ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【カント道徳哲学】カント「趣味判断」2つの観点|反省的判断力と普遍的賛同の要求

 

 好きな食べ物や自分が気に入っている色など、われわれはそれぞれ趣味や嗜好を持つ。それは最初から他人には分からない、あるいは分かってもらえなくてもよいと思う人もいる。

 

 しかし、花や絵画など「美しい」ものに出会ったとき、その喜びは自分だけではなく他の人とでも分かち合えるはずであるという、何か確信めいたものが心の中で起こる。

 

 民族や時代なども含め境遇の違いによって、「美しい」とされるものに多くの違いはある。それでも、「美しい」ものと向き合うならば、この喜びはどんな人にも分かるはずである、あるいは分かって欲しいと思わずにはいられない。このような判断を、カントは「趣味判断」(Geschmacksurteil)と呼んだ。

 

 今回は『判断力批判』での「趣味判断」の2つの観点について検討する。

 

■「趣味判断」は「反省的判断力」である

 

 「反省的判断力」(reflekterende Urteilskraft)は、個別的なものから普遍的なものを見出す。この考えを使ってカントが『判断力批判』で行ったことは、個別的判断から普遍的賛同が引き出せると主張したことである。

 

 『判断力批判』によれば、「判断力」は2種類に分類される。それは、「規定的判断力」(bestimmende Urteilskraft)と「反省的判断力」である。規則や原理のような普遍的なものが与えられているならば、「規定的判断力」は個別的なものを普遍的なものの下に包摂する「判断力」(Urteilskraft)である。

 

 「定言命法」(kategorischer Imperativ)がその一例だろう。「定言命法」は、「汝の格率が普遍的法則となることを、その格率を通して、汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従ってのみ行為せよ」(Ⅳ,421)という「道徳法則」(moralisches Gesetz) である。

 

 われわれが道徳的判断を下すとき、自らの「格率」(Maxime)が「定言命法」の中に含まれるかどうかが問題になる。自らの「格率」が「定言命法」に含まれるならば、その「格率」は普遍的であると判断される。このように考えると、「規定的判断力」は演繹的である。

 

 一方、「反省的判断力」は単に個別的なものだけが与えられていて、その個別的なものから普遍的なものを見出す。野に咲く花を見たとき、われわれはその花の中に「美しさ」を見出す。また、被災地でボランティアとして活動する若者のニュースを聞いたとき、われわれは彼らの中に「勇敢さ」を見出す。

 

 日常的出来事から「反省的判断力」を考えてみても、「反省的判断力」はあるひとつの事例から普遍的なものを見出す「判断力」である。このように考えると、「反省的判断力」は帰納的である。 ただし、「反省的判断力」は決して経験に基づかない。

 

 カントによれば、個別的なものから普遍的なものへと上昇する責務を持つ。「反省的判断力」には、ある原理が必要である。この原理は、経験的原理すべてが同じ様に経験的であるが、より高次の原理の下で統一されることを基礎づけるべきである、とカントは主張する。

 

 これら経験的原理が、互いに体系的に従う関係の可能性を基礎づけるべきである。

 

 カントの主張から考えると、「反省的判断力」は経験的ではないそれより高次の原理に基づく。ということは、「反省的判断力」は経験に左右されないア・プリオリな原理である。

 

■「趣味判断」は普遍的賛同を要求する

 

 「趣味判断」は、個別的なものから普遍性を判断する。一般的に考えると、個別的であることと普遍的であることは互いに相容れない。しかしカントによれば、「趣味判断」は個人的判断であるが、何に対しても「関心」(Interesse)を示さない。

 

 「美しい」ものを判定する時、それは快・不快の感情と結び付く。この満足の感情を、カントは「適意」と呼ぶ。「適意」を引き起こすのは、「美しい」ものを判定するときに限られたことではない。

 

 カントは「趣味判断」での「適意」を明確にするため、「快適なもの」と「善いもの」についての「適意」を区別する。

 

 「快適なもの」は、われわれの感覚に満足を与える。例えば、「このワインは美味い」と言うとき、それはワインという「快適なもの」についてのわれわれの感覚的判断である。この判断を、カントは純粋な「趣味判断」と区別する。

 

 「快適なもの」についての判断は、直接われわれの感覚の快を根拠にする。「快適なもの」によって、個人はその欲望を引き起こされその現存と結び付く「適意」を抱く。

 

 一方、「善いものの適意」について考えるときカントは「善い」と評価する場合を2通り考える。それは、あるものが「何かのために善い」つまり有用である場合と、あるものが「それ自体で善い」場合である。あるものが「何かのために善い」とは、何らかの目的のための手段として善いということである。あるものが「何かのために善い」場合、ある目的に適合する点で「適意」を感じる。

 

 あるものが「それ自体で善い」とは目的とは無関係に「それ自体として善い」。例えば、それはカントの言う「善意志」である。カントの立場で考えると「それ自体として善い」場合、自分の「格率」が道徳法則に適合している点で「適意」を感じる。

 

 いずれの場合でも、ある対象や行為の現存についての「適意」つまり「関心」が含まれる。「善いものについての適意」は純粋な「趣味判断」の「適意」と区別される。もちろん、「快適なもの」と「善いものの」の中に違いはある。

 

 両者は、いつも対象について「関心」と結び付く。この点で、両者は一致する。

 

 「趣味判断」を下す時、問題は自分自身の内なる表象をどんなものと思うかということだけである。このことが示すのは、「趣味判断」は対象を直接感じる感覚の中で快の感情を引き起こすものでもなく、ある目的や意図に照らしてそれとの関係で対象を判定するものでもない。

 

 「趣味判断」は、ある対象の現存と結び付く「適意」とは無縁である。「趣味判断」にあるのは、ただ純粋に無関心な「適意」である。「関心」がなく「適意」や不適意によって対象や表象の様式を判定する能力が、「趣味」である。このように、「趣味判断」は何に対しても無関心である。

 

 このことから、「趣味判断」は普遍的賛同を要求することが帰結する。「趣味判断」は、個人的判断である。普遍的な賛同をわれわれは、あくまで「要求」することしかできない。これはひとつの「理念」でしかない。

 

 しかし、「趣味判断」は個人的判断であるにも関わらず、普遍的賛同を要求するという、一見矛盾する要求をカントは「共通感官」(Gemeinsinn)という原理によって根拠づける。

 

■まとめ

 以上、カント「趣味判断」2つの観点すなわち、①反省的判断力と②普遍的賛同の要求について検討した。『判断力批判』で扱う「趣味判断」は、主に美的判断である。しかし、カントの使う「趣味」という言葉それ自体を考えてみると、必ずしも「美しい」という美的判断だけではなく、道徳的判断でも「趣味判断」は適用できる。

 

 きれいな花を見たとき、われわれは「この花は美しい」と言う。それだけでなく、ある人の道徳的行動を見たとき、「この人の行動は美しい」と言う。きれいなものにも道徳的行動にも、われわれは「美しい」という言葉を使う。このように考えるならば、カントの「趣味判断」は美的判断だけでなく、道徳的判断にも適用できる。【終わり】