「前回の記事で、オランダの「クリスマス」と沖縄県の「闘鶏」は、それぞれが「伝統」や「文化」を前提にしていることを述べた。
【参考:過去記事】
倫理学的観点で考えると、オランダの「クリスマス」と沖縄県の「闘鶏」はどう理解できるだろうか。この点について、今回は「ヒュームの法則」を手がかりに考えていく。
[内容]
【第1回】オランダのクリスマス
【第2回】沖縄で行われている「闘鶏」
【第3回】ヒュームの法則-「である」から「べき」は導けない
■ヒュームの法則-「である」から「べき」は導けない
「ヒュームの法則」とは、「『である』(事実判断)から『べきである』(価値判断)という判断は導けない」という哲学的命題である。
この法則は、18世紀イギリスの哲学者デイビット・ヒュームが『人間本性論』の中で書いたことをベースに、「メタ倫理学」の中で使われるようになった。
【参考:人間本性論】
「ヒュームの法則」について、ヒューム自身が明確に述べたわけではなく、後の哲学者たちが彼の著書『人間本性論』の中での発言を補って解釈し、「『である』と『べきである』は別問題なので、前者から後者を導き出すことはできない」という意味に読まれるようになった。この命題は「メタ倫理学」の中でしばしば引用される。
【参考文献:G.E.ムア『倫理学原理』 ※ヒュームの法則とムアの意図は異なる】
さて「ヒュームの法則」から、オランダの「ズワルトピート」について、次の推論形式が考えられる。
【推論1】
[前提] 伝統的に、黒人奴隷を「ズワルトピート」として利用してきた。(事実判断)
[結論] 黒人奴隷を「ズワルトピート」として扱うことが伝統であるという事実から、それを継続してよいし、扱うべきである。(価値判断)
同様に、沖縄県の「闘鶏」についても、次の推論形式が考えられる。
【推論2】
[前提] 伝統的に、軍鶏を「闘鶏」として利用してきた。(事実判断)
[結論] 今後も、軍鶏を「闘鶏」として扱ってよいし、扱うべきである。(価値判断)
【推論1】も【推論2】も、「事実判断」を前提として「価値判断」を導く構造である。
結論は、前提によって立証されなければならない。2つの事例を並べて考えると、【推論1】の前提が【推論2】を支持するようになっていない。つまり、オランダの「ズワルトピート」と沖縄県の「闘鶏」においても、「伝統」や「文化」という事実判断から「べきである」という価値判断を論理的に導くことはできない
「伝統」や「文化」を理由に、「ズワルトピート」や「闘鶏」を容認する見方には、論理の飛躍があるかもしれない。そのため、【推論1】や【推論2】には、もうひとつ何か暗黙の前提があるかもしれない。
ヒュームによれば、道徳は理性から導かれないが、感情に由来する。そのため、【推論1】と【推論2】の間に何らかの感情的な要素が含まれている可能性がある。
「人種差別」や「種差別」だけでなく、様々な価値観の中に論理の飛躍は隠れている。「ヒュームの法則」を意識することで、「動物倫理学」はもちろん様々な倫理的問題を新しい視点で捉え直すことができるだろう。【終わり】
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