[内容]
第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
について、あるいは人間の本性のうちな
る根源悪について
・段落1 要約と注釈
・段落2 要約と注釈
・段落3 要約と注釈
・段落4 要約と注釈
・段落5 要約と注釈
文献
[段落1]
要約
「この世は邪悪だ」というのは、歴史始まって以来の嘆きである。(Ⅵ,19)
注釈
「この世は邪悪だ」の表現は、『ヨハネの手紙(1)』より。
[段落2]
要約
世界は、稚拙なものからよりよいものへと絶えず進む。少なくともその素質は、人間本性に見られる見解である。しかし「道徳的な」善・悪が問題であれば、哲学者や教育学者もこの見解を経験から汲み上げたわけではない。その上、人間は生まれつき健康であると想定しなければならない。人間の魂も、生まれつき善良であると想定した根拠はない。(Ⅵ,19-20)
注釈
世界は、未熟なものからよりよいものに発展する。このことは、能力など人間の素質も同様である。哲学者や教育学者のこの立場は、経験的な見解である。一方、道徳的な善悪の問題は、経験を根拠としない。人間は健康的に生まれてくると、「想定」しなければならない。この「想定」と同様に、人間の魂も生まれつき善良であると想定しなければならない。しかし、その根拠はない。
[段落3]
要約
ある人が「悪人である」と言われるのは、彼が悪であるような行為をなすからではない。行為が、彼の中に悪い「格率」を推測させる性質があるからである。確かに法則に反する行為は経験により認められる。一方、「格率」は観察できない。実行者が、「悪人である」という判断は経験に基づかない。意識的になされた悪い行為から根底にある悪い「格率」がア・プリオリに推測されなくてはならない。(Ⅵ,20)
注釈
「悪人である」と言われるのは、その人の行為の中に悪い「格率」を推測させる性質があるからである。ある人を「悪である」と呼ぶには、意識的になされた行為の根底にある悪い「格率」が、ア・プリオリに推測されなくてはならない。
[段落4]
要約
「本性」という表現は「自由」に基づく行為の根拠の反対を意味するならば、「道徳的に」善や悪という述語と矛盾する。人間本性とは、自ら自由の使用一般への主観的根拠のことである。この根拠は、感覚によって捉えられる行いすべてに先立つ。この主観的根拠そのものも、常に自由の作用でなければならない。「傾向性」を通じて「選択意志」を「規定する」客体や自然衝動などに悪の根拠が含まれることは、あり得ない。むしろそれは「格率」にのみ含まれる。(Ⅵ,20-21)
注釈
人間本性は、自ら自由の使用一般への主観的根拠である。この根拠は、感覚によって捉えられる行為に先立つ。「傾向性」を通して「選択意志」を「規定する」客体や自然衝動などに、悪の根拠が含まれることはない。むしろ、それは「格率」にのみ含まれる。
[段落5]
要約
様々な性格のひとつを、人間に「生得的」であるということにする。人間の内なる善悪が生得的であるのは、それが経験に与えられるあらゆる自由の使用に先立ち根底に置かれるという意味でだけである。それは、善悪の誕生がその原因であるという意味に関してではない。(Ⅵ,21-22)
注釈
人間と他の考えられる理性的存在者を区別する性格のひとつを、人間に「生得的」であるということにする。人間の内なる善悪が生得的である理由は、それが経験に与えられるあらゆる自由の使用に先立ち根底に置かれるからである。
文献
Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】
※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。