[内容]
第2編 人間の支配をめぐっての善の原理による悪との戦いについて
第1章 人間支配への善の原理の権利主張について
b この理念の客観的実存性
・段落1 要約と注釈
・段落2 要約と注釈
・段落3 要約と注釈
・段落4 要約と注釈
文献
[段落1]
要約
実践的関係では、完全にそれ自身でこの理念[善の原理の人格化された理念]は実在性を有する。われわれは、この理念に一致してある「べき」である。合法則性一般の単なる理念が、合法則性のための動機であり得て、利益のために取ってこられるあらゆる動機より一層力強いものであることがどのように可能かは理性によって洞察できないし、経験の実例によって証明できない。(Ⅵ,62ー63)
注釈
実践的関係では、「善の原理の人格化された理念」はそれ自体で実在する。しかし、この「合法則性一般の単なる理念」は、「合法則性のための動機」になり得て、また「利益のために取ってこられるあらゆる動機よりも一層力強いものであること」は理性では洞察できないし、経験によっても証明できない。
[段落2]
要約
法則に従えば、どんな人間も善の原理の人格化された理念の模範自体を正しく述べる。そのため、常に理念の中に「原像」はあり続ける。(Ⅵ,63)
注釈
道徳法則に従うと、どんな人間も「善の原理の人格化された理念の模範」を正しく言語化できる。その理念の中に、「原像」があり続ける。
[段落3]
要約
神の心術を抱いた人間が、特定の時代にいわば天から地に降りて教えと生き方と受難によって、外的経験に求める限り神意に適った人間の「模範」自体を与えたとしても、その人の中に自然に生まれた人間以外の何かを想定する理由はない。この神人はこの高みと浄福を実際、永遠の昔から所有していたとか、この神人はこの高みと浄福を敵のためにさえ彼らを永遠の堕落から救おうとして、進んで放棄されたという思いはわれわれの心の中に賛美と愛と感謝の念を生じさせ、その人への好感を抱かせない。同様に、道徳性のこの完全な規則に適った振舞いという理念はわれわれが遵守すべき準則として妥当するものだと表象される。しかし、この神人そのものは模倣のための「模範として」表象され「ない」ことになる。純粋で気高い道徳的善が「われわれにも」達成できることの証明として表象されない。(Ⅵ,63ー65)
注釈
「神の心術を抱いた人間」と同様、「道徳性の完全な規則に適った振舞い」という理念はわれわれが遵守すべき準則として妥当するものとして表象される。ただし、道徳的善が「われわれにも」達成できる証明にはならない。
[段落4]
要約
神の心術を持ちながら本来的に人間的な師ならば、真実をもって自身について語ることはできる。その場合、その人が話すのは自身が行為の規則としている心術だけである。しかも、その人が話すことは教えと行為を通して心術を外的に人目に供される。師が教えていることが誰にとっても義務であるならば、教えていることに師という非の打ちどころない模範を師自身のこの上なく純粋な心術だと見なすことはそれに対する反証がなければ、正当である。人間が当然そうすべきであるように、己の心術をこの師の心術に類似させるならば、心術はあらゆる時代あらゆる世界で、あらゆる人間に最高の義の前でも完全に妥当する。われわれの心術は、完全で誤りなくこの心術に適った生き方に存しなければならない。われわれの義のために最高の義を献じることは、可能でなくてはならない。(Ⅵ,65ー66)
注釈
神の心術を持ち得ている師が教えていることが、誰にとっても義務であるならば、「師という非の打ちどころない模範」を純粋な心術だと見なすことは正当である。自身の心術を師の心術に近づけるならば、心術は「あらゆる時代、あらゆる世界であらゆる人間」に完全に妥当する。
文献
Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】
※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。