ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【要約と注釈⑭】たんなる理性の限界内の宗教|第1編(一般的注解)(段落5~段落8)

 

[内容]

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
   について、あるいは人間の本性のうちな
   る根源悪について

 

一般的注解 善への根源的素質が力を回復することについて

 ・段落5 要約と注釈

 ・段落6 要約と注釈

 ・段落7 要約と注釈

 ・段落8 要約と注釈

 文献

 

[段落5】

要約

人間の道徳的形成は、考え方の転機と性格の確立から始まらなければならない。どんなに偏狭な人間でも、義務に適った行為への尊敬を感じとれる。よい人間の「規範」そのものを挙げて、道徳上の弟子たちにいくつか格率の不純さを行為の現実的な動機に基づいて判定させることで、善へのこの素質は比類なく教化され徐々に考え方に浸透していく。その結果「義務」は単に義務というだけで、心情の中で著しい重みを持ち始める。(Ⅵ,48-49)

注釈

 人間の道徳的形成は、考え方の転機と性格の確立から始まる。よい人間の「規範」を挙げて弟子たちにいくつか格率の不純さを現実的な動機に基づいて判定させることで、善への素質は教化される。その結果、「義務」は心情の中で重みを持ち始める。

 

[段落6]

要約

われわれの魂には、ひとつのものがある。それを熟視するならば、われわれはそれをこの上ない驚嘆の念で見ずにいられない。この場合、賛嘆は正当であると同時に魂を崇高にもする。それは、われわれの中にある根源的な道徳的素質一般である。(Ⅵ,49-50)

注釈

  魂を熟視するならば、われわれはこれを驚嘆の念で見ずにいられない。賛嘆は、正当であると同時に魂も崇高にもする。驚嘆の念が、われわれの中にある根源的な道徳的素質である。

 

[段落7]

要約

自分の力で回復することに一切の善に対し、人間は生得的に腐敗しているという命題が対立するのではないか。先の命題は、このような回復の可能性そのものに対立しているわけではない。われわれは今よりよい人間になる「べき」だと道徳法則が命令するのであれば、それが「でき」もしなくてはならないことが不可避的に帰結する。悪が生得的だという命題が、道徳的「教義学」で用いられることはない。一方、道徳的「修徳論」ではこの命題はそれ以上のことを言う。それでも、善への天賦の道徳的素質に反して「格率」を採用するという「選択意志」の邪悪さの前提されなくてはならないし絶えず抵抗しなくてはならない。これは、悪い人間の心術からよりよいものへと無限を志していく前進ということにしか至らない。そこから結果として、悪い人間の心術からよい人間の心術への転換は「格率」すべてを「道徳法則」に適うよう採用する際の最上の内的根拠の変化の中に措定されなければならない。しかし人間は自然のままでは直接的な意識によっても、これまでその人が送ってきた生き方という根拠によってもこの確信には到達できない。しかしながら、その人も根本的によりよくなった心術がそこに至る道を示してくれるならば、その道に「自分の力」で到達するという「希望」を持てるはずである。(Ⅵ,50-51)

注釈

 善への道徳的素質に反して「格率」を採用するという「選択意志」の邪悪さに、絶えずわれわれは抵抗しなくてはならない。悪い心術からよい人間の心術への転換は、「格率」すべてを「道徳法則」に適うよう採用する際の最上の内的根拠の変化の中に、措定されなければならない。根本的によりよくなった心術がそこに至る道を示してくれるならば、その道に「自分の力」で到達するという「希望」を人間は持てる。

 

[段落8]

要約

元来、理性は道徳の取扱いに乗り気でない。自己改善という要求に自然的な無能力を口実に、あらゆる不純な宗教理念を理性は動員してくる。宗教すべては「恩寵請願」宗教と「よい生き方」の宗教に区分できる。「恩寵請願」宗教では、神が永遠に幸福にして下さることができるのは確実だといい気になる。または、よりよい人間になれるよう「請い」さえすれば、私は何もせずとも「神が」私を「よりよい人間にして下さることができる」のは確実だといい気になる。この2つの内いずれかである。しかし、「請う」ということはすべて見ている存在者の前で「願う」ことに他ならない。請うたところで本来何もなされてはいない。ただし、道徳的宗教での原則はよりよい人間になるために、誰もが力を尽くさなくてはならない。よりよい人間になろうと善への本来の素質を活用してきた場合にだけ、能力の及ばないことは一層高次の協力により補われるだろう、とその人は希望してよい。(Ⅵ,51-52)

注釈

 宗教は、「恩寵請願」宗教と「よい生き方」の宗教に区分できる。両者に共通する点は、「請う」ということを存在者の前で「願う」と理解されることである。一方、道徳的宗教での原則は、よりよい人間になるために誰もが力を尽くすことである。よりよい人間になろうと善への本来の素質を活用してきた場合、能力の及ばないことは、一層高次の協力により補われることをその人は希望してよい。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。