カントは「悪」と向き合い、「道徳法則」(moralisches Gesetz)とどう関連付けたのか。この問いについて考察するため、『世界市民という視点からみた普遍史の理念』(以下『普遍史』と略記)の中に登場する「非社交的社交性」(ungesellige Geselligkeit)という、カント独自の概念を検討している。
【前回の記事】
『普遍史』の中でカントは「社交的」な人間観を描きながら、一方で人間には正反対の傾向があることもカントは認めている。
[内容]
【第1回】非社交的社交性とは何か
【第1回】社交的な人間性
【第2回】非社交的な人間性
【第2回】まとめ
■非社交的な人間性
『普遍史』によれば、人間は共に「社会を構築」したいという「傾向」を持つ。一方で絶えず分裂を求め、人間は社会に対し「一貫して抵抗を示す」。この「両価性」(ambivalence)をカントは「非社交的社交性」と表現する。
「非社交的社交性」というこうした特性を、カントはあまり好ましく思ってはいない。一方で、こうした特性は自らの才能の開花や目的の実現に必要な要素であることもカントは認めている。以下、この点にカントが言及している箇所を引用する。
非社交的な特性がなければ、人々はいつまでも牧歌的な牧羊的生活をすごしていたことだろう。そして仲間のうちで完全な強調と満足と相互の愛のうちに暮らすことはできても、すべての才能はその萌芽のままに永遠に埋没してしまっただろう。人間は自分たちが飼う羊のように善良であるだろうが、自分たちには飼っている羊たちと同じくらいの価値しかないと考えるようになっただろう。そして創造という営みが、人間のために理性を行使する大きな空白部分を残しておいてくれたというのに、理性的な本性をもつ人間が、その満たすべき目的を実現することはなかっただろう。(Kant,1784,邦頁40 )
確かに、われわれは日々安寧に「牧歌的な牧羊的生活」を続けることはできるかもしれない。その生活を継続すると、われわれの才能や能力は永遠に萌芽のまま埋没する。人間には「理性を行使する」という空白部分が存在する。しかし「牧羊的生活」に浸っていては、われわれが実現すべき「目的」を果たせなくなってしまう。(※1)
このカントの記述から、自らの才能の開花や目的実現のために「非社交的社交性」の「両価性」を読み取れる。
この点に、人間の中に「悪の起源」をカントは見出した。それだけでなく、協調性の欠如、嫉妬心そして満たされない所有欲に支配されていることに、むしろわれわれは感謝すべきである。(※2)また、知恵を働かせ生活への苦労を抜け出すため、「非社交的社交性」の発揮をカントは積極的に肯定する。
用意された自然の原動力は、非社交性と、いたるところでみられる抵抗の源泉である。ここから多くの悪が生まれる一方で、これからさまざまな力をあらたに刺激して、自然の素質がますます発展するようにしているのである。(Kant,1784,邦頁41 )
「用意された自然の原動力」とは、知恵を働かせ生活への苦労を抜け出す方法を見つける原動力を意味する。これは「自己実現」や「才能の開花」への原動力とも読み取れる。
様々な「悪が生まれる」ことを認めた上で、「自然の素質」すなわち自らの能力や素質を発展させるために「非社交的社交性」の発揮をカントは支持している。
■まとめ
『三批判書』の中で、カントは一貫して「理性的存在者」の視点から自らの批判哲学を展開する。一方で、「人間は生来悪」であることをカントは承認する。その一端を「非社交的社交性」をキーワードに『普遍史』の中から読み取ることができただろう。
人間の「悪」の部分から見直すと、カント道徳哲学の別の景色が広がってくる。「自己愛」(Selbstliebe)や「根源悪」(das radikal Böse)など、悪に関するカント独自の概念を通してカント道徳哲学を継続して考察していく。【終わり】
(※1)このカントの記述は『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の中に登場する「自分に対する不完全義務」とも関連性がある。
(※2)Kant,1784,邦頁40 参照。
【参考文献】