ネコと倫理学

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【要約と注釈⑩】たんなる理性の限界内の宗教|第1編 (Ⅲ) (段落1~段落5)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
   について、あるいは人間の本性のうちな
   る根源悪について

 

Ⅲ 人間は生来悪である

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 ・段落5 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

人間は「悪」だという命題が言わんとしていることは、人間は「道徳法則」を意識していながら「道徳法則」からの逸脱を「格率」の中に採用していることである。人間は「生来」悪であるということは類として見られた人間について言われるほどの意味である。経験を通して知られる人間のあり方から、そのような質がどんなによい人間の中にも前提できるという意味である。この性癖そのものは、道徳的に悪であると見なされなければならない。これは「選択意志」の反法則的な「格率」に存するのでなければならない。「格率」はそれだけ見れば、自由の故に偶然的であると見なさなければならない。「格率」すべての主観的な最上根拠が人間性そのものに織り込まれていなければ、悪の普遍性とつじつまが合わなくなる。あらゆる「格率」の主観的な最上根拠は悪への本性的性癖と呼べる。この性癖は、人間本性の内なる生得的な「根源悪」である。(Ⅵ,32)

注釈

 人間は「道徳法則」を意識していながら、その逸脱を「格率」の中に採用する。経験を通して知られる人間のあり方から、その逸脱はどんなによい人間にも前提できる。これは「選択意志」の反法則的な「格率」に存しなければならない。「格率」の主観的な最上根拠である悪への本性的性癖を人間本性の内なる生得的な「根源悪」と呼ぶ。

 

[段落2]

要約

人間本性の自然的善良さがそこに見出されるという仮説と突合わせてみれば、そのような意見と袂を分つのに粗野な悪徳が見られる。これを考察すれば、「国家」という名の社会の原則に廃棄できない原則に気づく。こうした原則を道徳との一致にもたらすことは、いかなる哲学者でもできなかった。その結果、「哲学的千年至福説」は空想だと嘲笑される。(Ⅵ,32ー34)

注釈

  「人間本性の自然的善良さがそこに見出される」という仮説を考察すれば、「国家」という社会で廃棄できない原則に気づく。こうした原則を道徳との一致にもたらすことは、どんな哲学者もできなかった。

 

[段落3]

要約

悪の根拠を①人間の「感性」に、そこに源を発する自然的傾向性に措定できない。自然的傾向性の現存在に責任を負う必要は、われわれにない。この悪の根拠は②道徳的=立法的理性の「腐敗」にも、措定できない。自分が自由に行為する存在者でありこの存在者の適した法則を免れていると考えるのは、法則がなくても作用する原因を考えるに等しい。しかしこれは自己矛盾である。(Ⅵ,34ー35)

注釈

  悪の根拠を、人間の「感性」や道徳的=立法的理性の「腐敗」にも措定できない。自由に行為する存在者としての私に適した法則を免れていると考えるのは、法則がなくても作用する原因を考えることと等しい。しかしこれは自己矛盾である。

 

[段落4]

要約

人間の「選択意志」による法則への反抗を経験的に証明することで、人間本性内での悪への性癖の現存在は立証できる。しかしこのような証明はこの性癖本来の性質や反抗の根拠を教えてはくれない。本来の性質は、自由な「選択意志」の動機としての道徳法則に関わる。自由の法則によって可能な限りでの悪の概念に基づいて、本来の性質はア・プリオリに認識されなくてはならない。(Ⅵ,35)

注釈

  人間の選択意志による法則への反抗を経験的に証明することは、悪への性癖本来の性質や反抗の根拠を示せない。自由の法則によって可能な限りでの悪の概念に基づいて、本来の性質はア・プリオリに認識されなくてはならない。

 

[段落5]

要約

人間は反逆的に「道徳法則」を放棄することはない。しかし人間は感性の動機にもつながっている。それらの動機も「格率」の中に人間は採用する。しかしそれらの動機を「それだけで」選択意志を規定するのに「十分なもの」として、「格率」の中に採用してしまって「道徳法則」の方に自己を向けないとすれば、人間は道徳的に悪だということになる。どちらの動機も彼は「格率の」中に採用する。動機を与えるのが法則か感官刺激かの違いにのみ依存しているならば、人間は道徳的に善であり悪である。これは自己矛盾である。人間が善なのか悪なのかの違いは「両方の動機のどちらかを他方の制約にするかの従属関係」にある。(Ⅵ,36)

注釈

 人間は、感性の動機にもつながっている。それらの動機も、「格率」の中で人間は採用する。しかし「道徳法則」に自己を向けないとすれば、人間は単に道徳的に悪だということになる。どちらの動機も彼は「格率」の中に採用する。人間が善なのか悪なのかの違いは「両方の動機のどちらかを他方の制約にするかの従属関係」にある。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。