ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【要約と注釈⑮】たんなる理性の限界内の宗教|第2編(段落1~段落5)

 

[内容]

第2編 人間の支配をめぐっての善の原理による悪との戦いについて

 

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 ・段落5 要約と注釈

 文献

 

[段落1】

要約

道徳的によい人間になるには、悪の原因とも戦わなければならない。この点を、ストア派の人々は「徳」という言葉で標榜する。(Ⅵ,57)

注釈

  ストア派が言う「徳」は、「勇気」や「果敢さ」を意味する。そもそも勇気を促すことは、すでに半ば勇気を引起こすことと同じである。

 

[段落2】

要約

不注意で傾向性に欺かれる「愚かさ」に対処する「知恵」をストア派の人々は、喚起した。しかし、魂を腐敗させる原則により密かに心術を損なう「悪意」に知恵を召喚したわけではない。(Ⅵ,57)

注釈

 「愚かさ」に対処するものとしてストア派の人々は、「知恵」を喚起した。しかし、人間の心情としての悪意に対し知恵を召喚したわけではない。

 

[段落3】

要約

自然的傾向性は、「それ自体見れば善」である。幸福という名の全体の調和にもたらされるよう、傾向性を抑制すればよい。これを達成する理性は、「思慮」である。道徳的に反法則的なものだけが、それ自体悪である。このことを教える理性だけが、「知恵」という名に値する。この知恵に対し悪徳は、「愚かさ」である。(Ⅵ,58)

注釈

 自然的傾向性は、何ら非難されるものではない。単に幸福という全体の調和がもたらされるよう傾向性を、われわれが抑制すればよい。道徳的に反する法則だけが、悪である。このことを教える理性こそ、「知恵」である。

 

[段落4】

要約

義務を遵守する際の障害である傾向性が克服されなければならない以上、人間の道徳的戦いは傾向性との争いである、と「ストア学派」は考えた。傾向性と戦う上で、彼らは「怠慢」にしか違反の原因を措定できなかった。怠慢そのものが、義務に反する。原因は、選択意志を規定するもののみ求める。(Ⅵ,59)

注釈

 「ストア学派」によると、人間の道徳的戦いは傾向性との争いである。傾向性と戦う上で、彼らは「怠慢」を違反の原因であると措定した。

 

[段落5】

要約

ある使徒が「目には見えず」原則を腐敗させてしまう敵を悪「霊」として語っているのは、怪しむに足りない。「悪霊」という表現が用いられているのは、測りがたく深い概念を「実践的使用のために」直観的にしようとしてである。実践的使用のため、誘惑者を自身の中にだけ措定しようが外にも措定しようが、われわれにとって同じである。(Ⅵ,59-60)

注釈

 理性の実践的使用のため、誘惑者を自身の中にだけ措定しようが外にも措定しようが、われわれにとって同じである。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑭】たんなる理性の限界内の宗教|第1編(一般的注解)(段落5~段落8)

 

[内容]

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
   について、あるいは人間の本性のうちな
   る根源悪について

 

一般的注解 善への根源的素質が力を回復することについて

 ・段落5 要約と注釈

 ・段落6 要約と注釈

 ・段落7 要約と注釈

 ・段落8 要約と注釈

 文献

 

[段落5】

要約

人間の道徳的形成は、考え方の転機と性格の確立から始まらなければならない。どんなに偏狭な人間でも、義務に適った行為への尊敬を感じとれる。よい人間の「規範」そのものを挙げて、道徳上の弟子たちにいくつか格率の不純さを行為の現実的な動機に基づいて判定させることで、善へのこの素質は比類なく教化され徐々に考え方に浸透していく。その結果「義務」は単に義務というだけで、心情の中で著しい重みを持ち始める。(Ⅵ,48-49)

注釈

 人間の道徳的形成は、考え方の転機と性格の確立から始まる。よい人間の「規範」を挙げて弟子たちにいくつか格率の不純さを現実的な動機に基づいて判定させることで、善への素質は教化される。その結果、「義務」は心情の中で重みを持ち始める。

 

[段落6]

要約

われわれの魂には、ひとつのものがある。それを熟視するならば、われわれはそれをこの上ない驚嘆の念で見ずにいられない。この場合、賛嘆は正当であると同時に魂を崇高にもする。それは、われわれの中にある根源的な道徳的素質一般である。(Ⅵ,49-50)

注釈

  魂を熟視するならば、われわれはこれを驚嘆の念で見ずにいられない。賛嘆は、正当であると同時に魂も崇高にもする。驚嘆の念が、われわれの中にある根源的な道徳的素質である。

 

[段落7]

要約

自分の力で回復することに一切の善に対し、人間は生得的に腐敗しているという命題が対立するのではないか。先の命題は、このような回復の可能性そのものに対立しているわけではない。われわれは今よりよい人間になる「べき」だと道徳法則が命令するのであれば、それが「でき」もしなくてはならないことが不可避的に帰結する。悪が生得的だという命題が、道徳的「教義学」で用いられることはない。一方、道徳的「修徳論」ではこの命題はそれ以上のことを言う。それでも、善への天賦の道徳的素質に反して「格率」を採用するという「選択意志」の邪悪さの前提されなくてはならないし絶えず抵抗しなくてはならない。これは、悪い人間の心術からよりよいものへと無限を志していく前進ということにしか至らない。そこから結果として、悪い人間の心術からよい人間の心術への転換は「格率」すべてを「道徳法則」に適うよう採用する際の最上の内的根拠の変化の中に措定されなければならない。しかし人間は自然のままでは直接的な意識によっても、これまでその人が送ってきた生き方という根拠によってもこの確信には到達できない。しかしながら、その人も根本的によりよくなった心術がそこに至る道を示してくれるならば、その道に「自分の力」で到達するという「希望」を持てるはずである。(Ⅵ,50-51)

注釈

 善への道徳的素質に反して「格率」を採用するという「選択意志」の邪悪さに、絶えずわれわれは抵抗しなくてはならない。悪い心術からよい人間の心術への転換は、「格率」すべてを「道徳法則」に適うよう採用する際の最上の内的根拠の変化の中に、措定されなければならない。根本的によりよくなった心術がそこに至る道を示してくれるならば、その道に「自分の力」で到達するという「希望」を人間は持てる。

 

[段落8]

要約

元来、理性は道徳の取扱いに乗り気でない。自己改善という要求に自然的な無能力を口実に、あらゆる不純な宗教理念を理性は動員してくる。宗教すべては「恩寵請願」宗教と「よい生き方」の宗教に区分できる。「恩寵請願」宗教では、神が永遠に幸福にして下さることができるのは確実だといい気になる。または、よりよい人間になれるよう「請い」さえすれば、私は何もせずとも「神が」私を「よりよい人間にして下さることができる」のは確実だといい気になる。この2つの内いずれかである。しかし、「請う」ということはすべて見ている存在者の前で「願う」ことに他ならない。請うたところで本来何もなされてはいない。ただし、道徳的宗教での原則はよりよい人間になるために、誰もが力を尽くさなくてはならない。よりよい人間になろうと善への本来の素質を活用してきた場合にだけ、能力の及ばないことは一層高次の協力により補われるだろう、とその人は希望してよい。(Ⅵ,51-52)

注釈

 宗教は、「恩寵請願」宗教と「よい生き方」の宗教に区分できる。両者に共通する点は、「請う」ということを存在者の前で「願う」と理解されることである。一方、道徳的宗教での原則は、よりよい人間になるために誰もが力を尽くすことである。よりよい人間になろうと善への本来の素質を活用してきた場合、能力の及ばないことは、一層高次の協力により補われることをその人は希望してよい。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑬】たんなる理性の限界内の宗教|第1編(一般的注解)(段落1~段落4)

 

[内容]

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
   について、あるいは人間の本性のうちな
   る根源悪について

 

一般的注解 善への根源的素質が力を回復することについて

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

善にせよ悪にせよ、人間はそれに「自分自身で」なるに違いない。善も悪も、自由な「選択意志」の結果でなければならない。人間は善に創造されていると言われるのは、人間は「善に」向かうよう作られており、その内なる根源的「素質」は善であること以上の意味であり得ない。素質に含まれる動機を「格率」の中に採用するか否かに応じて、人間は自分で善か悪かになるようにしていく。善になるためにせよ、人間はその積極的助力を「受け入れ」なくてはならない。(Ⅵ,44)

注釈

 人間は、「自分自身で」善にも悪にもなる。人間は善になるよう「創造されている」内なる根源的「素質」は、善である以上の意味ではあり得ない。その「素質」に含まれる動機を、格率の中に採用するかどうかによって、人間は善にも悪にもになる。善になるためにせよ、人間はその積極的助力を「受け入れ」なくてはならない。

 

[段落2]

要約

自然的に悪い人間がよい人間になることがどのように可能なのかは、われわれの概念を超える。善から悪への頽落は悪から善への復帰よりも理解しやすいわけではない。復帰の可能性は反駁され得ない。この離反に関わらず、よりよい人間になる「べし」という命令は以前にもましてわれわれの魂に響き渡る。そこで究めがたい、より高次の助力をわれわれは受け取れるようになるに違いない。(Ⅵ,44-45)

注釈

 そもそも悪い人間がよい人間になることが、どのように可能か。この問題はわれわれの概念を超える。よりよい人間になる「べし」という命令は、以前より増してわれわれの魂に響き渡る。そこで究め難い、より高次の助力をわれわれは受け取れるようになる。

 

[段落3]

要約

内なる善への根源的素質を回復することは、善への「失われた」動機の獲得ではない。回復とは、われわれすべての格率の最上根拠として「道徳法則」の純粋さを取り戻すことである。根源的善は、「義務」を遵守するに際して義務から「格率の聖性」である。「義務」を遵守する堅固な意図は、「徳」とも呼ばれる。それは、「経験的性格」としての適法性についてである。必ずしも「心情の変化」は、必要ではない。必要なのは、「道徳的慣習」の変化である。人間が自ら有徳だと思うのは、「義務」を遵守するという「格率」で自分が堅固だと感じるときである。このような人間は、何かを「義務」として認識すると、「義務」そのものの表象以外、他の動機を必要としない。「格率」の基礎が不純なままである以上、そのようになることは人間の心術の「革命」によって引き起こされなければならない。(Ⅵ,46-47)

注釈

  「義務」を遵守する堅固な意図は、「徳」とも呼ぶ。「経験的性格」としての適法性について、必要なことは心情ではなく「道徳的慣習」の変化である。人間が自らを「有徳である」と思うのは、「義務を遵守する」ときは「格率」によって自分が堅固だと感じるときである。何かを「義務」として認識すると、このような人間は他の動機を必要としない。

 

[段落4]

要約

人間が「格率」の根本から腐敗しているならば、自力でこの革命を成就して自らよい人間になることはどのようにして可能か。「義務」は、そうなるよう命じる。これはわれわれになし得ることしか命じない。革命と暫時的改革が、人間にも可能でなくてはならないという方法以外にない。人は「格率」の最上根拠によって、悪い人間であった。それを無比の揺らぎなき決意によって逆転させるならば、人は善を受け入れる主体となる。「選択意志」の「最上格率」として取り入れた原理が純粋なことによって、悪いものからよりよいものに向かって絶えず「前進する」ような善の道にあるという希望をその人は持てるようになる。(Ⅵ,47-48)

注釈

  「格率」が根本から腐敗しているならば、「義務」は「自力で自らよい人間になる」ことを命じる。悪い人間であるにも関わらず、「よい人間になる」という揺るぎない決意によって自分自身を好転させるならば、人は善を受け入れる主体となる。「選択意志」の「最上格率」として採用した「道徳法則」が純粋であることによって、悪いものからよりよいものに向かって絶えず「前進する」善の道にあるという希望をその人は持てるようになる。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑫】たんなる理性の限界内の宗教|第1編 (Ⅳ) (段落1~段落5)

 

[内容]

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
   について、あるいは人間の本性のうちな
   る根源悪について

 

Ⅳ 人間本性における悪の起源について

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 ・段落5 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

起源とは、ある結果が第1原因に由来することである。それは、「理性起源」か「時間起源」として考察される。「理性起源」という意味で、結果の「現存在」だけが観察される。「時間起源」という意味では、結果の「生起」が観察される。事象としての結果は「時間内の原因」に関係づけられる。道徳的悪の場合のように、結果が原因に関係づけられるならば、結果を算出する選択意志を規定することは理性表象での規定根拠とだけ結びつく。悪い行為が世界での「事象」として自然的原因に関係づけられる場合、この先行状態からの導出がなされなくてはならない。自由な行為そのものに、「時間起源」を求めるのは矛盾である。人間の道徳的性質についても、同様である。(Ⅵ,39-40)

注釈

 起源は、ある結果の第1原因に由来する。起源は「理性起源」か「時間起源」である。「理性起源」という意味で、結果の「現存在」が観察される。「時間起源」という意味で、結果の「生起」が観察される。結果が原因に関係づけられるならば、結果を算出する「選択意志」を規定することは理性表象での規定根拠と結びつく。人間の道徳的性質も同様、自由な行為そのものに「時間起源」を求めることは矛盾である。

 

[段落2]

要約

悪は最初、両親から「遺伝」によりわれわれのところに来たと表象することほど、不適切なものはない。(Ⅵ,40)

注釈

  両親の「遺伝」から来たと悪を表象するのは、不適切である。

 

[段落3]

要約

行為は「選択意志」の「根源的」使用だと判定できるしそう判定されなくてはならない。人間が自由に行為する存在者でなくなることは、あり得ない。自由だが法則に反する行為に起因する「結果」についても、人間には責任を帰す。しかし、誰かがすぐ間近に迫っている自由な行為に至るまでよりよくなろうとすることは「今」でもその人の「義務」である。行為の瞬間に、引責能力があって引責に服す。(Ⅵ,41)

注釈

  人間が自由に行為する存在者でなくなることはあり得ない。自由だが法則に反する行為に起因する「結果」についても人間には責任を帰す。間近に迫る自由な行為に至るまで、よりよくなろうとすることはその人の「義務」である。

 

[段落4]

要約

悪へのどんな性癖も生じる前の人間の状態は、「無垢」の状態である。人間は、「傾向性」に誘惑される存在者である。そうならざるを得ないよう、「道徳法則」はまず「禁止」として出てきた。人間はこの法則以外の制約された仕方でしか、善ではあり得ないような動機を探し求めた。行為が意識的に自由に源を発すると考えられる場合に、他の意図を顧慮するが故に法則にも従うことを「格率」とした。まず他のどんな動機も排除する命令の厳格さを疑い始め、次いで命令の服従を理屈をつけて引き下ろし始めた。そこから法則に基づく動機を凌ぐ感性的衝動の優位が、行為の「格率」に採用され罪が犯された。(Ⅵ,41-42)

注釈

  人間は「傾向性」に誘惑される存在である。そうならないよう「道徳法則」は「禁止」としてまず出てきた。しかし他のどんな動機も排除する道徳法則の「命令の厳格さ」を疑い始め、次に「命令の服従」を理屈をつけて引き下ろし始めた。そこから「道徳法則」に基づく動機を凌ぐ感性的衝動の優位が行為の「格率」に採用され罪が犯された。

 

[段落5]

要約

従属的な動機を最上の動機として格率に採用する仕方に関して、「選択意志」を狂わせてしまう理性起源は極めがたい。悪は道徳的悪のみ源を発し得た。根源的素質は、善への素質である。道徳的悪が最初にどこからわれわれの中に入り込めるかについて理解する根拠は、われわれにない。(Ⅵ,43-44)

注釈

  悪は道徳的悪のみ端を発した。根源的素質は善への素質である。道徳的悪が最初にどこからわれわれの中に入り込めるかについて理解する根拠は、われわれにない。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑪】たんなる理性の限界内の宗教|第1編 (Ⅲ) (段落6~段落10)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
   について、あるいは人間の本性のうちな
   る根源悪について

 

Ⅲ 人間は生来悪である

 ・段落6 要約と注釈

 ・段落7 要約と注釈

 ・段落8 要約と注釈

 ・段落9 要約と注釈

 ・段落10 要約と注釈

 文献

 

[段落6]

要約

「格率」一般の統一で、「道徳法則」に固有のものを理性は必要とする。「傾向性」の動機には、幸福以外に「格率」の統一はあり得ない。この場合、経験的性格は善であるにしても英知的性格は悪である。(Ⅵ,36ー37)

注釈

  「傾向性」とは「習慣的な感性的欲望」である。その動機には「幸福」以外に「格率」の統一はあり得ない。ただし、ここでの「幸福」は自らの安寧なども含まれる。例えば「嘘も方便」のような「格率」も成立し得る。この場合、経験的側面では善になるとしても英知的側面では悪になる。

 

[段落7]

要約

転倒への性癖が人間本性にあることは、悪への自然的性癖が人間にあるということである。最終的に自由な「選択意志」内に求められなくてはならないので、この性癖は道徳的に悪である。この悪は、「根源的」であり人間の力で「根絶する」こともできない。これは自由に行為する存在者として人間の中に見出されるので、これに「打ち勝つこと」は可能でなければならない。(Ⅵ,37)

注釈

  ここでの「転倒」は「道理に背く考え」である。カントによれば、この性癖は人間に存在する。自由な「選択意志」の中に求められなくてはならないので、この性癖は道徳的に悪である。自由に行為する存在者として人間の中に見出されるので、この性癖に「打ち勝つこと」は可能でなければならない。

 

[段落8]

要約

「悪意」は「悪なるが故に」悪を動機として、「格率」の中に採用する心術である。人間本性の邪悪さは心情の「倒錯」と呼ばれなければならない。悪い心情は、善である意志と共存し得る。悪い心情は、人間本性の脆さからくる。悪徳が不在ならば、「心術」は「義務の法則」に適っているというように解釈する考え方それ自身、人間の心情での根本的な倒錯と呼ばれなければならない。(Ⅵ,37)

注釈

 「悪意」は悪を動機として格率の中に採用する心術である。悪い心情は善である意志と共存できる。人間の中に悪徳が存在しないならば、「心術」は「義務の法則」に適っていると解釈する考え方それ自体、人間の心情での根本的な「倒錯」と呼ばなければならない。

 

[段落9]

要約

「生得的」な罪責と呼ばれる理由は、自由の使用が人間の幼少期に表出してくると同じく自由から発していなければならない。責任を帰すものだからといって、最初の2段階[脆さと不純さ]では無作為の罪責であると判断できる。第3段階では、故意の罪責だと判断できる。行為が引起こした悪を結果的に生じさえしなければ、奸悪は法則に照らして自分は正当だと思う。多くの人々の良心の安らぎは、ここから来る。法則を最優先しなかった行為のただ中にあっても悪い結果を免れさえすれば、他人が犯している過ちに自分は負い目を感じないで済む。その功績を誇るうぬぼれはここから来る。この不誠実さは、真性の道徳的心術がわれわれの中に根付くのを妨げる。これは、外的にも拡大し他人への不信や欺きとなる。卑劣という名に値するこの不誠実は、人間本性の根源悪を含む。この悪は、人類の腐った汚点となる。(Ⅵ,38)

注釈

  結果的に悪である行為を引き起こさなければ、「奸悪」は法則に照らして自分は正当だと思う人々は存在する。「道徳法則」を最優先しなくても悪い結果を免れさえすれば、他人が犯している過ちに自分は負い目を感じなくて済む。カントはこのような「心術」を「不誠実さ」と呼ぶ。この「不誠実さ」が真性の道徳的心術をわれわれの中に根付かせることを妨げる。この不誠実さをカントは「卑劣という名に値する」と表現する。彼によれば、この悪は人類の腐った汚点である。

 

[段落10]

要約

イギリス議会の議員が「どんな人間にも自分を売飛ばすのに見合った価格がある」と、気炎を吐いた。これが真ならば、徳を破壊するだけのどんな度合いの誘惑も人間について普遍的に真だということになる。(Ⅵ,38ー39)

注釈

  「どんな人間にも自分を売飛ばすのに見合った価格がある」ことが真であるならば、徳を破壊するだけのどんな度合いの誘惑も人間について普遍的に真だということになる。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑩】たんなる理性の限界内の宗教|第1編 (Ⅲ) (段落1~段落5)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
   について、あるいは人間の本性のうちな
   る根源悪について

 

Ⅲ 人間は生来悪である

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 ・段落5 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

人間は「悪」だという命題が言わんとしていることは、人間は「道徳法則」を意識していながら「道徳法則」からの逸脱を「格率」の中に採用していることである。人間は「生来」悪であるということは類として見られた人間について言われるほどの意味である。経験を通して知られる人間のあり方から、そのような質がどんなによい人間の中にも前提できるという意味である。この性癖そのものは、道徳的に悪であると見なされなければならない。これは「選択意志」の反法則的な「格率」に存するのでなければならない。「格率」はそれだけ見れば、自由の故に偶然的であると見なさなければならない。「格率」すべての主観的な最上根拠が人間性そのものに織り込まれていなければ、悪の普遍性とつじつまが合わなくなる。あらゆる「格率」の主観的な最上根拠は悪への本性的性癖と呼べる。この性癖は、人間本性の内なる生得的な「根源悪」である。(Ⅵ,32)

注釈

 人間は「道徳法則」を意識していながら、その逸脱を「格率」の中に採用する。経験を通して知られる人間のあり方から、その逸脱はどんなによい人間にも前提できる。これは「選択意志」の反法則的な「格率」に存しなければならない。「格率」の主観的な最上根拠である悪への本性的性癖を人間本性の内なる生得的な「根源悪」と呼ぶ。

 

[段落2]

要約

人間本性の自然的善良さがそこに見出されるという仮説と突合わせてみれば、そのような意見と袂を分つのに粗野な悪徳が見られる。これを考察すれば、「国家」という名の社会の原則に廃棄できない原則に気づく。こうした原則を道徳との一致にもたらすことは、いかなる哲学者でもできなかった。その結果、「哲学的千年至福説」は空想だと嘲笑される。(Ⅵ,32ー34)

注釈

  「人間本性の自然的善良さがそこに見出される」という仮説を考察すれば、「国家」という社会で廃棄できない原則に気づく。こうした原則を道徳との一致にもたらすことは、どんな哲学者もできなかった。

 

[段落3]

要約

悪の根拠を①人間の「感性」に、そこに源を発する自然的傾向性に措定できない。自然的傾向性の現存在に責任を負う必要は、われわれにない。この悪の根拠は②道徳的=立法的理性の「腐敗」にも、措定できない。自分が自由に行為する存在者でありこの存在者の適した法則を免れていると考えるのは、法則がなくても作用する原因を考えるに等しい。しかしこれは自己矛盾である。(Ⅵ,34ー35)

注釈

  悪の根拠を、人間の「感性」や道徳的=立法的理性の「腐敗」にも措定できない。自由に行為する存在者としての私に適した法則を免れていると考えるのは、法則がなくても作用する原因を考えることと等しい。しかしこれは自己矛盾である。

 

[段落4]

要約

人間の「選択意志」による法則への反抗を経験的に証明することで、人間本性内での悪への性癖の現存在は立証できる。しかしこのような証明はこの性癖本来の性質や反抗の根拠を教えてはくれない。本来の性質は、自由な「選択意志」の動機としての道徳法則に関わる。自由の法則によって可能な限りでの悪の概念に基づいて、本来の性質はア・プリオリに認識されなくてはならない。(Ⅵ,35)

注釈

  人間の選択意志による法則への反抗を経験的に証明することは、悪への性癖本来の性質や反抗の根拠を示せない。自由の法則によって可能な限りでの悪の概念に基づいて、本来の性質はア・プリオリに認識されなくてはならない。

 

[段落5]

要約

人間は反逆的に「道徳法則」を放棄することはない。しかし人間は感性の動機にもつながっている。それらの動機も「格率」の中に人間は採用する。しかしそれらの動機を「それだけで」選択意志を規定するのに「十分なもの」として、「格率」の中に採用してしまって「道徳法則」の方に自己を向けないとすれば、人間は道徳的に悪だということになる。どちらの動機も彼は「格率の」中に採用する。動機を与えるのが法則か感官刺激かの違いにのみ依存しているならば、人間は道徳的に善であり悪である。これは自己矛盾である。人間が善なのか悪なのかの違いは「両方の動機のどちらかを他方の制約にするかの従属関係」にある。(Ⅵ,36)

注釈

 人間は、感性の動機にもつながっている。それらの動機も、「格率」の中で人間は採用する。しかし「道徳法則」に自己を向けないとすれば、人間は単に道徳的に悪だということになる。どちらの動機も彼は「格率」の中に採用する。人間が善なのか悪なのかの違いは「両方の動機のどちらかを他方の制約にするかの従属関係」にある。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑨】たんなる理性の限界内の宗教|第1編 (Ⅱ) (段落5~段落8)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
   について、あるいは人間の本性のうちな
   る根源悪について

 

Ⅱ 人間本性のうちなる悪への性癖について

 ・段落5 要約と注釈

 ・段落6 要約と注釈

 ・段落7 要約と注釈

 ・段落8 要約と注釈

文献

 

[段落5]

要約

人間の心情の邪悪さは、「選択意志」の性癖である。これは、「道徳法則」に基づく動機を他の動機より軽視する「格率」に向かう。(Ⅵ,30)

注釈

  悪い心情の異なる3段階の3つ目である、人間の心情の「邪悪さ」について。人間の心情の「邪悪さ」は、「道徳法則」に基づく動機を他の動機より軽視する「格率」に向かわせる。

 

[段落6]

要約

悪への性癖は、どんなによい人間にも配されている。人間にとって普遍的なことが証明されることになれば、その性癖はこのようになさざるを得ない。(Ⅵ,30)

注釈

 悪への性癖は、どんなによい人間にも存在する。人間にとってこのことが普遍的であると証明できれば、その性癖はこのようになさざるを得ない。

 

[段落7]

要約

ただ行儀よい人間の場合、常に「道徳法則」が、行為の唯一最上の動機となるとは限らない。一方、道徳的によい人間の場合、「どんなときでも」道徳法則が、行為の唯一最上の動機となる。行儀のよい人間については、法則の「文字」を遵守する。一方、道徳的によい人間については、法則の「精神」を遵守する。そもそも「法則に適った」行為へと「選択意志」を規定するのに、法則そのもの以外の動機が必要ならば、行為が法則と一致するのは偶然に過ぎない。(Ⅵ,30ー31)

注釈

 「行儀のよい人間」は、道徳法則の「文字」を遵守する。一方、「道徳的によい人間」は、道徳法則の「精神」を遵守する。「道徳的によい人間」にとって、「どんなときでも」道徳法則は、行為の唯一最上の動機となる。一方、「行儀よい人間」にとって、「道徳法則」は常に行為の唯一最上の動機となるとは限らない。「法則に適った」行為へと「選択意志」を規定するとき、「道徳法則」それ以外の動機が必要であるならば、行為が「道徳法則」と一致することは偶然的でしかなくなる。

 

[段落8]

要約

性癖という概念を規定するには、次の説明が必要である。性癖は、すべて自然的であるか道徳的であるかである。悪への性癖は、「選択意志」の道徳的能力にのみまつわりつく。われわれ自身の「行い」以外に、人倫的な悪は何ひとつない。一方、性癖の概念は、それ自身未だ「行い」となっていないような「選択意志」の主観的根拠である。そうすると、悪への単なる性癖という概念には矛盾がある。われわれ自身の「行い」以外に、人倫的な悪は何ひとつない。一方、性癖の概念はそれ自身未だ行いとなっていないような選択意志の主観的根拠である。そうすると、悪への単なる性癖という概念には矛盾がある。第1の罪責は、英知的行いである。それは、どんな時間制約もなく理性によってのみ認識する。第2の罪責は、可感的・経験的であって時間の中に与えられる。第1の罪責は、単なる性癖と言われ生得的である。この性癖は、根絶できない。悪はわれわれ自身の行いであるのに、なぜ他ならぬ最上格率を腐敗させてしまったかについて原因を挙げることはできない。(Ⅵ,31ー32)

注釈

  性癖は、「自然的」であるか「道徳的」であるかである。われわれ自身の「行い」以外に、人倫的な悪は存在しない。一方、性癖の概念それ自身、未だ「行い」となっていない「選択意志」の主観的根拠である。そうすると、悪への単なる性癖という概念に矛盾が生じる。第1の罪責は、英知的行いである。第2の罪責は、可感的・経験的である。それは、時間の中で与えられる。第1の罪責は単なる性癖と言われ、生得的である。この性癖は根絶できない。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑧】たんなる理性の限界内の宗教|第1編 (Ⅱ) (段落1~段落4)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
   について、あるいは人間の本性のうちな
   る根源悪について

 

Ⅱ 人間本性のうちなる悪への性癖について

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 

文献

 

[段落1]

要約

「性癖」とは、人間性一般にとって偶然的な限り「傾向性」が可能であるための主観的根拠である。ここで問題となるのは、道徳的悪への性癖だけである。道徳的悪は、自由な「選択意志」の規定としてのみ可能である。その意志の善悪が判定されるのは、「格率」によってのみである。これが「道徳法則」から逸脱する可能性の主観的根拠の中で、道徳的悪であるに違いない。この性癖が人間に普遍的に属するものだという仮定が許されるならば、道徳的悪は悪への「自然的」性癖と名づけられる。(Ⅵ,28ー29)

注釈

 「性癖」とは、人間にとって「傾向性」が可能であるための主観的根拠である。ここでの問題は、道徳的悪への性癖である。「選択意志」の善悪は、「格率」によって判断される。「格率」が「道徳法則」から逸脱する主観的根拠の中に、道徳的悪は存在する。「性癖」が人間に普遍的に属するものならば、道徳的悪は悪への「自然的」性癖と名づけられる。

 

[段落2]

要約

悪い心情には、異なる段階が3つある。第1は、採用した「格率」一般を遵守する際の人間本性の「脆さ」である。第2は、心情の「不純さ」である。第3は、人間の心情の「邪悪さ」である。(Ⅵ,29)

注釈

  悪い心情には、採用した「格率」一般を遵守する際の①人間本性の「脆さ」②心情の「不純さ」そして③人間の心情の「邪悪さ」という異なる3段階がある。

 

[段落3]

要約

人間本性の脆さは、善を自分の「選択意志」の「格率」として採用する。一方、善は客観的には無敵の動機であるのに主観的には「格率」が遵守されるべき場合、より弱い動機となる嘆きである。(Ⅵ,29)

注釈

  悪い心情の異なる3段階の1つ目である人間本性の「脆さ」について。善は客観的には無敵の動機である一方、主観的に「格率」が遵守されるべき場合、より弱い動機となる。この嘆きが、人間本性の「脆さ」である。

 

[段落4]

要約

客体に関して、「格率」は善である。しかし、「格率」は純粋に道徳的ではない。法則だけを十分な動機としてわれわれは自ら採用したのではない。「義務」に適った行為が、必ずしも純粋に義務に基づいてなされるわけではない。(Ⅵ,30)

注釈

  悪い心情の異なる3段階の2つ目である人間の心情の「不純さ」について。「格率」は、純粋に道徳的ではない。なぜなら、「義務」に適った行為が必ずしも純粋に「義務」に基づいてなされるわけではないからである。【続く】

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑦】たんなる理性の限界内の宗教|第1編 (Ⅰ) (段落1~段落5)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容】

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むことについて、あるいは人間の本性の
  うちなる根源悪について

 

Ⅰ 人間本性のうちなる善への根源的素質について

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 ・段落5 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

 この素質は人間の規定要素として3階級に分けられる。
① 「生けるもの」としての人間の「動物性」の素質
② 生けるものであると同時に「理性的なもの」としての人間の「人間性」の素質
③ 理性的であると同時に「引責能力ある」存在者としての人間の「人格性」の素質(Ⅵ,26)

注釈

(原注より)
 ある存在者に理性があるからといって、それ自身で実践的である能力を含むことにはならない。どんな理性的存在者でも、「傾向性」の客体に由来するある種の動機を常に必要とする。だからといって端的に命令する「道徳法則」について、この可能性さえ理性的存在者は予感しない。この法則はわれわれの選択意志のどんな動機による規定からも、独立することをわれわれに意識させる。同時に、この法則は行為すべてに「引責能力」があることもわれわれに意識させる唯一のものである。

 

[段落2]

要約

 人間における「動物性」の素質は自然的で「機械的」な自己愛という一般的項目に入れられる。これには3つある。
① 自己保存のための素質
② 生殖行動により種を繁殖させ生まれてくるものを保存しようとする素質
③ 社会性への「衝動」(Ⅵ,26ー27)

注釈

 この段落は[段落1]の①についてのカントによる解説である。人間における「動物性」の素質について、上記3つをカントは「粗野の悪徳」と呼ぶ。具体的に上記3つは「暴飲暴食」、「淫蕩」そして「野性的無法」のような「獣的悪徳」である。

 

[段落3]

要約

 「人間性」のための素質は、他人と比較することでのみ自分の幸・不幸を判定する自己愛である。この自己愛からくるのが、「他人の意見に自分の価値を与えようとする」傾向性である。これは「平等」という価値を与えようとして自分への優越を誰にも認めない傾向性である。自分への優位を他人が獲得したがっているかもしれないという懸念が、絶えず結び付く。ここから他人への優越を得ようとする不当な欲望が、次第に生じる。(Ⅵ,26ー27)

注釈

 この段落は[段落1]の②についてのカントによる解説である。「人間性」のための素質は端的には「自己愛」である。ここで言う「自己愛」は、「他人の意見に自分の価値を与えようとする」という「傾向性」である。具体的には、それは「嫉妬」や「競争心」などである。この邪悪さの度合いが高まると、「他人の不幸を喜ぶ気持ち」など「悪魔的悪徳」になり得る。

 

[段落4]

要約

 人格性のための素質は、「道徳法則」への「それだけで選択意志の十分な動機である」尊敬の感受性である。「選択意志」の動機である限りでのみ、われわれの内なる「道徳法則」への単なる尊敬の感受性はそのような目的を成す。(Ⅵ,27ー28)

注釈

 この段落は、[段落1]の③についてのカントによる解説である。「人格性」のための素質は、「道徳法則」への「尊敬」の感受性である。「道徳法則」への「尊敬」が選択意志の動機である限り、この感受性はわれわれの「人格性」のための素質になり得る。

  

[段落5]

要約

 第1の素質の根に、理性はない。第2の素質は、実践的だが他の動機にしか仕えることができない理性をその根としている。それ自身で実践的な無制約に立法する理性が、第3の素質にだけその根にある。人間について、これら3つの素質はすべて単に「よい」だけでなく、「善への」素質でもある。

注釈

 この段落は、[段落1]全体についてのカントによる見解である。人間における「動物性」の素質に理性はない。「人間性」のための素質は、「他の動機」すなわち「自己愛」という「傾向性」にしか仕えることができない。「人格性」のための素質には、「それ自身で実践的な無制約に立法する理性」が存在する。カントによれば、これら3つの素質は人間的本性の可能性に属す。特に「動物性」の素質と「人間性」のための素質は、根絶できない。ここで問題となるのは、「欲求能力」と「選択意志」の使用に直接関係する素質である。

  

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈⑥】たんなる理性の限界内の宗教|第1編 注解(段落1~段落5)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
   について、あるいは人間の本性のうちな
   る根源悪について

 

注解

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 ・段落5 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

先に、2つの仮説を立てた。それら相互の争いの根底に、ひとつの選言的命題がある。それは、「人間は人倫的に善か悪か、そのいずれかである」ということである。このような選言的対立を立てることは、果たして正しいことか。経験が確証するのは、両極端の中間項ですらあり得る。(Ⅵ,22)

注釈

 先の仮説とは、次の2つである。すなわち、①「道徳的悪への頽落はより邪悪なものへと急ぎ、加速度的に転落していく」という世界の見方と、②「世界は稚拙なものからよりよきへと絶えず進んでいる」という世界の見方である。その根底の中のひとつに、「人間は人倫的に善か悪か、そのいずれかである」という選言的命題がある。しかし「経験が確証するの」は、どちらでもない「両極端の中間項」も考えられる。

 

[段落2]

要約

行為についても人間の性格についても道徳的中間をできるだけ認めないようにするのは、道徳的一般にとって極めて重要である。厳しい考え方を愛好する人々は、「厳格派」と呼ばれる。反対の考え方は、「寛容派」と呼べる。後者は、中間の寛容派で「無関心主義者」か「折衷派」と呼ばれる。(Ⅵ,22ー23)

注釈

 道徳的中間をできるだけ認めないことは、道徳的一般にとって極めて重要である。厳しい考え方を好む人々は、「厳格派」である。一方、その反対は「寛容派」である。後者は、「中間の寛容派」である。それは、「無関心主義者」か「折衷派」と呼ばれる。

 

[段落3]

要約

「選択意志」の自由は、どんな動機によっても行為へと規定できない。「ただ人間が動機を自らの格率に採用した限りでのみ」規定できるという性質が、自由にはある。このようにしてのみ動機は、「選択意志」の絶対的自発性と共存できる。理性の判断について、法則それだけが動機である。この法則を「格率」とする人が、「道徳的」に善である。(Ⅵ,23ー24)

注釈

 善か悪かを選択する意志の自由は、どんな欲求の主観的根拠も行為へと規定できない。単に「人間が」主観的根拠である「動機」を「自らの格率に採用した」場合のみ規定できる性質が、自由にはある。ここで、「動機は選択意志の絶対的自発性と共存できる」。理性の判断によれば、「道徳法則」それ自体が「動機」となる。「道徳法則」を「格率」として採用する人は、「道徳的」に善である。

 

[段落4]

要約

人間が、人倫的に善であると同時に悪だということはあり得ない。ある点で善だとすれば、その人は「道徳法則」を「格率」に採用する。他の点でその人が同時に悪だということになれば、この法則は「義務」一般の遵守にとって唯一の法則であり普遍的である。それに関係づけられた「格率」は、普遍的であると同時に特殊な「格率」であることになる。これは矛盾である。(Ⅵ,24)

注釈

 人間が「人倫的に善」であり、「悪だということ」はあり得ない。善であるとすれば、その人は「道徳法則を格率」に採用した人である。一方その人が同時に悪であるとすれば、「関係づけられた格率」は「普遍的」あり「同時に特殊な格率」となる。このことは矛盾である。

 

[段落5]

要約

心術がよいか悪いかを生得的な性質として生まれつき持つということは、その心術を中に抱く人間がそれを獲得したのではない。心術とは、「格率」を採用する最初の主観的根拠である。それはただひとつであり、自由の使用全体に普遍的に及ぶ。心術そのものは自由な「選択意志」を通して採用されなくてはならない。この採用の主観的根拠あるいは原因は、認識できない。心術は、「選択意志」に生来備わっている性質である。われわれは、人間が生来善なのか悪なのかを語る。われわれには類全体という意味でしかそれを語る機能がないことは、後でないと証明できない。(Ⅵ,25)

注釈

「心術がよいか悪いかを生得的な性質として生まれつき持つ」と考えることは、時間の中で人間が「その心術を中に抱」いたのではない。心術は、「格率を採用する最初の主観的根拠」である。それは、「自由の使用全体に普遍的に及ぶ」。心術それ自体は、「自由な選択意志を通して採用」される。「この採用の」主観的な根拠や「原因」は、われわれに「認識できない」。心術は、「選択意志」に備わる性質である。ただし、われわれにとって「類全体という意味で」それを語ることは「後でないと証明できない」。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。