前回の記事で、オニールの解釈に従って、「定言命法」と「3つの格率」について検討を行った。その結果、次の疑問が提示された。
・「他のあらゆる立場」に立って考えられる「他者」とは一体誰か。
・「拡張された自己」はどこまで「他のあらゆる立場」に立って「他者」を想定できるのか。
【参考:過去記事】
この問題と【第1回】の記事も踏まえ、筆者は「定言命法」と『判断力批判』の「3つの格率」から、次の2つの解釈を提案する。
・カントが想定する「他者」は「無知のヴェール」的な存在として想定できる。
・空間的・時間的に広がりを持つ道徳法則として「定言命法」を捉えることができる。
【参考:過去記事】
以下、この結論について考察する。
[内容]
【第1回】『判断力批判』の「3つの格率」
【第2回】「3つの格率」に関するオニールの解釈
【第3回】「定言命法」と「3つの格率」に対する2つの提案
■「定言命法」と「3つの格率」に対する2つの提案
【第1回】の記事を踏まえると、「定言命法」の「無矛盾性」は単に「思惟による無矛盾性」と「意欲による無矛盾性」として理解できないことが示されるだろう。
【第2回】の記事の結果から、「格率」が次の手続きを踏んで普遍的法則になり得るかどうか、吟味されることが理解できる。
・偏見に囚われず自分で考えられた「格率」である。
・他のあらゆる立場に立って考え自己が拡張された「格率」である。
・いつも自分自身と一致し首尾一貫した「格率」である。
この3点を基準に、「定言命法」では「思惟できる」と同時に「意欲できる」ような「格率」を普遍的法則としてわれわれは採用することになる。
この理解の下、筆者は次の2つの見解を示す。1つ目はカントの「他者」についての疑問とその対案である。2つ目は時間的・空間的な広がりを持つという「定言命法」の解釈である。
まず、カントの「他者」に関する疑問とその対案についてである。これまで見てきたカント理解が正しいのであれば、次のような疑問が残る。
すなわち、「他のあらゆる立場」に立って考えられる「他者」とは一体誰か。また、「拡張された自己」はどこまで「他のあらゆる立場」に立って「他者」を想定できるのか。
「他のあらゆる立場」に立って考えるとき、例えば自分以外の性別や国籍を考慮に入れなければならない。また、政治思想や宗教的信条などの価値観の違いも考慮の対象になるだろう。ただし、考慮に関してわれわれには有限性がある。
自己をどこまで拡張しても、自己の内部で完結せざるを得ない。このように考えると、「拡張された自己」には限界がある。
この懸念に対して、筆者は「無知のヴェール」的な「他者」を想定する方策を提案する。この考えを採用するならば、「拡張された自己」の中で「他のあらゆる立場」に立った「他者」を想定しやすくなるだろう。
ここで、「無知のヴェール」について簡単に説明する。「無知のヴェール」は、アメリカの政治哲学者であるロールズが考えた思考実験である。一般的に、「無知のヴェール」では次の2点がポイントとなる。
・自身の位置や立場についてまったく知らない。
・一般的状況はすべて知っているが、自身の出身・背景、家族関係、社会的な位置、財産の状態などについては知らない。
ロールスによれば、この仮定を通じて社会全体の利益に向けた正義の原則を見出させる。特に、「最も不利な条件で生まれた可能性」を考えて社会秩序を選択する必要性をロールズは論じる。
具体的・個別的な人間観をカントの中に見出すオニールは、『理性の構成』の中でロールズの「無知のヴェール」を抽象的であると批判する。(※1)
ただしこの批判は行為者側に関することであることが、オニールの記述から読み取れるだろう。道徳的行為を受ける側に関して、このような「他者」を想定しても、カント的立場から大きく外れることはないように思われる。
カントの言う「他のあらゆる立場」に立って考えると、様々な立場や価値観を考慮しなければならないので複雑化する。
一方、ロールズの考えを援用すれば、カント道徳哲学への「他者」理解が幾分単純化されるだろう。
特に、ロールズの言う「最も不利な条件で生まれた可能性」を持つ「他者」を想定することで、「定言命法」が道徳法則として「普遍化可能性」を持つことになり得る。
次に、時間的・空間的な広がりを持つという「定言命法」の解釈についてである。『判断力批判』の「3つの格率」の見方を変えると、「定言命法」をある種「座標軸」のように理解できるだろう。
1つ目の「格率」である「自分で考えること」を「原点」として考えると、2つ目の「格率」である「他のあらゆる立場に立って考えること」は「空間軸」として考えられる。
更新されたデータに対して首尾一貫性を保持しなければならないという理由で、3つ目の「格率」である「いつも自分自身と一致して考えること」は「時間軸」として考えられる。
このように「3つの格率」を捉えるならば、「自ら考えること」を起点に空間的・時間的に広がりを持つ道徳法則として「定言命法」を見ることができる。
カント道徳哲学を形式主義的であるとか独我論的(※2)である、と批判する者もいる。しかし以上の解釈が成立すれば、カント道徳哲学に広がりと深まりが一層増し、新たな可能生を見出すことができるだろう。
カント道徳哲学は伝統的でもあるが、一方で革新的な分野である。その点が、カント道徳哲学の魅力のひとつである。カント自身の文献にも触れながら、他の研究者の観点も取り入れつつカント道徳哲学研究を継続する。【終わり】
(※1) O'Neill.O,1989,邦頁408 参照.
【参考:理性の構成】
(※2)カントの「独我論」的解釈の批判について、以下の文献も参考になる。
倉本香, 2009:カントの実践的複数主義について、『大阪阪教育大学紀要 第I部門 人文科学, 58(1)』所収、大阪教育大学、2009年.
https://opac-ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/webopac/KJ1_5801_001._?key=QIETHD
●倉本(2009)は「叡知界」と「現象界」というカントの「2世界説」からの「他者」理解を検討する。
寺田俊郎,1999:理性的存在者の複数性 : カントの実践哲学は独我論的だという批判をめぐって、『メタフュシカ 30』所収、大阪大学大学院文学研究科哲学講座、1999年.
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/66616/mp_30-029.pdf
●カント道徳哲学が「独我論」的であるという「討議倫理学」からの批判に対して、『判断力批判』や『実用的見地における人間学』などのテキストに即して批判への回答を呈示する。
↓その他参考文献↓