[内容]
第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
について、あるいは人間の本性のうちな
る根源悪について
Ⅳ 人間本性における悪の起源について
・段落1 要約と注釈
・段落2 要約と注釈
・段落3 要約と注釈
・段落4 要約と注釈
・段落5 要約と注釈
文献
[段落1]
要約
起源とは、ある結果が第1原因に由来することである。それは、「理性起源」か「時間起源」として考察される。「理性起源」という意味で、結果の「現存在」だけが観察される。「時間起源」という意味では、結果の「生起」が観察される。事象としての結果は「時間内の原因」に関係づけられる。道徳的悪の場合のように、結果が原因に関係づけられるならば、結果を算出する選択意志を規定することは理性表象での規定根拠とだけ結びつく。悪い行為が世界での「事象」として自然的原因に関係づけられる場合、この先行状態からの導出がなされなくてはならない。自由な行為そのものに、「時間起源」を求めるのは矛盾である。人間の道徳的性質についても、同様である。(Ⅵ,39-40)
注釈
起源は、ある結果の第1原因に由来する。起源は「理性起源」か「時間起源」である。「理性起源」という意味で、結果の「現存在」が観察される。「時間起源」という意味で、結果の「生起」が観察される。結果が原因に関係づけられるならば、結果を算出する「選択意志」を規定することは理性表象での規定根拠と結びつく。人間の道徳的性質も同様、自由な行為そのものに「時間起源」を求めることは矛盾である。
[段落2]
要約
悪は最初、両親から「遺伝」によりわれわれのところに来たと表象することほど、不適切なものはない。(Ⅵ,40)
注釈
両親の「遺伝」から来たと悪を表象するのは、不適切である。
[段落3]
要約
行為は「選択意志」の「根源的」使用だと判定できるしそう判定されなくてはならない。人間が自由に行為する存在者でなくなることは、あり得ない。自由だが法則に反する行為に起因する「結果」についても、人間には責任を帰す。しかし、誰かがすぐ間近に迫っている自由な行為に至るまでよりよくなろうとすることは「今」でもその人の「義務」である。行為の瞬間に、引責能力があって引責に服す。(Ⅵ,41)
注釈
人間が自由に行為する存在者でなくなることはあり得ない。自由だが法則に反する行為に起因する「結果」についても人間には責任を帰す。間近に迫る自由な行為に至るまで、よりよくなろうとすることはその人の「義務」である。
[段落4]
要約
悪へのどんな性癖も生じる前の人間の状態は、「無垢」の状態である。人間は、「傾向性」に誘惑される存在者である。そうならざるを得ないよう、「道徳法則」はまず「禁止」として出てきた。人間はこの法則以外の制約された仕方でしか、善ではあり得ないような動機を探し求めた。行為が意識的に自由に源を発すると考えられる場合に、他の意図を顧慮するが故に法則にも従うことを「格率」とした。まず他のどんな動機も排除する命令の厳格さを疑い始め、次いで命令の服従を理屈をつけて引き下ろし始めた。そこから法則に基づく動機を凌ぐ感性的衝動の優位が、行為の「格率」に採用され罪が犯された。(Ⅵ,41-42)
注釈
人間は「傾向性」に誘惑される存在である。そうならないよう「道徳法則」は「禁止」としてまず出てきた。しかし他のどんな動機も排除する道徳法則の「命令の厳格さ」を疑い始め、次に「命令の服従」を理屈をつけて引き下ろし始めた。そこから「道徳法則」に基づく動機を凌ぐ感性的衝動の優位が行為の「格率」に採用され罪が犯された。
[段落5]
要約
従属的な動機を最上の動機として格率に採用する仕方に関して、「選択意志」を狂わせてしまう理性起源は極めがたい。悪は道徳的悪のみ源を発し得た。根源的素質は、善への素質である。道徳的悪が最初にどこからわれわれの中に入り込めるかについて理解する根拠は、われわれにない。(Ⅵ,43-44)
注釈
悪は道徳的悪のみ端を発した。根源的素質は善への素質である。道徳的悪が最初にどこからわれわれの中に入り込めるかについて理解する根拠は、われわれにない。
文献
Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】
※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。