ネコと倫理学

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【要約と注釈⑥】たんなる理性の限界内の宗教|第1編 注解(段落1~段落5)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
   について、あるいは人間の本性のうちな
   る根源悪について

 

注解

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 ・段落5 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

先に、2つの仮説を立てた。それら相互の争いの根底に、ひとつの選言的命題がある。それは、「人間は人倫的に善か悪か、そのいずれかである」ということである。このような選言的対立を立てることは、果たして正しいことか。経験が確証するのは、両極端の中間項ですらあり得る。(Ⅵ,22)

注釈

 先の仮説とは、次の2つである。すなわち、①「道徳的悪への頽落はより邪悪なものへと急ぎ、加速度的に転落していく」という世界の見方と、②「世界は稚拙なものからよりよきへと絶えず進んでいる」という世界の見方である。その根底の中のひとつに、「人間は人倫的に善か悪か、そのいずれかである」という選言的命題がある。しかし「経験が確証するの」は、どちらでもない「両極端の中間項」も考えられる。

 

[段落2]

要約

行為についても人間の性格についても道徳的中間をできるだけ認めないようにするのは、道徳的一般にとって極めて重要である。厳しい考え方を愛好する人々は、「厳格派」と呼ばれる。反対の考え方は、「寛容派」と呼べる。後者は、中間の寛容派で「無関心主義者」か「折衷派」と呼ばれる。(Ⅵ,22ー23)

注釈

 道徳的中間をできるだけ認めないことは、道徳的一般にとって極めて重要である。厳しい考え方を好む人々は、「厳格派」である。一方、その反対は「寛容派」である。後者は、「中間の寛容派」である。それは、「無関心主義者」か「折衷派」と呼ばれる。

 

[段落3]

要約

「選択意志」の自由は、どんな動機によっても行為へと規定できない。「ただ人間が動機を自らの格率に採用した限りでのみ」規定できるという性質が、自由にはある。このようにしてのみ動機は、「選択意志」の絶対的自発性と共存できる。理性の判断について、法則それだけが動機である。この法則を「格率」とする人が、「道徳的」に善である。(Ⅵ,23ー24)

注釈

 善か悪かを選択する意志の自由は、どんな欲求の主観的根拠も行為へと規定できない。単に「人間が」主観的根拠である「動機」を「自らの格率に採用した」場合のみ規定できる性質が、自由にはある。ここで、「動機は選択意志の絶対的自発性と共存できる」。理性の判断によれば、「道徳法則」それ自体が「動機」となる。「道徳法則」を「格率」として採用する人は、「道徳的」に善である。

 

[段落4]

要約

人間が、人倫的に善であると同時に悪だということはあり得ない。ある点で善だとすれば、その人は「道徳法則」を「格率」に採用する。他の点でその人が同時に悪だということになれば、この法則は「義務」一般の遵守にとって唯一の法則であり普遍的である。それに関係づけられた「格率」は、普遍的であると同時に特殊な「格率」であることになる。これは矛盾である。(Ⅵ,24)

注釈

 人間が「人倫的に善」であり、「悪だということ」はあり得ない。善であるとすれば、その人は「道徳法則を格率」に採用した人である。一方その人が同時に悪であるとすれば、「関係づけられた格率」は「普遍的」あり「同時に特殊な格率」となる。このことは矛盾である。

 

[段落5]

要約

心術がよいか悪いかを生得的な性質として生まれつき持つということは、その心術を中に抱く人間がそれを獲得したのではない。心術とは、「格率」を採用する最初の主観的根拠である。それはただひとつであり、自由の使用全体に普遍的に及ぶ。心術そのものは自由な「選択意志」を通して採用されなくてはならない。この採用の主観的根拠あるいは原因は、認識できない。心術は、「選択意志」に生来備わっている性質である。われわれは、人間が生来善なのか悪なのかを語る。われわれには類全体という意味でしかそれを語る機能がないことは、後でないと証明できない。(Ⅵ,25)

注釈

「心術がよいか悪いかを生得的な性質として生まれつき持つ」と考えることは、時間の中で人間が「その心術を中に抱」いたのではない。心術は、「格率を採用する最初の主観的根拠」である。それは、「自由の使用全体に普遍的に及ぶ」。心術それ自体は、「自由な選択意志を通して採用」される。「この採用の」主観的な根拠や「原因」は、われわれに「認識できない」。心術は、「選択意志」に備わる性質である。ただし、われわれにとって「類全体という意味で」それを語ることは「後でないと証明できない」。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。