ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【動物倫理学】人間以外の動物は単なる「手段」ではない【カント道徳哲学】

 

 カントの文脈に即すと、人間以外の動物は単なる「手段」である。人間以外の動物は、われわれと同等な「道徳的地位」を持つとは言い難い。しかし、事態はそう単純ではない。

 

 今回、動物は「目的」でも単なる「手段」でもなく、「第3の存在」であることを提案したい。そのため、まずカントの「目的」と「手段」について簡単に整理する。

 

 『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)に、次のような命題が登場する。

 

 汝の人格やほかのあらゆる人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ。(Ⅳ,429)

 

 この命題を、H.J.ペイトンは「目的自体の方式」と呼んだ。

 

【参考:The Categorical Imperative】

The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy

The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy

  • 作者:Paton, H. J.
  • 発売日: 1971/10/01
  • メディア: ペーパーバック
 

 

  カントの「目的」については、以前の記事を参照されたい。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

  

 一方、『基礎づけ』によると、「手段」は「自らの結果を目的とする行為の可能性の根拠を含むに過ぎないもの」(Ⅳ,427)である。これは、ある物事を実現させるために利用されることを指す。

 

 例えば、返す当てのない借金をするために嘘の約束をする場合、嘘をつかれた側は嘘をつく側の「手段」になる。

 

 理性を持たない場合、「手段」として相対的価値しか持たない存在を「物件」とカントは呼ぶ。例えば、何か物を作るために必要なハンマーやノコギリなどの道具である。

 

 また、「物件」は「価格」を持つ。「価格」を持つものは、何か他の等価物と置き換えられる。

 

 カント的に考えると、道具などの「モノ」も人間以外の動物も同じ「物件」であると考えられる。両者共に、「カネ」という等価物に交換可能である。しかし、ホームセンターで必要な「モノ」を購入するのと、ペットショップでイヌやネコを購入するのとは、どこか違うと感じるのは私だけではないはずである。

 

 この点を、伊勢田哲治の議論で考えてみたい。彼は、イヌやネコなどの伴侶動物と家具との違いについて考察する。

 

【参考:マンガで学ぶ動物倫理】

マンガで学ぶ動物倫理

マンガで学ぶ動物倫理

 

  

 伊勢田によれば、両者の違いについて、「伴侶動物は生きているが家具は生きていない」という答えがすぐに思いつく。

 

 しかし、生きているだけであれば、ベランダの鉢植えも一緒である。鉢植えを伴侶動物と同じ意味で、家族の一員だという人は少ないだろう。単に生きているだけでなく、伴侶動物は「気持ちを持つ」または人間と同じような方法で「コミュニケーションできる」存在だと考えるならば、このことは家具や鉢植えとは大きく違うという根拠になり得る。

 

 カントの議論に戻れば、確かに、伴侶動物を含む人間以外の動物は「理性的存在者」になり得ないし、人間と同等の「道徳的地位」は持てないかもしれない。人間以外の動物は道具であり単なる「手段」であると考えた方が、カント的だろう。しかし、理性を持つ以外に、特に動物には人間との共通性やわれわれが共感できる部分が存在する。

 

 例えば、ピーター・シンガーは「快苦」に人間との共通性を、久保田さゆりは動物の「豊かな内面」に人間が道徳的に共感できる部分を見出した(※1)。 

 

【参考:動物の解放 改訂版】

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

 

 シンガーや久保田の議論から、動物は「モノ」とは異なる存在であると考えられる。ということは、動物はわれわれ人間のような「目的」を持つ存在でもなく、道具のような「物件」つまり単なる「手段」であるとも考えにくい。

 

 つまり、浅野幸治が提示するように、動物は「目的」でも単なる「手段」でもない「第3の存在」であると考えた方がよいだろう(※2)。浅野によれば、人間と同様、他の動物も傷つき痛みや苦しみを感じる。人間以外の動物は、確かに「道徳的行為者」とは考えにくい。だからといって、単なる「物件」でもない。

 

 ここは重要な点である。人間以外の動物は、もちろん異なる存在ではあるが、人間と共通性も併せ持つ「第3の存在」である。「人間と同様傷つき痛みや苦しみを感じる」ことに加えて、人間以外の動物には上述した「豊かな内面」やローリンが言うような、食物、仲間関係、性、運動などの身体上、行動上必要なものや重要なものを動物は持つ。

 

 このことから考えてみても、人間とそれ以外の動物には、共通する部分やわれわれが道徳的に共感できる部分が存在することがわかる。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 以上の議論から、動物は「目的」でも単なる「手段」でもない存在であると考えられる。

 

 ところで、カント道徳哲学は一貫して「道徳的行為者」側から議論していると読み取れる。だから、「理性的存在者」であるわれわれ人間は、「道徳法則」に基づいて行動できる「目的それ自体」なのである。

 

 一方、人間以外の動物はカントの言う「理性」があるかどうか定かではない。「理性的存在者」でないにしろ、人間との共通部分やわれわれ人間が道徳的に共感できる部分から考えると、少なくともレーガンの言う「道徳的受益者」(moral patients)に人間以外の動物はなり得るだろう。

 

 【参考:The Case for Animal Rghits】

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • 発売日: 2004/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 この議論については、次の機会に譲ることにする。【終わり】

 

(※1) 久保田さゆり,2017:動物の倫理的重みと人間の責務 —動物倫理の方法と課題— 、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2017年.

(※2) 浅野幸治,2018:動物の権利ー間接義務再考ー、『フィロソフィア・イワテ (49)』所収、岩手哲学会編、岩手哲学会、2018年.

 

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