ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【要約と注釈⑳】たんなる理性の限界内の宗教|第2編第2章(段落1~段落4)

 

[内容]

第2編 人間の支配をめぐっての善の原理による悪との戦いについて

第2章 人間支配への悪の原理の権利主張、および両原理相互の戦いについて

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

叡智的な道徳的関係を、聖書は歴史の形式で語っている。この歴史では、人間の外にある人格として表される。2つの原理は互いに力を試し合うだけでなく、それぞれの権利請求を「法によって」認めさせようとしている。(Ⅵ,78)

注釈

「叡智的な道徳的関係」は、道徳法則についての善や悪という道徳関係と考えられる。この関係性を、聖書は歴史の形式で語っている。善悪という人間の中にある2つの原理は、天と地獄のように対立し合う。聖書で語られる歴史は、人間の外にある「人格」として表現されている。一方は人間の告発者として、他方は人間の弁護人にとして、それぞれの権利請求をいわば裁判官の前で「法によって」認めさせようする。

 

[段落2]

要約

人間は、地上すべての財を所有するよう定められた。それを彼は下位所有権としてのみ、上位所有者である創造者にして主の下で所有することになっていた。同時に、悪魔が配された。これは、天に所有していた財産すべて離反により失ってしまい、今や地上で別の財産を獲得しようと思っている。悪魔は、高等な種類の存在である。悪魔は、この世の物体的な対象では享楽を味わえない。そこで悪魔は、人間すべての祖先をその主権者から離反させ、自ら従属させることで「人心の」支配を手に入れようと試み、この世の支配者になることに成功する。この反逆者に神はなぜ自身の力を利用せず反逆者が興そうと企む国を、それが始まったばかりの時点で廃止されなかったかと怪しむ向きもあろうか。しかし、理性的存在者への最高の知恵による支配と統治は、この存在者の自由の原理によって彼らを遇する。彼らに起こるはずの善悪を、彼ら自身が負わねばならないようにしようとする。ここに、善の原理を無視して悪の国が興された。アダムの系統を引く人間すべてが、この国に恭順することになった。それは、すべて人間自身の同意による恭順である。人間支配の権利主張について善の原理は、その名を唯一公に崇敬することだけを基礎にした統治形式を整えることで守られはした。この統治形式だと人民の心は、いつまでもこの世の財以外のどんな動機も取ろうという気にならなかった。あくまで、この世での報酬と罰以外のものによって統治を人間は受けようとしなかった。その際、彼らが受け入れた律法でも煩わしい儀式や習慣を課すものとか、道徳的心術という内的なものが考慮されない市民法という律法以外になかった。この措置も、ただ最初の所有者の消しがたい権利をいつまでも追憶に残しただけである。(Ⅵ,78ー82)

注釈

 この箇所は、カントによる「創世記」の解釈である。人間は地上すべての財を所有するよう、神によって定められた。同時に悪魔も配された。悪魔は、われわれの世界での物体的対象では享楽を味わえない。そこで、人間すべての祖先を自ら従属させることで「人心の」支配を手に入れようと試み、この世の支配者になることに悪魔は成功した。ここに善の原理を無視して、悪の国が興された。この国は人間自身の同意による恭順である。人間支配の権利主張について善の原理は、その名を唯一崇敬することだけを基礎にした統治形式を整えることによって保守はされた。あくまで、われわれの世界での報酬と罰以外のものによる統治を人間は受けようとはしなかった。

 

[段落3]

要約

物語の主人公の側から見れば、この争いの道徳的結末は悪の原理を「征服する」ことではない。この国は、未だ続いている。それは、新たなエポックに入らなくてはならないし、そこで破壊されはずである。(Ⅵ,82ー83)

注釈

 争いの道徳的結末は、悪の原理を「征服する」ことではない。この国は、未だ続く。それは、新たな画期的時期に入らなくてはならない。

 

[段落4]

要約

生彩もあり、その時代にとって唯一「ポピュラー」でもあった表象様式から神秘的な被いを取り去れば、あらゆる世界にとってあらゆる時代に実践的に妥当し拘束力を持ってきたのはどんな人間にも一目瞭然である。そのため、義務が認識されるようになる。その意味で人間にはどんな救いも存在しない。原則このような受け入れを阻むのは、自らの責任が招いたある種の転倒あるいは欺瞞である。これは、人間すべての中にある腐敗であり克服できない。ちなみに現在なしている努力は、理性の教える「最も聖なるもの」と調和する意味を聖書に求めることである。これは、義務だと見なさなければならない。その上、「知恵ある」師が弟子たちに語られた人のことを現在をなしている努力は思い出せる。(Ⅵ,83ー84)

注釈

 その時代にとって唯一「ポピュラー」であった表象様式から神秘的な被いを取り去れば、あらゆる時代に実践的に妥当し拘束力を持ってきたものは、どんな人間にも一目瞭然である。そのため、「義務」が認識される。このような受け入れを阻むのは、自らの責任が招いたある種の転倒あるいは欺瞞である。これは、人間すべての中にある腐敗であり克服できない。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。