【前回の記事】
6.おわりに
以上、今回はカントの「完全義務」と「不完全義務」について検討した。その結果、次のことが明確になった。
すなわち「完全義務」は、われわれの思考によって判定可能であるということである。他方、「不完全義務」について、理性的存在者としてのわれわれが意欲することができるかどうかによって判定できる。
「完全義務」について考える際、カントはそれに反する「格率」が普遍的法則になり得るかどうかで判定する。すると、この「格率」は自ら考えることによって自己矛盾に陥るので、この「格率」は普遍的法則になり得ないとカントは結論づけた。
別の視点で考えると、「完全義務」に当てはまる「格率」を自ら考えることによって、それが自己矛盾しているかどうかで判定することができるとカントは考えていることが明らかである。ゆえに「完全義務」の場合、もしもある「格率」をわれわれが考えることによって矛盾が無いと判定されるならば、この「格率」は「完全義務」として認められる。
他方、「不完全義務」は単に矛盾無く考えることができればよい、という訳にはいかない。「不完全義務」は、「格率」が普遍的法則として考えることができるということと同時に、理性的存在者として意欲することができなければ、その「格率」は「不完全義務」に値しない。「不完全義務」について考える時、カントはこの「義務」の「格率」が理性的存在者としてのわれわれの意欲と矛盾しているかどうかで判定している。
この議論から新たな問題が浮上する。その問題とは、理性的存在者が意欲するとはどのようにして可能か、という点である。
理性的存在者が意欲するとはどのようにして可能かという問題を解決するため、その手がかりを『判断力批判』に求める。確かに『判断力批判』は、主に美について書かれた著作である。しかし、『判断力批判』は必ずしも道徳的な判断と無関係とは言い切れない。『判断力批判』に登場する「趣味判断」と「共通感官」という概念から、理性的存在者が意欲するとはどのようにして可能かという問題は別稿に譲る。【終わり】
【参考記事】