ネコと倫理学

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【要約と注釈⑨】たんなる理性の限界内の宗教|第1編 (Ⅱ) (段落5~段落8)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
   について、あるいは人間の本性のうちな
   る根源悪について

 

Ⅱ 人間本性のうちなる悪への性癖について

 ・段落5 要約と注釈

 ・段落6 要約と注釈

 ・段落7 要約と注釈

 ・段落8 要約と注釈

文献

 

[段落5]

要約

人間の心情の邪悪さは、「選択意志」の性癖である。これは、「道徳法則」に基づく動機を他の動機より軽視する「格率」に向かう。(Ⅵ,30)

注釈

  悪い心情の異なる3段階の3つ目である、人間の心情の「邪悪さ」について。人間の心情の「邪悪さ」は、「道徳法則」に基づく動機を他の動機より軽視する「格率」に向かわせる。

 

[段落6]

要約

悪への性癖は、どんなによい人間にも配されている。人間にとって普遍的なことが証明されることになれば、その性癖はこのようになさざるを得ない。(Ⅵ,30)

注釈

 悪への性癖は、どんなによい人間にも存在する。人間にとってこのことが普遍的であると証明できれば、その性癖はこのようになさざるを得ない。

 

[段落7]

要約

ただ行儀よい人間の場合、常に「道徳法則」が、行為の唯一最上の動機となるとは限らない。一方、道徳的によい人間の場合、「どんなときでも」道徳法則が、行為の唯一最上の動機となる。行儀のよい人間については、法則の「文字」を遵守する。一方、道徳的によい人間については、法則の「精神」を遵守する。そもそも「法則に適った」行為へと「選択意志」を規定するのに、法則そのもの以外の動機が必要ならば、行為が法則と一致するのは偶然に過ぎない。(Ⅵ,30ー31)

注釈

 「行儀のよい人間」は、道徳法則の「文字」を遵守する。一方、「道徳的によい人間」は、道徳法則の「精神」を遵守する。「道徳的によい人間」にとって、「どんなときでも」道徳法則は、行為の唯一最上の動機となる。一方、「行儀よい人間」にとって、「道徳法則」は常に行為の唯一最上の動機となるとは限らない。「法則に適った」行為へと「選択意志」を規定するとき、「道徳法則」それ以外の動機が必要であるならば、行為が「道徳法則」と一致することは偶然的でしかなくなる。

 

[段落8]

要約

性癖という概念を規定するには、次の説明が必要である。性癖は、すべて自然的であるか道徳的であるかである。悪への性癖は、「選択意志」の道徳的能力にのみまつわりつく。われわれ自身の「行い」以外に、人倫的な悪は何ひとつない。一方、性癖の概念は、それ自身未だ「行い」となっていないような「選択意志」の主観的根拠である。そうすると、悪への単なる性癖という概念には矛盾がある。われわれ自身の「行い」以外に、人倫的な悪は何ひとつない。一方、性癖の概念はそれ自身未だ行いとなっていないような選択意志の主観的根拠である。そうすると、悪への単なる性癖という概念には矛盾がある。第1の罪責は、英知的行いである。それは、どんな時間制約もなく理性によってのみ認識する。第2の罪責は、可感的・経験的であって時間の中に与えられる。第1の罪責は、単なる性癖と言われ生得的である。この性癖は、根絶できない。悪はわれわれ自身の行いであるのに、なぜ他ならぬ最上格率を腐敗させてしまったかについて原因を挙げることはできない。(Ⅵ,31ー32)

注釈

  性癖は、「自然的」であるか「道徳的」であるかである。われわれ自身の「行い」以外に、人倫的な悪は存在しない。一方、性癖の概念それ自身、未だ「行い」となっていない「選択意志」の主観的根拠である。そうすると、悪への単なる性癖という概念に矛盾が生じる。第1の罪責は、英知的行いである。第2の罪責は、可感的・経験的である。それは、時間の中で与えられる。第1の罪責は単なる性癖と言われ、生得的である。この性癖は根絶できない。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。