[内容]
第2版序文
・段落1 要約と注釈
・段落2 要約と注釈
・段落3 要約と注釈
・段落4 要約と注釈
文献
[段落1]
要約
第2版でも誤植と若干の表現の訂正以外は何も変わっていない。(Ⅵ,12)
注釈
省略。
[段落2]
要約
「啓示」は、純粋「理性宗教」を含む。啓示を信仰の「より狭い」領域としての理性宗教を含む「より広い」信仰領域だ、と私はみなす。この狭い方の領域内で純粋な理性教師として哲学者は、身を持さなければならない。その際、あらゆる経験を度外視しなければならない。この立脚点から、次の試みをなす。それは、啓示と見なされている何らかの啓示から出発して純粋理性宗教を度外視しながら、「歴史的体系」としての啓示を道徳的概念に断片的に当てがう。この体系が、宗教の純粋「理性体系」に還元されないかどうかを調べるという試みである。こちらの体系は、道徳的=実践的意図では自立しているし、ア・プリオリな理性概念として道徳的=実践的関係で成立する本来の宗教にはこの体系で充分である。これが正鵠を射るのであれば、理性と書き物との間に一致も見られる。(Ⅵ,12-13)
注釈
「啓示」とは真理が顕わになること、また神などによる自己表明のことである。「啓示」は、「あらゆる経験を度外視」した純粋な「理性宗教」を含む。「より広い」信仰領域とは、例えば自分自身の安寧などの経験的部分であると考えられる。一方、「より狭い」領域とは、ア・プリオリな原理に基づく信仰の領域であると考えられる。
カントによれば、両者は互いに独立するのではなく同心円状に存在する。この「立脚点」から、カントは次のような試みを行う。その試みとは、「歴史的体系」としての啓示、つまり『新約聖書』にあるイエス・キリストの諸々の行為や出来事を「道徳的概念に断片的に当てがう」ことである。この一連の「体系」が、「宗教の純粋理性体系に還元され」るかどうかを調べることである。この試みによって要点をうまく捉えきれるのであれば、「理性」と『聖書」との間に一致が見られる。
[段落3]
要約
このような統一の試みは、正当に哲学的な宗教研究者に属す営みである。(Ⅵ,13)
注釈
このような統一の試みは、ア・プリオリな原理に基づいて「哲学的な宗教研究者」が担う。
[段落4]
要約
評者の判断では、本稿は自分自身に出した問いへの解答に他ならない。問いとは、「純粋理性によって教義学の教会的体系はその概念及び定理の点でいかに可能か」というものである。これに答えるなら、本稿の本質的な内容を理解するのに必要なのはありきたりの道徳だけである。理論理性の批判に言うに及ばず、実践理性の批判に立ち入る必要はない。(Ⅵ,13-14)
注釈
評者の判断では、本稿はカント自ら出した問いへの解答である。「教義学」とはキリスト教神学での教義の関する学問的研究である。特に、カトリック教会では拘束力を持つ基礎的な信仰真理を定式化した命題が、「教義」である。
本稿の目的は、「純粋理性」によって「その概念及び定理の点で」キリスト教神学での教義について、教会的体系がいかに可能かという問いに解答することであると考えられる。本稿の本質的内容を理解するため、「実践理性の批判に立ち入る必要はない」。
文献
Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】
※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。