「動物倫理学」に関する文献の中で、動物に「道徳的地位」を与える根拠として、カントの「目的」(Zweck)という概念が取り上げられることがある。
ただし、カントの「目的」概念から動物の「道徳的地位」を語る際に、注意が必要である。なぜなら、カントの「目的」はわれわれ人間にしか適用できないからである。この点を念頭に置き、今回はカントの「目的」について検討する。
まず、始めに一般的な目的という言葉を確認する。辞書からの引用によれば、われわれが日常使用するこの用語は次のようなものになるだろう。
もく‐てき【目的】
実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。めあて。(「デジタル大辞泉」)
例えば、「目的に適う」とか「当初の目的」などがその使用例だろう。一方、カントが使用する「目的」という用語はわれわれが使用するものとは異なる。
このことを示すため、 『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)第2章「通俗的な道徳哲学から道徳形而上学への移行」の一節を引用する。
意志はある法則の表象に適合して自己自身を行為へと規定する能力と考えられる。そしてこのような能力は、ただ理性的存在者のうちに見出させることができる。ところで、意志にとってその自己規定の客観的根拠として役立つものが目的であり、そしてこの目的は、それがたんなる理性によって与えられる場合は、あらゆる理性的存在者にひとしく妥当するはずである。(Ⅳ,428)
この引用文のポイントは、次の2点である。
・「目的」とは、「自己規定の客観的根拠として役立つもの」である。
・カントの「目的」は、「あらゆる理性的存在者にひとしく妥当する」。
「自己規定の客観的根拠」は、ここでは「道徳法則」である。道徳的判断を行う場合の基準となる「汝の意志の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従って行為せよ」(Ⅳ,421)という「定言命法」である。この「自己規定の客観的根拠」を支持する概念として、「目的」は存在する。
カント道徳哲学では、道徳的判断の主体は一貫して「理性的存在者」である。例えば、地球外生命体などもカントは想定しているが、少なくとも、地球上では人間のみをカントは「理性的存在者」と見なしている。
このことから考えると、カントの「目的」は「あらゆる理性的存在者」すなわち、われわれ人間以外あり得ない。
「定言命法」の全般的研究を行った人物に、ペイトンがいる。『基礎づけ』の中に出てくる「汝の人格やほかの人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」(Ⅳ,429)を「目的自体の法式」として、彼は理解する。
【参考:The Categorical Imperative】
The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy
- 作者:Paton, H. J.
- 発売日: 1971/10/01
- メディア: ペーパーバック
彼の解説によれば、「目的自体の法式」は理性的存在者一般を包括すべきである。われわれの知る唯一の「理性的存在者」は、人間である。われわれは、人間を「理性的存在者」として尊重するよう命じられる。
彼のカント解釈から考えてみても、人間以外の動物は「手段」である。カントの文脈に即して考えると、人間以外の動物はわれわれと同等に「道徳的地位」を持つとは言い難い。
動物虐待や無意味な動物実験について考えるならば、ペイトンの言う「目的自体の法式」を想起し、人間以外の動物も「手段」としてではなく、同時に「目的」として扱うべきであると主張したくなるのも無理はない。
しかし、カントの文脈に即して考えるならば、この主張自体誤りである。なぜなら人間のみが「目的」であり、人間以外の動物はあくまで、「手段」でしかないからである。
だからといって、動物虐待や無意味な動物実験などで、動物を単に「手段」として扱ってよいことを私は肯定している訳ではない。「目的」というカントの概念を援用するのであれば、彼の考えを正しく理解しそれに基づく解釈で議論すべきである。
哲学用語は、日常われわれが使用している用語とは違う場合が多い。このことが、混乱や誤解を招くことはよくある。
また「応用倫理学」を学習していると伝統的な概念の誤用や、誤った解釈を目にすることがある。正しい見解や解釈に基づいて、「動物倫理学」を含む「応用倫理学」などの学習を、継続していかなければならない。【終わり】
【参考文献】