子どもたち」(ibid.)に果たされる「義務」である。「民法」に照らして子どもを0歳から17歳までと考えるならば(注3)、それぞれ年齢に応じた発達段階がある。

 

 また障害の有無や家庭環境なども考慮すると、子どもは多種多様な存在である。その年齢や環境に応じて対応すべき行為主体や方法は、異なってくる。

 

 2つ目は、オニールが「ケア」を厳密に捉えていない点である。

  

 『ケアリング』の中でノディングスが言うように、「ケア」の「精神的な関わり合い」(Noddings,1984,邦頁3)をもちろんオニールも踏襲しているように思われるが(注4)、「ケアを引き受けきた人々」は様々な子どもの状況に応じて存在する人々だと理解できる。

 

【参考:Caring-A Feminine Approach to Ethics & Moral Education】

 

 両親だけでなく例えば乳児であれば保育士であり、児童であれば小学校教諭などである。その他、障害の有無や家庭環境などに応じて、特別支援学校教諭やソーシャルワーカーなども考えられる。

 

 このように、「特定の子どもたち」に応じて「特定の行為主体」が決定される。それに応じた「ケア」が、それぞれの子どもに果たさなければければならない。

 

 この意味で②の「義務」は「完全義務」であるが、「特定の子どもたち」に応じて「行為主体」が特定されるとオニールは明示しているのだろう。

 

③「不特定」の他者あるいは「すべてとは限らない」他者にある行為を果たすことあるいは控えること

 

 ③に関してオニールによれば、子どもを「ケア」するためにわれわれ大人は次の2種類の「義務」を持つ(注5)

 

・親切であり思いやりを持つ

・大人の面倒をみなければならない時とは異なる方法で面倒をみる

 

 確かに、上記2つの「義務」は行為者すべてを拘束するかもしれない。

 

 しかしこの「義務」は、特定された権利の所有者が存在しない。どの権利の遂行を、要求も放棄も誰もできない。したがって、基本的な義務を履行された結果は状況に応じて異なる。

 

 また社会的で制度的文脈から分離されて考慮された場合、普遍的でない基本的義務は「完璧ではない」あるいは「不完全」である。

 

 ここで、オニールの議論を検討する。まず「大人」と「異なる方法で面倒をみる」とは、どういうあり方なのか。

 

 この疑問を解決するため、カントの『教育学』がひとつの手がかりになり得る。

 

 『教育学』冒頭で、カントは次のように述べる。

 

人間は教育されなければならない唯一の被造物である。教育とは、すなわち養護(保育、扶養)と訓練(訓育)と教授ならびに陶冶を意味する。これに従って、人間は乳児でありー生徒であり―そして学生である。(Ⅸ,441)

 

【参考:教育学】

 

 『教育学』によれば、教育とは「養護・訓練・教授・陶冶」である。これに従って、「乳児・生徒・学生」に教育を施す。「乳児・生徒・学生」とは、子どもを意味する。それ以外の存在を、「大人」と理解していいだろう。

 

 ということは「大人」と「異なる方法で面倒をみる」とは、「養護・訓練・教授・陶冶」と考えていいだろう。

 

 ③の記述から、オニールが見ている「義務」の対象の視野は広いように思われる。つまり、「義務」の対象として眼前に存在しない子どもにまでオニールは拡大している。

 

 そのような子どもを、「不特定」の他者あるいは「すべてとは限らない」他者と彼は呼ぶ。

 

 例えば「不特定」で「すべてとは限らない」子どもとは、遠くの国にいる子どもであり、これから誕生する子どもを意味するのかもしれない。

 

 いずれにせよ、今眼前にいない子どもを考えるならば、「権利の所有者」は存在しないし「義務」を履行された結果は状況に応じて異なる、というのがオニールの見解である。

 

 この意味で③は、「完璧ではない」あるいは「不完全」な「義務」である。

 

 以上、オニールの見解に従って子どもへの「義務」で要求される3点を検討してきた。この結果から、次のことが考えられる。

 

 すなわち①の対象は、子どもたちすべてである。①は、子どもすべてを「酷使したり性的虐待してはいけない」という「義務」である。①の対象は既に決定され、それに合わせた「義務」も決定している。

 

 カントの用語で言い換えると、①で要求される「義務」は対象も行為も「狭い」すなわち「完全」である。

 

 ②の対象は、「特定」の子どもである。その子どもたちに応じて「特定の行為主体」の役割が代わり、その役割に応じて子どもへの「ケア」が変わってくる。

 

 カントの用語で言い換えると、②で要求される「義務」は対象が「特定されている」という意味で「狭い」すなわち「完全」であるが、役割に応じて子どもへの「ケア」の方法が変わってくるという意味で「広い」すなわち「不完全」である。

 

 ③の対象は、「不特定」の子どもである。「義務」を履行された結果は状況に応じて異なる。

 

 カントの用語で言い換えると、③で要求される「義務」は対象も行為も「広い」すなわち「不完全」である。

 

 『理性の構成』の議論に基づくのであれば、直接関わらなくても「酷使したり性的虐待」しないというように、子どもたちの心身や生活を保護するというわれわれの道徳的態度が「完全義務」として基盤となるだろう。

 

 更に子どもへの教育実践に考えを進めるならば、教師に代表される立場は、②という子どもへの「義務」を要求されることになるのだろう。この考察は、次回へ続く。【続く】

 

(注1) 「オニールのカント研究は、英米圏のカント研究の中で最も洞察と分析に優れたものの一つであると同時に、カントに忠実な解釈であるとして現在でも変わらず高く評価され続けてきている。」(加藤,2020,462)

 

(注2)  O'Neill,1989,邦頁370-372 参照.

 

(注3) 2022年4月から日本では18歳成人に引き下げられる。今回はその法的基準に準じた。

 

【参考:政府広報オンライン

www.gov-online.go.jp

 

(注4)邦訳書は次の書籍を参考。『ケアリング 倫理と道徳の教育ー女性の観点から』、立山・林他訳、晃洋書房、1997年.http://www.koyoshobo.co.jp/book/b312849.html 

 

(注5) O'Neill,1989,邦頁372 参照.

【第2回】カント「不完全義務」への誤解|「不完全義務」は「例外を許す義務」なのか【カント道徳哲学】

 

 【第1回】の記事で、カントの「不完全義務」は「例外を許す義務」という解釈は、カント道徳哲学の体系から大きく外れることを指摘した。

 

 そして道徳の「普遍化可能性」を維持する目線をカントは常に保ち続けていると考えるならば、「義務」に例外を認める立場はカント道徳哲学にとってあり得ないという筆者の立場を明らかにした。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 では、どのように「不完全義務」を解釈すればよいか。その手がかりを、『人倫の形而上学』に求める。本記事の内容は、以下の通りである。

 

[内容]

【第1回】『基礎づけ』での「不完全義務」の位置づけ

【第2回】「活動の余地」としての「不完全義務」

【第2回】まとめ

 

■「活動の余地」としての「不完全義務」

 

 「活動の余地」という概念は、『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)や『実践理性批判』の中では見当たらない。

 

【参考:人倫の形而上学基礎づけ】

 

【参考:実践理性批判

 

 

 『人倫の形而上学』の中で、この概念は初めて登場する。端的に言うと、「活動の余地」はいつ、どこで、どの程度そしてどの方法で「義務に基づく」行為を行うかは各々の裁量に委ねられる。

 

 『人倫の形而上学』で、「自然的完成」(Ⅵ,392)と「他人の幸福」(Ⅵ,394)を例に、カントは以下のように述べる。

 

他人の幸福を促進することは、そうした格率が普遍的法則とされたならば自己矛盾した格率となろうからである。それゆえ、この義務は広い義務であるにしかすぎない。そこである程度の活動の余地がこの義務はあり、その範囲を確定することはできない。(ibid.)

 

 『人倫の形而上学』の中で「完全義務」に対して、カントは「不完全義務」を「倫理的義務」または「徳の義務」(Ⅵ,390)と位置づける。「自然的完成」と「他人の幸福」を「広い義務」として、カントは挙げる。

 

 『基礎づけ』での「自己実現」と「親切」という「不完全義務」の例が、それぞれ「自然的完成」と「他人の幸福」と対応しているならば、『基礎づけ』や『実践理性批判』でのカントの議論は一貫していると考えられる。

 

 さて『基礎づけ』と『人倫の形而上学』から上記の引用箇所を検討すると、「他人の幸福」は「広い義務」に相当する。「広い義務」である「不完全義務」には、「ある程度の活動の余地」があり「その範囲を確定」できないことが、この箇所から明らかになる。

 

 これは、「自然的完成」でも同様である。この点に関して、カントは以下のように述べる。

 

自分の自然的完成に関する人間の自己自身に対する義務は、たんに広いしかも不完全義務に過ぎない。なぜならこの義務はたしかに行為の格率に対する法則を含んではいるが、しかし行為そのものに関しては、その仕方および程度についてのなにも規定せず、自由な選択意志に余地を許しているからである。(Ⅵ,446)

 

 この引用箇所からも分かるように、『人倫の形而上学』によれば「自然的完成」に関する自己自身への「義務」は「広い義務」または「不完全義務」である。

 

 「他人の幸福」と同様、「自然的完成」も「その仕方および程度」について何の規定もない。なぜなら、その行為の格率は「自由な選択意志」に余地を認めているからである。

 

 また『理性の構成』の中で、オニールも「不完全義務」を『人倫の形而上学』に即して解釈する。要約すると、次の通りになるだろう。

 

意欲に関わる非一貫性を明らかにする議論の実例は、「体系的に慈善を行わない」格率または「体系的に才能をなおざりにする」格率の採用が道徳的に無価値であることを示すに過ぎない。それら格率が基礎づける義務は、相対的に未確定な徳義務である。これら議論の第1の義務は「誰を・どの範囲で・どんな方法で・どれくらいのコスト」で助けることが、道徳的に価値があるかを規定しない。「慈善を行わない」という基本的意図を採用することが道徳的に無価値であることを単に明確にするだけである。同様に、2つ目の議論は「どの才能を・誰に・どの範囲で・どれくらいのコスト」で開発することが道徳的に価値を持つかを立証しない。「才能を開発する努力を行わない」という基本的意図を採用することが、道徳的に無価値であることを単に証明するに過ぎない。(O'Neill,1989,邦頁195ー196 要約.)

 

 「意欲に関わる非一貫性」は、「定言命法」の「意欲の無矛盾性」と関係する(※1)

 

 「慈善を行わない」格率または「才能をなおざりにする」格率は、『基礎づけ』でいう「親切」と「自己実現」のそれぞれの反例である。また上記の引用箇所で、オニールのいう2つの格率は『人倫の形而上学』での「他人の幸福」と「自然的完成」に対応する。

 

 オニールによれば、上記2つの格率は共に「誰を・どの範囲で・どんな方法で・どれくらいのコスト」で実践するかカントは規定していない。

 

 「慈善を行わない」格率や「才能を開発する努力を行わない」格率を採用することは「道徳的に無価値である」ことを単に証明するだけである。

 

【参考:Construction of Reason】

 

【参考:理性の構成】

 

 『基礎づけ』の中で「完全義務」の例としてカントは「自殺」や「虚言」を挙げる。「自殺」にしろ「虚言」にしろ、いつ、どこで、どの程度そしてどの方法で自らを傷つけたかまたは嘘をついたのかは問題にならないだろう。とにかく「自殺」や「虚言」は少しでも行った場合、カント的には義務に反する行為である。

 

 この意味で「自殺」や「虚言」などの義務は、「活動の余地」のない「狭い義務」であり「完全義務」である。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 一方、『基礎づけ』の中で「不完全義務」の例としてカントは「自己実現」や「親切」を挙げる。「自殺」や「虚言」に対して、「自己実現」や「親切」はいつ、どこで、どの程度そしてどの方法で行われたか考慮の余地はあり得る。「自己実現」や「親切」は程度や方法など各々の裁量に従い行為する「義務」であると考えられる。

 

 この意味で、カントが挙げた「自己実現」や「親切」の「義務」は「活動の余地」がある「広い義務」であり「不完全義務」である。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 ただしオニールも指摘するように、注意しなければならない点は、様々な状況を考慮して採用できたにも関わらず「自己実現」や「親切」の格率を採用しなかった場合、この格率は「義務」に反することになる。

 

 なぜなら『基礎づけ』でも『実践理性批判』でもカントが位置づけているように、「義務」は人間の意志を規定する強制力として考えられるからである(※2)

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

■まとめ

 

 以上、2回に渡りカント「不完全義務」の考察を行った。ペイトンやベックのように、「不完全義務」を「例外を認める義務」と解釈すると、道徳性の最上の原理の探求及びその確定というカント道徳哲学の目論みから「不完全義務」は大きく外れることになる。また、道徳の「普遍化可能性」を維持するカントの目線への担保ができなくなる。

 

 そこで『人倫の形而上学』をテキストに、「不完全義務」を「活動の余地」を残す「義務」として解釈し直すことでカント道徳哲学の体系に一貫性が保たれるという対案を提出した。

 

 この解釈が妥当であるならば、教育やボランティア活動について倫理学的に考える際にも、「不完全義務」は有効な概念になり得るだろう。

 

  ただしひとつ懸念が生じる。それは、『人倫の形而上学』の中で「不完全義務」に「活動の余地」があることを認める一方、「不完全義務」に「活動の余地」を許容するがため、倫理学はある格率が個々の事例にどう適用されるべきかという判断力を要する決疑論に陥ることをカントが指摘する点である。(※3)

 

 カントの「決議論的問題」に深く立ち入ることは今回できないが、この点にカントは一筋縄ではいかない道徳的ジレンマを見ていたのかもしれない。【終わり】

 

(※1)定言命法「意欲の無矛盾性」に関して、次の過去記事を参照.

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

(※2)『基礎づけ』で、カントは「義務」から道徳法則を導出する。一方『実践理性批判』で、道徳法則から「義務」を導出する。

 

(※3)Ⅵ,411 参照.

 

※私の知る限り、「不完全義務」を中心に取り上げた文献は少ない。「不完全義務」を研究する上で、数少ない有益な資料。

【参考:カントの倫理思想】

●筆者によれば、「倫理的義務」が「不完全義務」であるということは『人倫の形而上学』の基本命題である。

 

【参考:愛と正義の構造】

●「完全義務」と「不完全義務」についての基本文献。

 

【第1回】カント「不完全義務」への誤解|「不完全義務」は「例外を許す義務」なのか【カント道徳哲学】

 

 教育(※1)やボランティア活動(※2)について倫理学的に考える際に、カントの「不完全義務」は有効な概念である。しかしカントの「不完全義務」は、誤解されたまま今日に至っていることが少なからず考えられる。

 

 その誤解の原因は、『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)でのカント自身の記述にあるように思われる。

 

 それでもカント道徳哲学の中から手がかりを探し出し「不完全義務」を解釈し直すことで、カント道徳哲学それ自体はもちろん、様々な応用倫理学の分野を少しでも前進させることができるだろう。

 

 本稿は2回に渡り、カントの「不完全義務」について考察する。今回の結論は、次の通りである。

 

「不完全義務」は「例外を許す義務」ではなく、「活動の余地」を持つ「義務」である。

 

 この結論に至るための筋道として、今回以下の手順で進めていく。

 

[内容]

【第1回】『基礎づけ』での「不完全義務」の位置づけ

【第2回】「活動の余地」としての「不完全義務」

【第2回】まとめ

 

 以上の作業はカント道徳哲学の発展に繋がるし、応用倫理学に関してもカントの議論の有効性を示せるだろう。

 

■『基礎づけ』での「不完全義務」の位置づけ

 

 まず、『基礎づけ』での「不完全義務」の記述を確認する。カントは『基礎づけ』で「定言命法」の「普遍的法則の方式」(※3)を導出した後、「義務」を4つに分類する。すなわち、「われわれ自身に対する義務と他人に対する義務」(Ⅳ,421)及び「完全な義務と不完全な義務」(ibid.)である。その後、「義務」の事例をカントは4つ挙げる(※4)

 

 この箇所の脚注で「義務」の区分を『人倫の形而上学』に全面的に留保し、単に任意の形で示すに留めるとしながら、カントは次のように述べる。

 

 私はここで完全な義務ということで、傾向性の利益のための例外を許さない義務を理解する。それゆえ私は、たんに外的な完全義務だけでなく、内的な完全義務をも認めるのであって、このことは学校で採用されている用語法に反している。しかし私はここで弁解しようとは思わない。(Ⅳ,421)

 

 この引用箇所からも分かるように、「完全義務」をカントは「傾向性の利益のための例外を許さない義務」と定義する。一方、この箇所で「不完全義務」についてカントは何も語らない。

 

 この箇所に即して考えるならば、「不完全義務」は「傾向性の利益のための例外を許す義務」となるだろう。ペイトンも自身の著作の中で、「不完全義務」を次のように解釈する。

 

 カントによれば、完全義務は傾向に都合のよいような例外を認めたりはしない。とすると、不完全義務はそうした例外を許すということが示唆されているわけである。(Paton,1958,邦頁216)

 

【参考:Categorical Imperative】

 

 このように『基礎づけ』でのカントの記述を受けて、ペイトンは「完全義務」に対して「不完全義務」を「例外を許す義務」であると理解する。また、ベックは「不完全義務」を「格率」同士の衝突が生じた場合、例外が許されてもよい「義務」であると解釈する。

 

 完全義務とは、直接的に命ぜられ得るか又はその格率がある行為を要求する行為の事である。というのは矛盾する格率は、それが法則に適った時、自己矛盾だからである。不完全義務は、一つの規則への服従が他と相克することを避ける為に、例外の規則が適用されてもよい義務である。道徳的義務は不完全義務で、法的義務は完全義務である。(Beck,1960,邦頁191)

 

【参考:A Commentary on Kant's Critique of Practical Reason】

 

 ある「格率」が「道徳法則」に適った時、自己矛盾に陥るので「完全義務」は「ある行為を要求する行為」であるとベックは解釈する。

 

 一方、ひとつの「道徳的規則」つまり「格率」への服従が他と相克することを避けるため、「不完全義務」に「例外の規則」をベックも認める。

 

 以上2つの記述からも分かるように、両者共に「不完全義務」を「例外を許す義務」として位置づけている。この図式からすると、「完全義務」は一切の例外を許さない「義務」である一方、「不完全義務」は例外を認めてもいいことになるだろう。

 

 確かに一般的には、規則や原則には必ず例外があることも認めなければならないだろう。しかし例外を認めてしまうと、カント道徳哲学の体系から大きく外れてしまう。なぜなら、『基礎づけ』での目的は「道徳性の最上の原理を探求し、それを確定すること」(Ⅳ,392)だからである。

 

  また別の見方をすれば、道徳の「普遍化可能性」を維持する目線をカントは常に保ち続けているとも考えられる。カント道徳哲学で、この態度は一貫していると考えてもよい。したがって「義務」に例外を認める立場は、カント道徳哲学にとってあり得ないと考えざるを得ない。

 

 ではどのように「不完全義務」を再解釈すればよいか。その手がかりとなるのは、次の2点である。

 

 1つ目は『基礎づけ』で「不完全義務」を「より広い義務」(Ⅳ,424)とカントが述べている点である。「義務」の事例を4つ挙げた後、カントは「完全義務」を「より狭い義務」(ibid.)と呼び、「不完全義務」を「より広い義務」と言い換えている。

 

 2つ目は『人倫の形而上学』の中で「法論」として「完全義務」を、「徳論」として「不完全義務」について論じている点である。カントは「義務」の区分を『人倫の形而上学』に委ねているが、本書の中で「法論」として「完全義務」を「徳論」として「不完全義務」について詳細に記述している。

 

  ベックが指摘した通り、法的義務が「完全義務」であり道徳的義務が「不完全義務」と考えてよい。そして『人倫の形而上学』の中で『基礎づけ』で登場する「より広い義務」が、「活動の余地」として再定義されている。

 

【参考:人倫の形而上学

 

 では、『人倫の形而上学』では具体的にどう「不完全義務」が位置づけられているか。【第2回】では、『人倫の形而上学』をテキストに「不完全義務」について更に深く考察する。【続く】

 

(※1)例えば、O’Neil,O,1989:Constructions of Reason:Explorations of Kant’s Practical Philosophy 第10章 参照.

【参考:Construction of Reason】

 

【参考:理性の構成】

 

(※2)例えば、過去記事を参照.

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

(※3)「汝の意志の格率が普遍的法則法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従ってのみ行為せよ」(Ⅳ,421)という「定言命法」を指す。「普遍的法則の方式」はPatonが付けた「定言命法」の区分のひとつである。(Paton,1958,邦頁190-213 参照.)

 

(※4) 4つの「義務」の事例とは、すなわち自殺・虚言・怠惰・不親切である。(Ⅳ,421-424 参照.)

 

※以下の過去記事も参照

chine-mori.hatenablog.jp

 

※今回参照したペイトンの邦訳書[杉田聡訳]は絶版。以下の紀要論文が参考になるだろう。

高野 ・野々村,1981:翻訳 H.J.ペイトン著「定言的命法」(1)、『大阪府立工業高等専門学校研究紀要 15』所収、大阪府立工業高等専門学校、1981年. http://doi.org/10.24729/00008055

 

※今回参照したベックの邦訳書。

【第2回】令和元年度 事業概要|データでみる沖縄県と久米島町の実態【地域猫活動】

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出典:沖縄県動物愛護管理センター https://www.aniwel-pref.okinawa/others/view/1

 

 前回の記事で、『令和元年度 事業概要』(沖縄県動物愛護管理センター)(※1)から沖縄県全体の「収容猫頭数」及び「収容猫の措置頭数」の「殺処分数」は、共に減少傾向にあることが読み取れた。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 さて、久米島町の現状はどうか。【第2回】では『令和元年度 事業概要』から久米島町の実態について分析し、その課題に対する提言を行う。

 

[内容]

【第1回】沖縄県全体の実態

【第2回】久米島町の実態

【第2回】まとめと提言

 

久米島町の実態

・県内の猫の収容および措置状況(令和元年度)

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  上のデータは、『令和元年度 事業概要』を基に作成した「県内の猫の収容および措置状況」(令和元年度)である。

 

 上の表からも分かるように、県内で「猫の収容および措置」に直接関わっている施設は3ヶ所ある。つまり沖縄本島にある「動物愛護管理センター」、宮古島市の「宮古島保健所」、そして石垣市にある「八重山保健所」である。

 

 同じ離島である宮古島市石垣市に対して、久米島町には「猫の収容および措置」を直接扱う施設が存在しない。

 

 この表から「地域猫/保護猫活動」に関して、沖縄県の他の地域と比べ久米島町は不利な環境にあることが分かるだろう。

 

・猫に関する依頼・相談・苦情件数(沖縄県離島市町村)(令和元年度)

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 上のデータは『令和元年度 事業概要』の沖縄県全市町村の中から、沖縄県離島市町村に絞って作成し直したものである。

 

 上の表からも分かるように、沖縄県の他の離島地域と比較して久米島町は「猫に関する依頼・相談・苦情件数」が断トツ1位である。

 

 宮古島市は令和元年度の「猫に関する依頼・相談・苦情件数」は合計10件である。また石垣市は、合計113件である。それに対して、久米島町は合計357件である。その件数は、2位の石垣市の3倍を超える。

 

■まとめと提言

 以上、2回に渡り「地域猫/保護猫活動」について沖縄県全体と久米島町の実態をデータで検討し考察を行った。『令和元年度 事業概要』から、沖縄県全体として「収容猫頭数」及び「収容猫の措置頭数」の「殺処分数」は、共に減少傾向にあることが読み取れた。

 

 一方、久米島町に注目すると、同じ離島である宮古島市石垣市に対して久米島町には「猫の収容および措置」に直接関わる施設が存在しない。また「猫に関する依頼・相談・苦情件数」が、県内他の離島地域の中で1位である。

 

 別の見方をすれば、「猫に関する依頼・相談・苦情」について住民からのニーズが明らかに存在するものの、それに応える体制が十分備わっていない。

 

 沖縄県動物愛護管理センターによれば、久米島町役場の「福祉課」が本島にある「南部保健所」と連携を図りながら、「猫に関する依頼・相談・苦情」への対応を行っているようである。

 

 ただ、どの程度本島の施設と連携を図り成果を上げているか定かではない。

 

 結局、「地域猫/保護猫活動」に関して、久米島町では「球美にゃんこ亭」のような保護猫カフェや地道に活動を継続しているボランティアの方々が重要な役割を果たしていることが実態である。

 

 しかし、町内でボランティア活動をされている方々の力だけでは限界がある。だからといって「猫の収容および措置」に直接関わる施設を新たに建設し、職員を配置することは現実的でないような気がする。

 

 この現実を踏まえ、「地域猫/保護猫活動」を町内に根付かせるため、筆者は次の2点を提言する。

 

・行政と町内のボランティアの方々との連携強化を図る。

・住民を対象とした地域猫活動への啓発活動を実施する。

 

 具体的方策のひとつとして、例えば猫の生態や正しい飼育方法そしてTNRやTNTAなど地域猫活動に関するパネル展示を、久米島町役場内で期間限定で実施する。

 

 行政と町内のボランティアの方々が共に取組み、住民を対象とした啓発活動に取組む。様々な方法はあると思うが、行政と住民が共に行う取組みの中で最も手っ取り早い方法ではないだろうか。

 

 動物愛護の視点で、「地域猫/保護猫活動」は語られることが多い。それだけでなく、「地域猫/保護猫活動」は「住民運動」のひとつであるという視点も忘れてはならない。

 

 なぜなら、「ソト猫」に関して住民同士のトラブルはよく発生するからである。「ソト猫」に関するトラブルを地域全体で解決することで、住民同士が気持ちよく過ごせるようになる。

 

 同様に「地域猫/保護猫活動」の活発化によって、その地域に住む「ソト猫」たちも気持ちよく生活できることが期待される。

 

 猫は「伴侶動物」として人間に近寄ってきて、人間の近くで生活するようになったという歴史的背景がある。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 齋藤(2018)によれば、猫は対ヒト社会的認知能力が高く「共同保育」など猫同士の社会的行動も見られる(※2)

 

 動物行動学や動物倫理学の視点で未だ考察の余地はあるが、猫の歴史的背景や社会的行動から考えると、われわれとは別の社会的存在ではあるが、「ソト猫」を含む猫も同じ地域に住む「住民」として受け入れてもいいのではないか。

 

 猫も人間も同じ「住民」として気持ちよく地域の中で過ごすため、「共助」と「公助」を活用した「地域猫/保護猫活動」が求められる。その先に、人間も人間以外の動物も共に居心地のよい地域社会が実現するだろう。【終わり】

 

(※1)沖縄県動物愛護管理センターによれば、『令和2年度 事業概要』の準備が進行中。2022年3月中には公開予定。詳しくは次を参照。沖縄県動物愛護管理センターhttps://www.aniwel-pref.okinawa/others/view/1

 

(※2)齋藤慈子,2018:なぜネコは伴侶動物になりえたのか 比較認知科学的観点からのネコ家畜化の考察、『動物心理学研究 68』所収、日本動物心理学会、2018年. https://www.jstage.jst.go.jp/article/janip/68/1/68_68.1.8/_pdf/-char/en

 

↓県の地域猫活動団体について以下の過去記事も参照↓

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考:磯子区猫の飼育ガイドライン横浜市)】

https://www.city.yokohama.lg.jp/isogo/kurashi/sumai_kurashi/pet_dobutsu/cat/cat.files/0002_20181113.pdf

●「対策」としての「地域猫活動」というコンセプトが参考になる。

 

【参考:キャット・ウォッチング】

 

●疑問や質問を通して猫の行動や生態について詳しく書かれたエッセイ。写真は岩合光昭氏。解説を佐藤優氏が担当。

【第1回】令和元年度 事業概要|データでみる沖縄県と久米島町の実態【地域猫活動】

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出典:沖縄県動物愛護管理センター https://www.aniwel-pref.okinawa/others/view/1

 

 過去の記事で、久米島町にある「球美にゃんこ亭」への取材を通して、久米島町の「地域猫活動」の現状について投稿した。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 今回は、『令和元年度 事業概要』(沖縄県動物愛護管理センター)(※)を基に、沖縄県全体と久米島町の「ソト猫」の状況について2回に渡り考察する。内容としては、以下の通りである。

 

[内容]

【第1回】沖縄県全体の実態

【第2回】久米島町の実態

【第2回】まとめと提言

 

 【第1回】として本記事では、平成27年度から令和元年度までの県内の「猫の収容及び措置状況」のデータを中心に、沖縄県での「ソト猫」の状況について分析する。

 

沖縄県全体の実態

沖縄県全体の猫の収容及び措置状況

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【出典:『令和元年度 事業概要』(沖縄県動物愛護管理センター)】

 

 平成27年度を基準に「猫の収容及び措置状況」を見ると、平成29年度に増加が見られるが、令和元年度まで全体的に「収容猫の措置頭数」の「終末処分」の割合が減少傾向にあることが読み取れる。つまり、県で保護された猫の「殺処分」の割合は減少している。

 

 一方、平成27年を基準に置くと、「収容猫の措置頭数」の「譲渡」の割合が平成29年に一時減少しているが増加していることがこの表から読み取れる。

 

 上記の表を「収容猫頭数」及び「収容猫の措置頭数」に分けてグラフ化した図を基に、更に検討を進める。

 

●収容頭数の推移

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【出典:『令和元年度 事業概要』(沖縄県動物愛護管理センター)】

 

 猫の「収容頭数の推移」について「収容頭数合計」は平成27年度の2,077頭に対して、平成28年度は1,010頭と約50%減少している。また平成29年に1,254頭と増加に転じるが、令和元年度には725頭に減少している。平成27年度を基準に考えると、令和元年度は約65%も減少していることになる。

 
●措置頭数の推移

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【出典:『令和元年度 事業概要』(沖縄県動物愛護管理センター)】

 

 猫の「措置頭数の推移」について「終末処分」つまり「殺処分」が平成27年度の1,932頭に対して、平成28年度は759頭と約60%減少している。また平成29年に1,056頭と増加に転じるが、令和元年度には457頭に減少している。平成27年度を基準に考えると、令和元年度は約76%減少していることになる。

 

 このグラフでその他注目すべきは、「譲渡」の数である。平成27年度は128頭に対して令和元年度は274頭と約2倍に増加している。

 

●考察

 上記3つの表から、「収容猫頭数」及び「収容猫の措置頭数」の「殺処分数」は共に減少傾向にあることが読み取れた。この要因は、何だろうか。

 

 「収容猫頭数」の減少について、考えられることは沖縄県の一般市民への取組みが功を奏している点である。

 

 『事業概要』によれば、沖縄県動物愛護管理センターは「犬猫等の譲渡」や「動物愛護思想の普及啓発活動」を行っている。沖縄県動物愛護管理センターに問い合わせたところ、具体的調査は行っていないという回答だった。

 

 「収容猫の措置頭数」の「殺処分」数の減少について、その明確な要因も分からない。「譲渡」の数が平成27年度から令和元年度にかけて約2倍に増加している要因のひとつに、ボランティアの方々による「引き出し」が少なからず影響していると考えられる。

 

 「殺処分」される猫をできる限り引き取って、里親を探す。この地道な行動が、「ソト猫」の命や生活を救っていると言っても過言ではない。

 

 以上、沖縄県全体の実情では、「収容猫頭数」及び「収容猫の措置頭数」の「殺処分数」は共に減少傾向にあることが読み取れた。では久米島町の実態はどうなのか。次回は、久米島町の実態と今後の課題について考察していく。【続く】

 

(※)沖縄県動物愛護管理センターによれば、『令和2年度 事業概要』の準備が進行中。2022年3月中には公開予定。詳しくは次を参照。沖縄県動物愛護管理センターhttps://www.aniwel-pref.okinawa/others/view/1

【第3回】「定言命法」と「3つの格率」【カント道徳哲学】

 

 前回の記事で、オニールの解釈に従って、「定言命法」と「3つの格率」について検討を行った。その結果、次の疑問が提示された。

 

・「他のあらゆる立場」に立って考えられる「他者」とは一体誰か。

・「拡張された自己」はどこまで「他のあらゆる立場」に立って「他者」を想定できるのか。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 この問題と【第1回】の記事も踏まえ、筆者は「定言命法」と『判断力批判』の「3つの格率」から、次の2つの解釈を提案する。

 

・カントが想定する「他者」は「無知のヴェール」的な存在として想定できる。

・空間的・時間的に広がりを持つ道徳法則として「定言命法」を捉えることができる。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 以下、この結論について考察する。

 

[内容]

【第1回】『判断力批判』の「3つの格率」

【第2回】「3つの格率」に関するオニールの解釈

【第3回】「定言命法」と「3つの格率」に対する2つの提案

 

定言命法」と「3つの格率」に対する2つの提案

 【第1回】の記事を踏まえると、「定言命法」の「無矛盾性」は単に「思惟による無矛盾性」と「意欲による無矛盾性」として理解できないことが示されるだろう。

 

 【第2回】の記事の結果から、「格率」が次の手続きを踏んで普遍的法則になり得るかどうか、吟味されることが理解できる。

 

・偏見に囚われず自分で考えられた「格率」である。

・他のあらゆる立場に立って考え自己が拡張された「格率」である。

・いつも自分自身と一致し首尾一貫した「格率」である。

 

 この3点を基準に、「定言命法」では「思惟できる」と同時に「意欲できる」ような「格率」を普遍的法則としてわれわれは採用することになる。

 

 この理解の下、筆者は次の2つの見解を示す。1つ目はカントの「他者」についての疑問とその対案である。2つ目は時間的・空間的な広がりを持つという「定言命法」の解釈である。

 

 まず、カントの「他者」に関する疑問とその対案についてである。これまで見てきたカント理解が正しいのであれば、次のような疑問が残る。

 

 すなわち、「他のあらゆる立場」に立って考えられる「他者」とは一体誰か。また、「拡張された自己」はどこまで「他のあらゆる立場」に立って「他者」を想定できるのか。

 

 「他のあらゆる立場」に立って考えるとき、例えば自分以外の性別や国籍を考慮に入れなければならない。また、政治思想や宗教的信条などの価値観の違いも考慮の対象になるだろう。ただし、考慮に関してわれわれには有限性がある。

 

 自己をどこまで拡張しても、自己の内部で完結せざるを得ない。このように考えると、「拡張された自己」には限界がある。

 

 この懸念に対して、筆者は「無知のヴェール」的な「他者」を想定する方策を提案する。この考えを採用するならば、「拡張された自己」の中で「他のあらゆる立場」に立った「他者」を想定しやすくなるだろう。

 

 ここで、「無知のヴェール」について簡単に説明する。「無知のヴェール」は、アメリカの政治哲学者であるロールズが考えた思考実験である。一般的に、「無知のヴェール」では次の2点がポイントとなる。

 

・自身の位置や立場についてまったく知らない。

・一般的状況はすべて知っているが、自身の出身・背景、家族関係、社会的な位置、財産の状態などについては知らない。

 

 ロールスによれば、この仮定を通じて社会全体の利益に向けた正義の原則を見出させる。特に、「最も不利な条件で生まれた可能性」を考えて社会秩序を選択する必要性をロールズは論じる。

 

 具体的・個別的な人間観をカントの中に見出すオニールは、『理性の構成』の中でロールズの「無知のヴェール」を抽象的であると批判する。(※1)

 

 ただしこの批判は行為者側に関することであることが、オニールの記述から読み取れるだろう。道徳的行為を受ける側に関して、このような「他者」を想定しても、カント的立場から大きく外れることはないように思われる。

 

 カントの言う「他のあらゆる立場」に立って考えると、様々な立場や価値観を考慮しなければならないので複雑化する。

 

 一方、ロールズの考えを援用すれば、カント道徳哲学への「他者」理解が幾分単純化されるだろう。

 

 特に、ロールズの言う「最も不利な条件で生まれた可能性」を持つ「他者」を想定することで、「定言命法」が道徳法則として「普遍化可能性」を持つことになり得る。

 

 次に、時間的・空間的な広がりを持つという「定言命法」の解釈についてである。『判断力批判』の「3つの格率」の見方を変えると、「定言命法」をある種「座標軸」のように理解できるだろう。

 

 1つ目の「格率」である「自分で考えること」を「原点」として考えると、2つ目の「格率」である「他のあらゆる立場に立って考えること」は「空間軸」として考えられる。

 

 更新されたデータに対して首尾一貫性を保持しなければならないという理由で、3つ目の「格率」である「いつも自分自身と一致して考えること」は「時間軸」として考えられる。

 

 このように「3つの格率」を捉えるならば、「自ら考えること」を起点に空間的・時間的に広がりを持つ道徳法則として「定言命法」を見ることができる。

 

 カント道徳哲学を形式主義的であるとか独我論(※2)である、と批判する者もいる。しかし以上の解釈が成立すれば、カント道徳哲学に広がりと深まりが一層増し、新たな可能生を見出すことができるだろう。

 

 カント道徳哲学は伝統的でもあるが、一方で革新的な分野である。その点が、カント道徳哲学の魅力のひとつである。カント自身の文献にも触れながら、他の研究者の観点も取り入れつつカント道徳哲学研究を継続する。【終わり】

 

(※1) O'Neill.O,1989,邦頁408 参照.

【参考:理性の構成】

 

(※2)カントの「独我論」的解釈の批判について、以下の文献も参考になる。

倉本香, 2009:カントの実践的複数主義について、『大阪阪教育大学紀要 第I部門 人文科学, 58(1)』所収、大阪教育大学、2009年.

https://opac-ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/webopac/KJ1_5801_001._?key=QIETHD  

●倉本(2009)は「叡知界」と「現象界」というカントの「2世界説」からの「他者」理解を検討する。

 

寺田俊郎,1999:理性的存在者の複数性 : カントの実践哲学は独我論的だという批判をめぐって、『メタフュシカ 30』所収、大阪大学大学院文学研究科哲学講座、1999年.

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/66616/mp_30-029.pdf

●カント道徳哲学が「独我論」的であるという「討議倫理学」からの批判に対して、『判断力批判』や『実用的見地における人間学』などのテキストに即して批判への回答を呈示する。

 

↓その他参考文献↓