前回の記事「ボランティア活動の倫理学」では、筆者は「定言命法」に関する解釈を提示した。以下がその内容である。
「定言命法」でのポイントは、「格率」が自己矛盾を犯さないかどうかという「無矛盾性」にある。
【参考:過去記事】
今回の記事では、道徳規則を普遍化可能なものとする「定言命法」における「格率」について、3回にわたって考察する。
その中で、カントの『判断力批判』に登場する「3つの格率」について検討し、その後、「定言命法」と「3つの格率」に対する2つの提案を示す。
[内容]
【第1回】『判断力批判』の「3つの格率」
【第2回】「3つの格率」に関するオニールの解釈
【第3回】「定言命法」と「3つの格率」に対する2つの提案
「定言命法」と「3つの格率」から、筆者は次の2点を提案する。
・カントが想定する「他者」は「無知のヴェール」的な存在として考えられる。
・空間的・時間的に広がりを持つ道徳法則として「定言命法」を捉えることができる。
以下、この2点の結論に向かって「定言命法」と「3つの格率」について考察する。
■『判断力批判』の「3つの格率」
『判断力批判』を検討する前に、まず『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)で定式化された「定言命法」を確認しよう。「定言命法」とは、以下のようなものである。
汝の意志の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従ってのみ行為せよ。(Ⅳ,421)
『基礎づけ』の中で、カントは「定言命法」によって、どのような「格率」が普遍的法則となり得るかを判定するため、「思惟の自己矛盾」と「意欲の自己矛盾」という手続きを取り入れた。(※2)
「完全義務」や「不完全義務」の例を用いながら、「無矛盾性」という「定言命法」の特徴について説明する試みは、『基礎づけ』での「定言命法」の定式化以降から読み取れる。
【参考:道徳形而上学の基礎づけ】
そもそも、どのような「格率」が「定言命法」として妥当とされるのかについて、『基礎づけ』の中でカントが行った説明が上手くいっているかどうか疑問である。この問いに対し、『判断力批判』に登場する「3つの格率」が答えとなるだろう。
『判断力批判』の「3つの格率」とは、「第1部 情感的判断力の批判」の中に登場する次の「格率」である。
・偏見に囚われない考え方の「格率」=自分で考えること
・拡張された考え方の「格率」=他のあらゆる立場に立って考えること
・首尾一貫した考え方の「格率」=いつも自分自身と一致して考えること(Ⅴ,294-295 参照)
『判断力批判』によれば、「偏見に囚われない考え方の格率」を「受動的ではない理性の格率」(Ⅴ,294)とカントは言い換える。「受動的ではない理性」の性癖を「理性の他律に向かう」(ibid.)性癖と理解し、これを「偏見」(ibid.)とカントは捉える。
「偏見」とは、フランシス・ベーコンが言う「イドラ」と考えられることがある。そうであるならば、カントの言う「偏見」には、噂話などの「市場のイドラ」や権威ある者の言葉を盲信する「劇場のイドラ」が含まれるかもしれない。
「偏見に囚われない考え方」をカントは第1の格率とした。そして、「自分で考えること」は、「偏見」を排除するために必要な手段であるとして、その前提条件に過ぎないと解釈される。
【参考:ノヴム・オルガヌムー新機関】
「拡張された考え方の格率」について、『判断力批判』の中でカントは「合目的的に使用する認識能力の格率」(Ⅴ,295)として説明している。
この考え方は、主観的な個人的条件を脱却した「普遍的な立場」(ibid.)に基づいており、自身を反省する場合にもこの立場から判断することを求められる。カントは、「拡張された考え方」を持つ人こそがこの要請を理解し、実践できると考えた。
この箇所で、「拡張された考え方の格率」を「他の人々の立場へと自分を置き移す」(ibid.)ことであるとカントは説明する。
この立場を『実用的見地における人間学』の中でカントは、「複数主義」と表現する。
【参考:実用的見地における人間学】
「首尾一貫した考え方の格率」は、前の2つの「格率」を結合することによって到達するとされ、それが「最も困難である」(ibid.)とされている。そのため、この「格率」を獲得するためには、繰り返し前の2つの「格率」を遵守して熟練する必要があるとされる。
このように、『判断力批判』に即して「3つの格率」を検討した。
他方、「理性の公共的使用」(※3)という観点から、オニールは「3つの格率」を解釈する。【続く】
【次の記事】
(※1)R.M.ヘアやJ.L.マッキーの議論が代表的である。道徳的判断や規則での「普遍化可能性」とは、もしもある道徳的な判断をわれわれが行う時、同じ状況であるならば、誰にとってもその判断が受け入れ可能であるという可能性である。言い換えれば同じ状況の中で自分を例外的な立場に置かない、という目線の維持を意味する。(田中,2000,15 参照)
【参考:道徳の言語】
【参考:倫理学ー道徳を創造する】
【参考:コミュニケーション理論の射程】
(※2)この議論については稲葉稔(1983)が詳しい。
【参考:カント『道徳形而上学の基礎づけ』研究序説】
(※3)「理性の公共的使用」については『啓蒙とは何か』を参照。
【参考:啓蒙とは何か】