[内容】
第1編 悪の原理が善の原理とならび住むことについて、あるいは人間の本性の
うちなる根源悪について
Ⅰ 人間本性のうちなる善への根源的素質について
・段落1 要約と注釈
・段落2 要約と注釈
・段落3 要約と注釈
・段落4 要約と注釈
・段落5 要約と注釈
文献
[段落1]
要約
この素質は人間の規定要素として3階級に分けられる。
① 「生けるもの」としての人間の「動物性」の素質
② 生けるものであると同時に「理性的なもの」としての人間の「人間性」の素質
③ 理性的であると同時に「引責能力ある」存在者としての人間の「人格性」の素質(Ⅵ,26)
注釈
(原注より)
ある存在者に理性があるからといって、それ自身で実践的である能力を含むことにはならない。どんな理性的存在者でも、「傾向性」の客体に由来するある種の動機を常に必要とする。だからといって端的に命令する「道徳法則」について、この可能性さえ理性的存在者は予感しない。この法則はわれわれの選択意志のどんな動機による規定からも、独立することをわれわれに意識させる。同時に、この法則は行為すべてに「引責能力」があることもわれわれに意識させる唯一のものである。
[段落2]
要約
人間における「動物性」の素質は自然的で「機械的」な自己愛という一般的項目に入れられる。これには3つある。
① 自己保存のための素質
② 生殖行動により種を繁殖させ生まれてくるものを保存しようとする素質
③ 社会性への「衝動」(Ⅵ,26ー27)
注釈
この段落は[段落1]の①についてのカントによる解説である。人間における「動物性」の素質について、上記3つをカントは「粗野の悪徳」と呼ぶ。具体的に上記3つは「暴飲暴食」、「淫蕩」そして「野性的無法」のような「獣的悪徳」である。
[段落3]
要約
「人間性」のための素質は、他人と比較することでのみ自分の幸・不幸を判定する自己愛である。この自己愛からくるのが、「他人の意見に自分の価値を与えようとする」傾向性である。これは「平等」という価値を与えようとして自分への優越を誰にも認めない傾向性である。自分への優位を他人が獲得したがっているかもしれないという懸念が、絶えず結び付く。ここから他人への優越を得ようとする不当な欲望が、次第に生じる。(Ⅵ,26ー27)
注釈
この段落は[段落1]の②についてのカントによる解説である。「人間性」のための素質は端的には「自己愛」である。ここで言う「自己愛」は、「他人の意見に自分の価値を与えようとする」という「傾向性」である。具体的には、それは「嫉妬」や「競争心」などである。この邪悪さの度合いが高まると、「他人の不幸を喜ぶ気持ち」など「悪魔的悪徳」になり得る。
[段落4]
要約
人格性のための素質は、「道徳法則」への「それだけで選択意志の十分な動機である」尊敬の感受性である。「選択意志」の動機である限りでのみ、われわれの内なる「道徳法則」への単なる尊敬の感受性はそのような目的を成す。(Ⅵ,27ー28)
注釈
この段落は、[段落1]の③についてのカントによる解説である。「人格性」のための素質は、「道徳法則」への「尊敬」の感受性である。「道徳法則」への「尊敬」が選択意志の動機である限り、この感受性はわれわれの「人格性」のための素質になり得る。
[段落5]
要約
第1の素質の根に、理性はない。第2の素質は、実践的だが他の動機にしか仕えることができない理性をその根としている。それ自身で実践的な無制約に立法する理性が、第3の素質にだけその根にある。人間について、これら3つの素質はすべて単に「よい」だけでなく、「善への」素質でもある。
注釈
この段落は、[段落1]全体についてのカントによる見解である。人間における「動物性」の素質に理性はない。「人間性」のための素質は、「他の動機」すなわち「自己愛」という「傾向性」にしか仕えることができない。「人格性」のための素質には、「それ自身で実践的な無制約に立法する理性」が存在する。カントによれば、これら3つの素質は人間的本性の可能性に属す。特に「動物性」の素質と「人間性」のための素質は、根絶できない。ここで問題となるのは、「欲求能力」と「選択意志」の使用に直接関係する素質である。
文献
Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】
※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。