ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【要約と注釈⑲】たんなる理性の限界内の宗教|第2編第1章(c)(段落4~段落6)

 

[内容]

第2編 人間の支配をめぐっての善の原理による悪との戦いについて

第1章 人間支配への善の原理の権利主張について

c この理念の実在性に突きつけられる難問、およびその解決

 ・段落4 要約と注釈

 ・段落5 要約と注釈

 ・段落6 要約と注釈

 文献

 

[段落4]

要約

第3の最大の難問は、以下の通りである。人間は、悪からはじまった。この罪責は、人間から拭い去れない。これから送っていくはずのよい生き方でも、本人がその都度それ自体なすべき負い目を超えて余剰を作り出すこともできない。能力の及ぶ一切の善をなすことは、本人の義務である。人倫的悪には「心術」及び一般での悪であるがゆえ、罪責の「無限性」が伴う。どんな人間も、「無限の罰」と神の国からの排斥を覚悟しなくてはならない。(Ⅵ,71ー72)

注釈

 第3の最大の難問は、「人間は悪からはじまった」ということである。この罪責を、人間は拭い去れない。能力の範囲で善をなすことは、本人の義務である。人間はすべて「無限の罰」と神の国からの排斥を、覚悟しなければならない。

 

[段落5]

要約

この難問の解決の拠所となるのは、次の点である。人の心を知る神の判決は、被告の普遍的心術から導き出される。被告が心術を改善したことで、すでに神の満足の対象であるのに罪責の道徳的結果は、被告の心術が改善された状態にも関係づけられるかどうかが、この場合問題になる。改善後、人間はすでに新たな生命に生きていて道徳的には別人になっている。最高の義の前で、有罪者が刑を免れているはずはない。その義は満たされなくてはならない。罰は、神の知恵に適合するものとなり執行される。われわれが見なくてはならないのは、回心する状態の中によい心術を抱く新しい人間が自分の責任だと神の義が満たされるための「罰」だと見なすことができる禍が含まれるように、道徳的回心という概念だけですでに思惟されるかどうかである。(Ⅵ,72ー75)

注釈

  第3の難問解決の拠所は、次の点である。人倫的悪を犯した者、すなわち「被告」の罪責の道徳的結果は、被告の心術が改善された状態に関係づけられるどうかが問題となる。われわれが見なくてはならないのは、「道徳的回心」だけで「よい心術を抱く新しい人間」が思惟されるかどうかである。

 

[段落6]

要約

ここで更に問われるのは、罪責は負っているが神に嘉される心術へと次第に変わっていった人間が、「罪なしとされる」理念のような演繹に実践的使用があるのかということである。(Ⅵ,76ー78)

注釈

 更に、問われるのは次の点である。神に嘉される心術へと次第に変わった人間が、「罪なし」とされる理念のような演繹に実践的使用があるか、ということである。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。