ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【カント道徳哲学】道徳形而上学の基礎づけ|「義務」は善い行為への強制力

 

 カントの「義務」という概念は、カント道徳哲学での主要概念のひとつである。この概念は、自らの主観的原理を意味する「格率」や「汝の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるようなそうした格率に従ってのみ行為せよ」(Ⅳ,421)という「定言命法」とも深い関係がある。

 

 われわれが一般的に使用する義務という語と対比させながら、カントの「義務」概念について今回は概括的に解説する。

 

1.辞書で一般的な義務を確認するー「義務を果たす」・「納税の義務

 

 まず始めに、一般的な義務という用語を確認する。辞書からの引用によれば、われわれが日常使用する場合、この語は次のようなものになる。

 

ぎ‐む【義務】(「デジタル大事泉」より)
① 人がそれぞれの立場に応じて当然しなければならない務め。
倫理学で、人が道徳上、普遍的・必然的になすべきこと。
③ 法律によって人に課せられる拘束。法的義務はつねに権利に対応して存在する。

 

 ①について、「義務を果たす」という使用例が考えられる。また③については、「納税の義務」という例が思い付く。①や③の用例が一般的だろう。

 

 カント的には、②に近い意味であると考えられるが、そう単純にはいかない。われわれが想定するのとは少し違うニュアンスで、カントは「義務」という用語を使用する。

 

2.善い行為への強制力としての「義務」

 

 カントの使う「義務」という概念は、嫌でも行わなければならない「善い行為への強制力」を意味する。

 

 『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の中で、カントが「義務」から「命法」を導き出す箇所がある。この部分を要約すると、以下の通りである。

 

 すべての「命法」は「べし」と表現される。「命法」は必ず客観的法則によって規定されなければならない。それで強制として示される。(Ⅳ,413 要約)

 

 「命法」とは、「命令形」という文の形であると考えてよい。「客観的法則」とは簡単に言うと、「いつでも・どこでも・誰にでも」当てはまる道徳的な法則を意味する。

 

 例えば「水は100℃で沸騰する」という命題のように、科学で使われる法則は「○○である」という終止形をとる。

 

 ところで、理性的であると同時に感性的存在者として、人間をカントは捉える。道徳的行為に法則があるならば、「○○せよ」という「命令形」と採るはずである。このように、カントは考える。

 

 「理性的であると同時に感性的存在者」である人間が、常に道徳的に善い行為を選択するとは、カントも思っていない。

 

 確かに、われわれは「Aという行為は善い」と分かっていながら、つい「Bという悪い行為」を選択する場合もある。 『基礎づけ』の中でも述べられているが、完全に善である神に「命法」は強制されない。「命法」は、人間の主観的な不完全さに現れる。

 

 現実的な人間観を持つカントだからこそ、「義務」に善い行為へ導く強制力があると考えた。『基礎づけ』では、この概念が「道徳法則」や「定言命法」へと展開される。

 

 以上、カントの「義務」について解説した。さらに、カントは「義務」を「完全義務」と「不完全義務」に分ける。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 さて、カント道徳哲学はそもそも何を目的としているのか。この点については、別の稿に譲る。【終わり】

 

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