個人の好みや価値観は多様で、他者と共有する必要がないと考える人もいる。しかし、道徳的に正しい行為や美しいものに出会ったとき、その価値を他者と共有したいという強い衝動を感じることがある。
この普遍性への希求は、カント道徳哲学の核心に迫るものである。カントは『判断力批判』の中で、この判断を「趣味判断」(Geschmacksurteil)と呼んだ。
文化や時代を超えて、美や善の基準は多様である。しかし、真に美しいものや道徳的に正しい行為に接したとき、その価値はあらゆる人に理解されるべきだと考えずにはいられない。この普遍性への要求こそ、カントの「趣味判断」の本質である。
本稿では、『判断力批判』における「趣味判断」の2つの重要な側面を検討する。内容は以下の通りである。
[内容]
■「趣味判断」は「反省的判断力」である
■「趣味判断」は普遍的賛同を要求する
■まとめ
■「趣味判断」は「反省的判断力」である
「反省的判断力」(reflekterende Urteilskraft)は、個別的事例から普遍的原理を導き出す能力である。『判断力批判』の中で、この能力を用いて個別的判断から普遍的賛同を引き出せるとカントは主張した。
カントは「判断力」(Urteilskraft)を「規定的判断力」(bestimmende Urteilskraft)と「反省的判断力」に分類する。「規定的判断力」は、既存の普遍的原理に個別事例を当てはめる能力である。
「定言命法」(k Imperativ)がその一例だろう。「汝の格率が普遍的法則となることを、その格率を通して、汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従ってのみ行為せよ」(Ⅳ,421)という「道徳法則」(moralisches Gesetz) に基づき、「定言命法」は個々の行為の道徳性を判断する。
われわれが道徳的判断を下すとき、自らの「格率」(Maxime)が「定言命法」の中に含まれるかどうかが問題になる。自らの「格率」が「定言命法」に含まれるならば、その「格率」は普遍的であると判断される。この過程は演繹的である。
一方、「反省的判断力」は単に個別的なものだけが与えられていて、その個別的なものから普遍的なものを見出す。野に咲く花を見たとき、われわれはその花の中に「美しさ」を見出す。また、被災地でボランティアとして活動する若者のニュースを聞いたとき、われわれは彼らの中に「勇敢さ」を見出す。
日常的出来事から「反省的判断力」を考えてみても、「反省的判断力」はあるひとつの事例から普遍的なものを見出す「判断力」である。このように考えると、「反省的判断力」は帰納的プロセスであるが、経験的ではない。
カントによれば、個別的なものから普遍的なものへと上昇する責務を持つ。「反省的判断力」には、ある原理が必要である。この原理は、経験的原理すべてが同じ様に経験的であるが、より高次の原理の下で統一されることを基礎づけるべきである。つまり、「反省的判断力」は経験を超越したア・プリオリな原理に基づく。
■「趣味判断」は普遍的賛同を要求する
「趣味判断」は、個別的な判断でありながら普遍性を主張する。一見矛盾するこの特性は、カントによれば「趣味判断」が何に対しても「関心」(Interesse)を持たないことに由来する。
「美しい」ものを判定する時、それは快・不快の感情と結び付く。この満足の感情を、カントは「適意」(Zweckmäßigkeit)と呼ぶ。「適意」を引き起こすのは、単に「美しい」ものを判定するときに限られたことではない。道徳的な善さが、「適意」を引き起こすことにもなり得る。
カントは「趣味判断」での「適意」を明確にするため、「快適なもの」と「善いもの」についての「適意」を区別する。
「快適なもの」は、われわれの感覚に満足を与える。例えば、「このワインは美味い」と言うとき、それはワインという「快適なもの」についてのわれわれの感覚的判断である。この判断を、カントは純粋な「趣味判断」と区別する。
「快適なもの」についての判断は、直接われわれの感覚の快を根拠にする。「快適なもの」によって、個人はその欲望を引き起こされその現存と結び付く「適意」を抱く。
一方、「善いものの適意」について考えるときカントは「善い」と評価する場合を2通り考える。それは、あるものが「何かのために善い」つまり有用である場合と、あるものが「それ自体で善い」場合である。
あるものが「何かのために善い」とは、何らかの目的のための手段として善いということである。あるものが「何かのために善い」場合、ある目的に適合する点で「適意」を感じる。
あるものが「それ自体で善い」とは目的とは無関係に「それ自体として善い」。例えば、それはカントの言う「善意志」である。カントの立場で考えると「それ自体として善い」場合、自分の「格率」が道徳法則に適合している点で「適意」を感じる。
いずれの場合でも、ある対象や行為の現存についての「適意」つまり「関心」が含まれる。「善いものについての適意」は純粋な「趣味判断」の「適意」と区別される。もちろん、「快適なもの」と「善いものの」の中に違いはある。
両者は、対象について「関心」といつも結び付く。この点で、両者は一致する。
「趣味判断」を下す時、問題は自分自身の内なる表象をどんなものと思うかということだけである。このことが示すのは、「趣味判断」は対象を直接感じる感覚の中で快の感情を引き起こすものでもなく、ある目的や意図に照らしてそれとの関係で対象を判定するものでもない。
「趣味判断」は、ある対象の現存と結び付く「適意」とは無縁である。「趣味判断」にあるのは、ただ純粋に無関心な「適意」である。「関心」がなく「適意」や不適意によって対象や表象の様式を判定する能力が、「趣味」である。このように、「趣味判断」は何に対しても無関心である。
このことから、「趣味判断」は普遍的賛同を要求することが帰結する。「趣味判断」は、個人的判断である。普遍的な賛同をわれわれは、あくまで「要求」することしかできない。これはひとつの「理念」でしかない。
しかし、「趣味判断」は個人的判断であるにも関わらず、普遍的賛同を要求するという、一見矛盾する要求をカントは「共通感官」(Gemeinsinn)という原理によって根拠づける。
■まとめ
以上、カント「趣味判断」2つの観点すなわち、①反省的判断力と②普遍的賛同の要求について検討した。『判断力批判』で扱う「趣味判断」は、主に美的判断である。
しかし、カントの使う「趣味」という言葉それ自体を考えてみると、必ずしも「美しい」という美的判断だけではなく、道徳的判断でも「趣味判断」は適用できる。
きれいな花を見たとき、われわれは「この花は美しい」と言う。それだけでなく、ある人の道徳的行動を見たとき、「この人の行動は美しい」と言う。きれいなものにも道徳的行動にも、われわれは「美しい」という言葉を使う。
このように考えるならば、カントの「趣味判断」は美的判断だけでなく、道徳的判断にも適用できる。【終わり】