ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【抄訳と訳注⑫】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • University of California Press
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 5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性 (p.180 )

 

 This same error underlies the charge of absurdity and inconsistency that the authors level against Kant in bringing their argument to a head.

 They write:

 

 Thus, if[Kant] is to use the argument that using animals as means will lead us to use rationality as means, he must generalize it, and say that because of the effect on our behavior towards other people, we ought never to use anything as a means, and we have an indirect duty not to do so. This is not merely absurd, but contrary to his imperative of skill (emphasis added).

 

[訳] 

 自らの議論を表に持ってくる際に、著者たちがカントに対して収束する不条理と矛盾の告発の背後にこの同じ誤りが存在する。彼らは次のように記述する。

  

 したがって、もし[カント]が動物を手段として扱うことで理性を手段として扱うようになるという議論を行使するならば、彼はそのことを普遍化しなければならないし、他人に対するわれわれの行動の影響のため、われわれは手段として決して何も利用すべきではないし、そうしない間接的義務を負うと言わなければならない。これは単に理性に反するだけでなく、彼の熟練の命法にも反する(強調追加)。(『カントの動物の取り扱い』アレクサンダ-・ブロ-ディー・エリザス.M.パイバス)

 

[訳注]

 カントに対する不条理と矛盾の告発には、「この同じ誤り」(This same error )が存在する。「この同じ誤り」とはすなわち、動物虐待を行わないことは「間接義務」であるとする一方で、動物を「手段」(means)として扱ってはいけないことをカントは否定してはいないということである(注1)。この主張を明確化するため、上記のように、レーガンはブローディーとパイバスの主張を引用する。

 

The point is, however, that Kant does not maintain that using animals as means will lead to the effects in question; what he does maintain is that maltreating them will.

 

[訳]  

 しかしながら、要点はカントが動物を手段として扱うことが問題となる結果をもたらすことを主張していないという点である。つまり彼が主張することは、動物たちを虐待しようとすることではない。

 

[訳注]

 ブロ-ディーとパイバスの引用を通してレーガンが言いたいことは、「動物たちを虐待しようとすること」(maltreating them will)をカントは認めていないことである。

 

So Broadie and Pybus cannot argue that Kant’s position leads to the absurd consequence that we have an indirect duty not to use any thing as means on the ground that Kant holds that we have an indirect duty not to use animals in this way.Nor can they say that his view here is inconsistent with his imperative of skill.  For what follows from what Kant says is not that we have an indirect duty not to use any thing as a means; what follows is that we have an indirect duty not to maltreat any thing, if, by doing so, we are led to use the rationality in ourselves or in others merely as means.

 

[訳]

 それで、われわれがこの方法で動物を扱わない間接義務があるとカントが主張するという理由で、カントの立場が手段として何も扱わないために間接義務があるという理性に反する結論につながることをブローディーやパイバスは主張できない。彼のここでの見方が熟練の命法と矛盾するとも言えない。というのもカントが言うことから生じることは、われわれは手段として何も扱わない間接義務がある、ということではないからである。次のことは、そうすることによって、もし自分自身または他人の理性を単に手段としてわれわれが扱うようになるならば、われわれがどんなものも不当に扱ってはいけないという間接義務があるということである。

 

[訳注]

 レーガンによれば、「この方法で」(in this way)つまり人間以外の動物をわれわれが虐待するという意味で動物を扱わない「間接義務」(indirect duty)があるという理由で、「手段として」(as means)、例えば荷物運搬用として人間以外の動物を扱わない「間接義務」が存在すると主張できない。 ところで『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)によれば、「熟練の命法」(imperative of skill)は「仮言命法」(hypothetical imperative)のひとつである。「熟練の命法」は、ある目的が①われわれにとって可能であるか②どのようすればこの目的が達成されるかを指示する命法からなる。この目的が、理性的あるいは善であるかという問題とは無関係である(注2)。「熟練の命法」カントの立場に矛盾は生じない。カントが言うことから導き出されることは、われわれは人間以外の動物をいかなる場合でも「手段」として扱ってはいけないという「間接義務」が存在する、ということではないということである。【続く】

 

(注1) 過去記事を参照。

chine-mori.hatenablog.jp

 

(注2) Ⅳ,415 参照。

 

ブローディーとパイバスに対するレーガンのコメントについて以下を参照。

Broadie and Pybus on Kant by Tom Regan】

http://tomregan.free.fr/Tom-Regan-Broadie-and-Pybus-on-Kant.pdf

 

※誤訳や認識不足などございましたら、コメント欄に書き込みして頂けると幸いです。

 

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