ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【要約と注釈⑤】たんなる理性の限界内の宗教|第1編(段落1~段落5)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第1編 悪の原理が善の原理とならび住むこと
   について、あるいは人間の本性のうちな
   る根源悪について

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 ・段落5 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

 「この世は邪悪だ」というのは、歴史始まって以来の嘆きである。(Ⅵ,19)

注釈

 「この世は邪悪だ」の表現は、『ヨハネの手紙(1)』より。

 

[段落2]

要約

世界は、稚拙なものからよりよいものへと絶えず進む。少なくともその素質は、人間本性に見られる見解である。しかし「道徳的な」善・悪が問題であれば、哲学者や教育学者もこの見解を経験から汲み上げたわけではない。その上、人間は生まれつき健康であると想定しなければならない。人間の魂も、生まれつき善良であると想定した根拠はない。(Ⅵ,19-20)

注釈

 世界は、未熟なものからよりよいものに発展する。このことは、能力など人間の素質も同様である。哲学者や教育学者のこの立場は、経験的な見解である。一方、道徳的な善悪の問題は、経験を根拠としない。人間は健康的に生まれてくると、「想定」しなければならない。この「想定」と同様に、人間の魂も生まれつき善良であると想定しなければならない。しかし、その根拠はない。

 

[段落3]

要約

ある人が「悪人である」と言われるのは、彼が悪であるような行為をなすからではない。行為が、彼の中に悪い「格率」を推測させる性質があるからである。確かに法則に反する行為は経験により認められる。一方、「格率」は観察できない。実行者が、「悪人である」という判断は経験に基づかない。意識的になされた悪い行為から根底にある悪い「格率」がア・プリオリに推測されなくてはならない。(Ⅵ,20)

注釈

「悪人である」と言われるのは、その人の行為の中に悪い「格率」を推測させる性質があるからである。ある人を「悪である」と呼ぶには、意識的になされた行為の根底にある悪い「格率」が、ア・プリオリに推測されなくてはならない。

 

[段落4]

要約

「本性」という表現は「自由」に基づく行為の根拠の反対を意味するならば、「道徳的に」善や悪という述語と矛盾する。人間本性とは、自ら自由の使用一般への主観的根拠のことである。この根拠は、感覚によって捉えられる行いすべてに先立つ。この主観的根拠そのものも、常に自由の作用でなければならない。「傾向性」を通じて「選択意志」を「規定する」客体や自然衝動などに悪の根拠が含まれることは、あり得ない。むしろそれは「格率」にのみ含まれる。(Ⅵ,20-21)

注釈

 人間本性は、自ら自由の使用一般への主観的根拠である。この根拠は、感覚によって捉えられる行為に先立つ。「傾向性」を通して「選択意志」を「規定する」客体や自然衝動などに、悪の根拠が含まれることはない。むしろ、それは「格率」にのみ含まれる。

 

[段落5]

要約

様々な性格のひとつを、人間に「生得的」であるということにする。人間の内なる善悪が生得的であるのは、それが経験に与えられるあらゆる自由の使用に先立ち根底に置かれるという意味でだけである。それは、善悪の誕生がその原因であるという意味に関してではない。(Ⅵ,21-22)

注釈

 人間と他の考えられる理性的存在者を区別する性格のひとつを、人間に「生得的」であるということにする。人間の内なる善悪が生得的である理由は、それが経験に与えられるあらゆる自由の使用に先立ち根底に置かれるからである。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈④】たんなる理性の限界内の宗教|第2版序文(段落1~段落4)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第2版序文

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 ・段落4 要約と注釈

 文献

 

[段落1]

要約

 第2版でも誤植と若干の表現の訂正以外は何も変わっていない。(Ⅵ,12)

注釈

  省略。

 

[段落2]

要約

「啓示」は、純粋「理性宗教」を含む。啓示を信仰の「より狭い」領域としての理性宗教を含む「より広い」信仰領域だ、と私はみなす。この狭い方の領域内で純粋な理性教師として哲学者は、身を持さなければならない。その際、あらゆる経験を度外視しなければならない。この立脚点から、次の試みをなす。それは、啓示と見なされている何らかの啓示から出発して純粋理性宗教を度外視しながら、「歴史的体系」としての啓示を道徳的概念に断片的に当てがう。この体系が、宗教の純粋「理性体系」に還元されないかどうかを調べるという試みである。こちらの体系は、道徳的=実践的意図では自立しているし、ア・プリオリな理性概念として道徳的=実践的関係で成立する本来の宗教にはこの体系で充分である。これが正鵠を射るのであれば、理性と書き物との間に一致も見られる。(Ⅵ,12-13)

注釈

 「啓示」とは真理が顕わになること、また神などによる自己表明のことである。「啓示」は、「あらゆる経験を度外視」した純粋な「理性宗教」を含む。「より広い」信仰領域とは、例えば自分自身の安寧などの経験的部分であると考えられる。一方、「より狭い」領域とは、ア・プリオリな原理に基づく信仰の領域であると考えられる。
 カントによれば、両者は互いに独立するのではなく同心円状に存在する。この「立脚点」から、カントは次のような試みを行う。その試みとは、「歴史的体系」としての啓示、つまり『新約聖書』にあるイエス・キリストの諸々の行為や出来事を「道徳的概念に断片的に当てがう」ことである。この一連の「体系」が、「宗教の純粋理性体系に還元され」るかどうかを調べることである。この試みによって要点をうまく捉えきれるのであれば、「理性」と『聖書」との間に一致が見られる。

 

[段落3]

要約

 このような統一の試みは、正当に哲学的な宗教研究者に属す営みである。(Ⅵ,13)

注釈

 このような統一の試みは、ア・プリオリな原理に基づいて「哲学的な宗教研究者」が担う。 

 

[段落4]

要約

評者の判断では、本稿は自分自身に出した問いへの解答に他ならない。問いとは、「純粋理性によって教義学の教会的体系はその概念及び定理の点でいかに可能か」というものである。これに答えるなら、本稿の本質的な内容を理解するのに必要なのはありきたりの道徳だけである。理論理性の批判に言うに及ばず、実践理性の批判に立ち入る必要はない。(Ⅵ,13-14)

注釈

 評者の判断では、本稿はカント自ら出した問いへの解答である。「教義学」とはキリスト教神学での教義の関する学問的研究である。特に、カトリック教会では拘束力を持つ基礎的な信仰真理を定式化した命題が、「教義」である。
 本稿の目的は、「純粋理性」によって「その概念及び定理の点で」キリスト教神学での教義について、教会的体系がいかに可能かという問いに解答することであると考えられる。本稿の本質的内容を理解するため、「実践理性の批判に立ち入る必要はない」。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈③】たんなる理性の限界内の宗教|第1版序文(段落7~段落9)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第1版序文(1793年)

 ・段落7 要約と注釈

 ・段落8 要約と注釈

 ・段落9 要約と注釈

 文献 

 

[段落7]

要約

最高検閲官は、哲学部ではなく神学部に属す。双方の教説すべてが相互に接近していて哲学的神学の側から越境の懸念があっても、干渉についての疑惑など容易に予防できる。(Ⅵ,9-10)

注釈

「哲学的神学」が「聖書神学」の範囲に干渉した場合、聖職者である最高検閲官は神学部に属す。確かに、「哲学的神学」と「聖書神学」の教説はお互い接近する部分もある。しかし、理性の限界内で留まる「哲学的神学」は「聖書神学」へ干渉できない。それは、理性の限界を超える。そのような越境の懸念があっても、その疑惑は簡単に予防できる。

 

[段落8]

要約

善なる素質も悪なる素質も備えた部分もある人間本性と宗教との関係を目立たせるため、善の原理と悪の原理との関係を、両者それぞれ別個に存在する2つの作用原因であって人間に影響を及ぼすかのように、以下の論文で紹介している。(Ⅵ,11)

注釈

 カントは「善なる素質も悪なる素質も備えた部分もある」という人間観を持つ。この人間観と宗教を際立たせるため、善悪の原理の関係をそれぞれ別個に関係する作用原因への人間の影響を以下で述べる。

 

[段落9]

要約

 1枚目の全紙は、私の正書法とは違う。それは、写本に多くの人の手を煩わせたからである。また校正に残された時間が、短かったからである。(Ⅵ,11)

注釈

省略。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈②】たんなる理性の限界内の宗教|第1版序文(段落4~段落6)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第1版序文(1793年)

 ・段落4 要約と注釈

 ・段落5 要約と注釈

 ・段落6 要約と注釈

 文献

 

[段落4] 

要約

 「法則」の聖性についてこの上ない尊敬の対象を認識するとすれば、宗教の段階になると、「法則」を遂行する再興の原因について道徳は「崇拝」の対象を表象して厳かに現われる。限りなく崇高なものという理念を人間が自らの使用に役立てようとして手にかけると、一切が卑小になる。尊敬が自由である限りのみ崇敬できるものが強制的法律によって威信が、与えられるだけの形式に従うよう強制されることになる。(Ⅵ,8)

 
注釈

「法則の聖性」について前提となるのは、「道徳法則」への尊敬である。道徳が宗教に至るのは避けられないことから考えると、「宗教の段階」では「道徳が『崇拝」』の対象を表象して厳かに現われる」。ただし、「人間が自らの使用に役立てようと」自らの都合のいいように法則を使用するのであれば、「一切が卑小」になる。「道徳法則」への尊敬によって、「威信が与えられるだけの形式」つまり「べし」(Sollen)という「義務」に従うよう、われわれは強制される。

 

[段落5] 

要約

「当局に従順であれ」という命令も、道徳的といえば道徳的である。その遵守は、あらゆる「義務」の遵守と同じく宗教に関係づけられる。このような従順さの模範となることは、宗教の特定の概念を論じるような論稿にふさわしい。従順さが証明されるのは、法律こぞって尊敬することによってでしかない。書物を審判する神学者の魂の平安に配慮するためだけに任命されているか、諸学の平安に配慮するために任命されているかのどちらかである。あらゆる学問は侵害に対して保護されるように、公共の施設に委ねられる。その施設の一員としての学者でもある審査官には聖職者に過ぎない審査官の越権を、後者による検閲のために諸学の領野で破壊が引き起こされないという条件に制限する義務がある。それが共に聖書神学者ならば、この神学を論じるよう委託される学部の大学人である審査官の方が主任検閲官の職務にふさわしい。この規則から免れると、聖書神学者が諸学の誇りを傷つけ人間悟性の試み一切を独占してしまう。(Ⅵ,8-9)

 

注釈

 「当局に従順であれ」という命令も、道徳的である。「従順さ」は、「尊敬すること」によって証明できない。それは「書物を審判する神学者の魂の平安に配慮するため」に「任命されている」か、または様々な学問の「平安に配慮するために任命されているか」のいずれかである。「公共の施設」の一員として、「聖職者に過ぎない審査官の越権」を、「後者」つまり様々な学問の「平安に配慮する」ことによる「検閲のために」様々な学問分野で「破壊が引き起こされない」よう「制限する義務がある」。もしこの規制から脱すると、「聖書神学者」が様々な学問の「誇りを傷つけ人間悟性の試み一切を独占」することになる。

 

[段落6] 

要約

諸学の領野では、聖書神学には哲学的神学というものが向き合っている。これは、他学部から委託された財である。哲学的神学が単なる理性の限界に留まるならば、この神学には届く限りの範囲に広がっていくための十分な自由がなくてはならない。それが限界を踏み越えて聖書神学に干渉したことが明白ならば、主任検閲官の職務は「その学部の一員として」の聖書神学者だけに帰属する。(Ⅵ,9)

 

注釈

「哲学的神学」とは恐らく、理性の限界内での「神学」を意味する。一方、「聖書神学」とは理性の限界を超えた「神学」であると考えられる。「哲学的神学」が単に「理性の限界」に踏み留まるならば、この神学には可能な限りでの「範囲に広がっていくための十分な自由」が必要である。ただし、「哲学的神学」が「聖書神学」の範囲に干渉したならば、聖職者である主任検閲官の職務は「聖書神学」者の職務だけに属す。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【要約と注釈①】たんなる理性の限界内の宗教|第1版序文(段落1~段落3)

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教

  • 作者:カント
  • 発売日: 2000/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

[内容]

第1版序文(1793年)

 ・段落1 要約と注釈

 ・段落2 要約と注釈

 ・段落3 要約と注釈

 文献

 

[段落1] 

要約

人間は、自由な存在である。それゆえ人間は、自己自身を理性により無制約な法則に結びつける存在者でもある。このような存在者としての人間の概念に基づく限り、道徳は、人間の「義務」を認識するのに人間を超えた人間以外の存在者の理念を必要としない。また道徳は、「義務」を遵守するのに法則以外の動機も必要としない。そのような要求が人間の中に見出されるとすれば、少なくともそれは人間自身の咎である。その要求は、他の何ものによっても満たされない。そもそも理性の法則によって採用されるべき「格率」の普遍的合法則性があらゆる目的の最上の制約である。例えば法廷で証言する際、私は誠実であるべきなのかということを知るには目的など頓着する必要はない。それがどんなものなの、どうでもよい。むしろ自白が合法的に求められているのに、まだ何か目的を探さなくてはと思う人は、それだけで卑劣漢である。(Ⅵ,3)

 
注釈

 カントは、まず人間を「自由な存在」と位置づける。カントにとって、人間は法則に結びつける存在者である。ここでの法則とは、「道徳法則」であると考えられる。「道徳法則」に結びついた「自由な存在」として人間観をカントは持つ。それで、道徳は人間の「義務」を認識するのに人間を超えた人間以外の存在者の理念、つまり「神」のような存在者を必要としない。また、「理性の法則」である「道徳法則」によって採用されるべき「格率」の普遍的合法則性を最上目的として、カントは捉える。

 

[段落2]

要約

道徳は、意志規定に先立たなくてはならない目的表象を必要としない。しかしそのような目的に必然的関係を持つことは、あり得る。道徳にとって正しく行為するための目的は、必要ではない。自由の行使一般の形式的制約を含む法則だけで、その目的は十分である。しかし、道徳から目的は生まれてくる。次の問いの回答がどのような結果になるかについて、理性は無関心でいることなどできない。それは「正しく行為するとして、そこから何が生じるのか。なすこと・なさざることを何に向ければよいのか。少なくとも何をそれに一致するための目的とすればよいのか」という問いである。われわれが抱く目的すべての形式的制約(義務)は、同時にそれらすべての目的によって生じるもので、形式的制約と調和するものすべてを共に統合して含むものは、世界で最高善の理念に過ぎない。その可能性のため、道徳的で聖にして全能の一層高次の存在者を想定しなければならない。ただし、この理念は空虚ではない。ここで最も重要な点はこの理念の方が道徳に端を発し、それを立てることがすでに人倫の原則を前提する目的であるということである。道徳にとっても万物の究極目的という概念を作れるかどうかはどうでもいいはずはない。道徳を敬う人で実践理性に導かれて世界を「創り出す」とすれば、その人は「最高善」という道徳的理念を伴う仕方でしか世界を選ばない。可能な「最高善」の実現を「道徳法則」が欲するので、その人もひとつの世界が現存在することを意欲する。これによって、その人は「義務」に対して究極目的を考えたいという要求を証明している。(Ⅵ,3-5)

 
 注釈

 ここでいう「目的」とは、「○○するために」という意味での目的だと考えられる。カントにとって、「人に親切にしよう」とか「誠実であろう」という道徳的な意志規定には前もって、例えば「人に好かれるために」とか「称賛を得るために」という目的は必要ない。「自由の行使一般の形式的制約を含む法則」つまり、「道徳法則」だけでその目的は十分果たされる。ただし「正しく行為するとして、そこから何が生じるのか。なすこと・なさざることを何に向ければよいのか。少なくとも何をそれに一致するための目的とすればよいのか」という問いの結果に、理性は無関心でいられない。形式的制約としての「義務」は、それらすべての目的によって生じる。形式的制約と調和するものすべてを共に統合して含むものは、「最高善」の理念だけである。その可能性のために、道徳的に聖にして全能の一層高次の存在者を想定しなければならない。

 

[段落3]

要約

道徳が宗教に至るのは、避けられない。道徳は、宗教により人間以外の力を持つ道徳的立法者という理念にまで拡大される。人間の究極目的であり得てあるべきものが、この道徳的立法者の意志でも、同時に究極目的である。(Ⅵ,6)

 
注釈

 カントによれば、「最高善」の理念の可能性のため道徳は宗教に至る。道徳は宗教によって人間以外の力を持つ道徳的立法者、つまり「神」という理念にまで拡大される。道徳的立法者である「神」の意志も人間も、「最高善」が究極目的である。

 

文献

 Kant.I,1793(1794):Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft(邦題:たんなる理性の限界内の宗教、『カント全集10』所収、北岡武司訳、岩波書店、2000年.).【続く】

 

※今回、要約した著作はアカデミー版カント全集からであり、要約に際してその巻数とページ数を記載した。

【動物倫理学】アニマルウェルフェア―動物の幸せについての科学と倫理|「他者への配慮」は動物への倫理的配慮の基準になり得る

 

 過去記事で、 動物への倫理的配慮の基準を「苦痛」だけではなく「動物の豊かな内面」という、ひとつの視点を提示した。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.

 

 この作業を通して、シンガーが言う「苦痛」という動物への倫理的配慮の基準だけでなく、それ以外の基準も設けながら、動物への倫理的配慮について見直す必要性を主張した。

 

 今回は佐藤衆介著『アニマルウェルフェア―動物の幸せについての科学と倫理』を手がかりに、動物への倫理的配慮の基準としての「他者への配慮」の可能性について、倫理学というよりも動物行動学的視点で検討する。

 

 その際、本書で取り挙げられているウシの舐行動とJ.Maason & S.McCarthyの事例を中心に、「他者への配慮」という視点から動物への倫理的配慮の基準を探っていく。

 

■ウシの舐行動ーウシも仲間に配慮する

 ウシ集団で「仲よし関係」がどのように作られるかについて、著者は約20年研究してきた。以下、ウシの舐行動に関する著者の「他者への配慮」の事例と見解を示す。

 

 「仲よし関係」の証は、近くで生活し危急の時には援助したり、食べ物を分け与えたり、世話行動に見られる。ウシの場合、「仲よし関係」の証は主に世話行動である毛繕いすなわち「舐行動」で見られる。

 

 ウシの舌は、タワシのようにざらざらして長い。その舌で、仲間の頭や尾などあらゆる部分を舐めてやる。舐められている最中、ウシは目を半開きなりウトウトしたり、心拍数が1分当たり4拍程度に低下する。

 

 このウシの舐行動の結果から、ウシは舐められることで心理的な安寧を感じている、と著者は理解する。

 

 ウシにとって、他のウシから舐められることは「喜び」という情動をもたらす。この行動は、被毛の衛生効果や「心理的安寧効果」という実利をもたらす。

 

 様々な効果の結果として、よく舐められるウシは泌乳量が多い。子ウシでは下痢も少なく体重の増加も多い。

 

 確かに行う側にとって舐行動は疲れるし、捕食獣への警戒心は落ちる。短絡的に見れば、この行為は時間の無駄である。それでも、ウシはこの行動によって仲間に配慮する。

 

 ただし、どの仲間にも均等に舐行動を施すわけではない。半兄弟以上の血縁の濃い相手や、同居期間が4ヶ月以上の相手に舐行動が多く向けられる。(注1)

 

 以上が、ウシの舐行動に関する著者の「他者への配慮」事例と見解である。

 

 われわれも家族や恋人などごく近しい間柄で、頭を撫でたり体に触れたりするなどスキンシップを図る。この行動が「他者への配慮」の表れとなる。

 

 このような「他者への配慮」による行動が倫理的出発点となるならば、それは人間以外の動物にも当てはまらなければならない。

 

■J.Maason & S.McCarthyの事例ー様々な動物が仲間に配慮する

  ウシ以外でも、様々な動物が仲間に配慮する事例がある。科学ジャーナリストのJ.Maason & S.McCarthyの事例を本書では紹介している。(注2)

 

 まとめると以下の5点である。

 

・死んだ子ゾウをいつまでも持ち運ぶため移動に遅れがちなアフリカ象を群れの仲間が待つ。
・アフリカスイギュウ、シマウマ、トムソンガゼルは仲間の一頭を襲ったライオンを皆で追い払う。
・ニジチュウハチという鳥を撃ち落としたとき仲間が襲ってきた。
・キツネが負傷した仲間に餌を運ぶ。
・イルカやクジラは呼吸ができない仲間の体を支えて水面に押し上げる。

 

【参考:ナショナル ジオグラフィック TV】

www.youtube.com

 

 それ以外に、われわれも含むテナガザルやチンパンジーなど狭鼻猿類は仲間同士でエサを分け合ったりケンカの場面では手助けを行う。

 

 著者の見解では、仲間への配慮行動は様々な動物で普遍的に見られる。「危険な目に遭っている仲間を命がけで救助に向かう」ことや「飢えて死にそうな人を見ると食事を与える」など「困った人に手を差し伸べる」行為は、倫理的だと称賛されることは多い。

 

 先の事例のように、われわれが倫理的であると認識する行為を人間以外の動物も行うことがある。このことから、ウシ以外の様々な動物もわれわれ人間と同じ他者を配慮しながら生活を送っていると考えられる。

 

■まとめ

 以上、佐藤衆介著『アニマルウェルフェア―動物の幸せについての科学と倫理』を手がかりに、「他者への配慮」が動物への道徳的配慮の基準になり得るか検討してきた。

 

 シンガーは動物への道徳的配慮の基準として「苦痛」を取り挙げた。なぜなら「苦痛」は人間にも人間以外の動物にも共通する感覚だからである。

 

【参考:動物の解放】

 

 同じように考えるのであれば、「苦痛」だけでなく「他者への配慮」も動物への倫理的配慮の基準として認めなければならない。一面的な見方をするのではなく、多角的な視点で物事は捉えるべきである。これは動物倫理学でも同じことが言える。【終わり】

 

(注1) 佐藤,2005,139ー143 参照.

(注2)佐藤,2005,145 参照.

 

↓動物福祉に関するその他の文献↓

【教育倫理学】学校におけるケアの挑戦|「ケアリング」と「継続性」

 

 もし教育が人生における幸福を目的とするのであれば、学校教育はその目的を実現するために「ケアリング」を中心に再構成される必要があるだろう。

 

 既存の学校教育に異を唱え、カリキュラムだけでなく学校組織そのものを「ケアリング」の視点で再評価することを、ノディングズは本書で提唱する。

 

 これが、本書の一般的見方である。今回は、ノディングスの「ケアリング」と「継続性」について考察する。

 

 彼女によれば、「ケアリング」で必要なことは「継続性」である。この見解を本書から読み解いていく。

 

■本書の概要

 まず始めに、本書の概要を確認する。「編者序文」によれば、ノディングスは教育の目的を次のように掲げている。

 

 教育の主な目的は道徳教育によってケアし、愛される能力ある個人の成長を育むことである。(邦頁 3 要約)

 

 ここでポイントとなるのは、次の2点である。

 

・教育は道徳教育によってなされる。
・教育はケアし、愛される能力ある個人の成長を育むことである。

 

 これが、ノディングスの言う「ケアリング」を中心に再構成された学校教育である。この目的のため、彼女はケアの中心を以下8つに整理する。

 

・自己のケア
・親しい他者へのケア
・仲間や知人へのケア
・遠方の他者へのケア
・人以外の動物へのケア
・植物と自然環境へのケア
・物や道具など人が作り出した世界へのケア
・理念のケア

 

 本書は、上記8つのケアについて述べ、最後に学校で行える実践的な「ケアリング」を提示する。

 

■「ケアリング」と「継続性」

  本書で「ケアリング」で必要なことは、「継続性」であることを彼女は強調する。

 

 学校の第1の指導目的は継続性とケアリングの風土を確立し維持してくことでなければならない。教育でのケアリングは強い信頼関係を土台部分にするという意味で、一時的なケアリングの出会いと異なる。そのような関係には時間がかかり継続性が必要になる。(邦頁127 要約)

 

 彼女によれば、学校の第1の指導目的は「継続性とケアリング」の風土を確立し維持することであり、そのため、教科指導であっても生徒指導であっても、教師と子どもたちとの強い信頼関係が土台となる。生徒との関係は一朝一夕では成立しない。教師と子どもたちとの信頼関係には時間がかかり、「継続性」が必要になる。

 

 一方、現実的に教師は子どもたちの行動の変容を急ぐあまり、間違った指導を行うこともある。それが、体罰などによって子どもたちを追い詰めることにもなりかねない。

 

 この点を考慮すると、ノディングスの「ケアリング」的な生徒との関わりの中で「継続性」が必要になることは理解できる。「継続性」について、彼女は次のような提案を行う。

 

 ケアがなされる共同体を築くために、生徒には学校の居場所の継続性が必要になる。生徒は2、3年以上ひとつの校舎に留まるべきである。子どもたちは建物に住み慣れ、物理的な環境に責任を持つようになり、ケアのなされる共同体の維持に参加するための時間が必要である。限られた年齢層を対象とした非常に専門的プログラムと場所の継続性のどちらか選択しなければならないとき、場所の継続性を選択するべきである。(邦頁131 要約)

 

 専門的プログラムと場所の継続性のどちらか選択しなければならないとするならば、場所の継続性を選択するべきである、と彼女は主張する。

 

 確かに、何年も通い慣れた学校には愛着がわき、その一員として誇りを持つようになる。卒業すると、学校で学んだことや思い出が糧となる生徒も出てくる。これは、学校や教師と子どもたちの継続的な関係性によって起こる現象である。

 

 さらに、「継続性」について彼女はそのための「計画」を読者に提示する。まとめると次の通りである。

 

1.目的の継続性
・第1目的はお互いのケアであることが明白であること
・生徒すべてが①人間のケアリングの不可欠な問題に取り組むこと②ケアの専門領域で特定の能力を発達させること

2.学校の居場所の継続性
・属しているという感覚を得られる必要な期間ひとつの校舎に留まるべき
・コミュニティが優先されれば、より大きな学校でもコミュニティの感情を生み出すことは可能
・子どもたちは3年以上、理想は6年間同じ場所にいるべき

3.教師と生徒の継続性
・教師は生徒と3年以上一緒に過ごすべき

4.カリキュラムの継続性
・われわれのケアを示し人間の全領域を尊重することが理念
・多様で等しく権威ある専門プログラムを提供する

 

 このように、4つの「継続性のための計画」を示し、「ケアリング」には「継続性」が大きく関わることを彼女は示した。

 

 ■まとめ

 以上、学校での「ケアリング」には「継続性」が必要であることを彼女は主張した。

 

 ノディングスの「ケアリング」という概念を学校現場に取り入れることで、教師と子どもたちがお互いにケアし合い、愛情に満ちた人間関係を築き、愛される人間に成長することができる。

 

 学校現場では、教育実践が重視されがちだが、理論と実践は相互補完的な関係にある。ノディングスの「ケアリング」のような理論を現場で実践することで、学校や教師は生徒のよりよい成長を支援できるようになる。【終わり】

 

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【第3回】動物倫理入門| 「人間例外主義」では言語を使用しない人間が配慮の対象にならない【動物倫理学】

動物倫理入門

動物倫理入門

 

 

[内容]

 ■【第1回】本書は「人間例外主義」批判に基づく入門書

■【第2回】「人間例外主義」とは人間は動物に対して倫理的責任がないという立場

■【第3回】「人間例外主義」では言語を使用しない人間が配慮の対象にならない

■【第3回】まとめ

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

■「人間例外主義」では言語を使用しない人間が配慮の対象にならない

 

 「人間例外主義」を支持する理由の中に、言語を使用する能力が挙げられる。われわれ人間は、他の動物と違い言語を使用できるとされる。一方、他の動物は言語を使用する能力が限定的である。だから、われわれ人間は他の動物への倫理的配慮に責任を持たなくてもよい、という主張が成立するのだろう。

 

 しかし、著者の立場に即して考えると、この理由が「人間例外主義」という考え自体に矛盾を生じさせることになる。なぜなら、人間すべてに言語を使用する能力があるわけではないからである。

 

 言語の使用を理由に、「人間例外主義」の立場を採用するのであれば、言語能力に障害がある人や事件や事故などで言語によって意思疎通ができない人も、道徳的配慮の対照から除外されることになる。

 

  そもそも言語の使用は、なぜ重要な能力なのか。言語は倫理規範や期待を作り出したり、伝達するのに役立つ。また言語は倫理規範を教えたり、違反を正す手段にもなり得る。言語使用の重要性について考えると、確かに言語の使用は人間だけが道徳的配慮に値することを示す能力なのかもしれない。しかし、人間すべてに言語の使用能力があるわけではない。

 

 筆者も主張するように、もしも道徳的に配慮すべき存在という分類の境界が単に言語使用者やその周辺だけに引かれるのであれば、言語を使用しない人間も道徳的配慮の対象から外れることになる。

 

 言語を使用しない人間が道徳的配慮の対象から除外されるという考え方は、彼らが搾取されたり殺されたりすることを容認することにつながるかもしれない。筆者が主張するのは、言語を使用できない障害者だけでなく、意思疎通ができない人々に対しても倫理的責任があるということである。つまり、言語を使用できない人々を含む、すべての人々に対して、道徳的配慮が必要であるということである。

 

 例えば、何かの事件や事故などで助けが必要な人が意識を失っていたり発達した言語能力を持っていなかったりするために、コミュニケーションが行われない場合がある。

 

 それでも救助することが正しく英雄的なのは、事件や事故に巻き込まれた人物が言語を使用できるからではない。何か別の理由があるはずである。

 

 このように考えると、われわれは道徳的配慮の必要条件として言語使用を考えることはできなくなる。

 

 以上、筆者に即して考えると、言語使用が必ずしも道徳的配慮の基準ではなくなる。

 

 われわれ人間の中にも、言語能力が始めから欠如していたり何らかの理由で言語を使用できなくなる状況が考えられる。

 

 事件や事故などに巻き込まれ、何らかの理由で言語が使用できなくなったからといって、必ずしも道徳的に配慮しなくてもよいということにならない。このようなことは、人間以外の動物にも同じようなことが言える。

 

■まとめ

 言語の使用以外にも、道具を使用する能力や協力行動など人間と他の動物を分ける理由は数多くあるだろう。ただし、これらは人間すべてが持つ能力ではない。

 

 能力差はあるにせよ、他の動物も人間と同じような能力を持つ場合がある。一方、人間もすべてがまったく同じように言語能力を持っているわけではない。

 

 筆者も主張するように、「人間例外主義」の目的が人間だけを道徳的に配慮すべきだという理解に基づいた場合、障害者や言語による意思疎通ができない人、事件や事故で意識を失った人など、われわれ人間の中で弱い人々を見落としてしまうことになる。

 

 われわれ人間も、他の動物と同様に優れた能力を持っている。一方で、他の動物も人間と同様に素晴らしい能力を持っている。そのため、他の動物を人間ではないという理由だけで道徳的配慮の対象から除外することは、偏見以外の何ものでもない。

 

 以上、『動物倫理入門』での筆者の立場に基づくと、人間が特別な存在であるという「人間例外主義」は、他の動物と比較して人間が持っている特定の能力に基づいて道徳的配慮をすることを正当化するものであり、この考え方は擁護できないと結論づけられる。【終わり】

 

 

【第2回】動物倫理入門 |「人間例外主義」とは人間は動物に対して倫理的責任がないという立場【動物倫理学】

 
動物倫理入門

動物倫理入門

 

 

[内容]

 ■【第1回】本書は「人間例外主義」批判に基づく入門書

■【第2回】「人間例外主義」とは人間は動物に対して倫理的責任がないという立場

■【第3回】「人間例外主義」では言語を使用しない人間が配慮の対象にならない

■【第3回】まとめ

 

 【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

■「人間例外主義」とは人間は動物に対して倫理的責任がないという立場

 

 「人間例外主義」とは、人間は動物に対して倫理的責任がないという立場である。著者は明確には示していないが、本書全体を通してこのように考えていることが示唆される。以下に根拠となる箇所を引用する。

 

 私が人間例外主義(human exceptionalism)と呼ぶ見解は、私たちが心理的にも知的にも自身の動物性から、そしてその延長線上にある動物から距離を置くことなどから生じる。人間は動物と異なるし、人間は自身の動物性を超越していると言う者さえいる。私たちは人間を世界の創造者、意味の担い手と見るが、動物はそうではないと考える。私たちは人間にしかできない活動、私たちを動物の上位に置く活動を営む。人間は独特の優越的な地位を占めるのだから、人間だけが倫理的配慮の適切な対象であると考える者もいる。(邦頁,2)

 

 「人間例外主義」は、心理的にも知的にも自身の動物性から距離を置くことから生じる。上記の引用箇所のポイントは、次の3つである。

 

・人間は他の動物と異なり、自らの動物性を超越している。
・人間にしかできない活動は、他の動物の活動より上位にある。
・独特な優越的地位を占めるので、人間だけが倫理的配慮の適切な対象になる。

 

  「人間例外主義」という考えが、人間と人間以外の動物の間で道徳的な分断を起こすと、著者の立場から述べている。著者は、人間と人間以外の動物との身体的構造の違いだけでなく、知的能力や能力の面でもそれほど大きな違いはないと主張している。

 

 「他の動物とは違う」というわれわれ人間の単なる思い込みが、「人間例外主義」を生み、人間は動物に対して倫理的責任がない、と考えているだけに過ぎない。

 

 また著者によれば、「人間例外主義」の本当の問題は、人間を動物の上に位置づける規範的主張である。「規範的」という言葉は、社会が何を「正常」と見なすかを示す。人間を動物より重視することは、社会的に期待されている。これが、一般的な意味での「規範的」である。

 

 では、なぜある能力を持つことが、その能力を持っていない人より優れていると、より倫理的な配慮に値するものになるのか。哲学的視点から、著者はこのような疑問を抱く。

 

 「人間が○○という能力を持つ一方、人間以外の動物がそれを持たない」という事実があるからといって、人間が動物に対して倫理的責任を負わなくてもよいというのは誤りである。ある能力を持つことと、倫理的配慮や責任の対象になり得るかという問題は別である。このように、著者は哲学的視点から疑問を呈している。

 

 著者もこの意味で「規範的」というのは、人間を特別な存在にする何らかの能力にわれわれが倫理的な重要性を与えることを指摘する。

 

「われわれ人間と同じ能力がないから、人間以外の動物には倫理的責任はない」という主張は、まったく何の根拠もない人間による「人間以外の動物に対する優位性」という思い込みから生じている。この思い込みこそが、「人間例外主義」の本質であると著者は指摘する。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 

【第1回】動物倫理入門| 「人間例外主義」批判に基づく入門書【動物倫理学】

 

 本書を手にしたきっかけは、「動物倫理学」を体系的に学び直したいという動機からであった。

 

功利主義」や「権利論」など、動物倫理の基礎理論が本書で簡潔に整理されていた。また、「肉食の倫理」や「動物実験の是非」などの個別的問題についても、考察できる章立てがなされている。翻訳も読みやすく、これまで読んできた入門書の中でも理解しやすい部類に入る。

 

 ただし、一般的な入門書と異なる点は、本書が「人間例外主義」(human exceptionalism)を批判するという立場に基づいていることである。

 

 本書前半部分では、動物の中で「人間は本当に例外なのか」という疑問や、「人間はどれほど特別なのか」という問いを読者に投げかけ、様々な動物実験や観察などを根拠に、われわれの「思い込み」を解いていく。

 

 今回は、ローリー・グルーエン著『動物倫理入門』を中心に、「人間例外主義」について3回に分けて検討する。本稿の内容は、以下の通りである。

 

 [内容]

【第1回】本書は「人間例外主義」批判に基づく入門書

■【第2回】「人間例外主義」とは人間は動物に対して倫理的責任がないという立場

■【第3回】「人間例外主義」では言語を使用しない人間が配慮の対象にならない

■【第3回】まとめ

 

 ■本書は「人間例外主義」批判に基づく入門書

 

  本題に入る前に、本書の基本姿勢から確認する。本書の「はじめに」の部分で、「動物は道徳的配慮に値し、彼らの生命は大切」であるということが、本書の基本姿勢であると記述されている。

 

 ただし、グルーンは特定の立場をとってそれを深く追求することはせず、むしろ倫理的問題が競合状態にあることや、人間と動物の関わり、そして動物に対する義務の倫理的複雑さに焦点をあてている。これが当初の目的であったと思われる。われわれ人間とわれわれ人間以外の動物との倫理的葛藤などを、本書で描きたかったのではないかと想像できる。

 

 また本書は「動物倫理学」の教科書として、大学などでの使用を想定した表現も、別の箇所で見られる。様々な観点から「動物倫理学」について考察できる教科書的な位置づけとして、本書を意図した可能性がある。

 

 しかし、本書の内容はあくまで彼女の「人間例外主義」批判という立場から見た「動物倫理学」の入門書である。本書の後半部分で著者自身が次のように述べている。

 

 本書は、人間は特別であり、動物より優れているという深く根付いた考えについて探求することから始まった。私は、人間例外主義は、偏見に満ちたものであり、支持できないと論じた。(邦頁 ,221)

 

 様々な側面から「動物倫理学」について考察できるような教科書的な入門書を当初、著者は計画していたが、結果的に自らの立場を展開してしまったように思える。

 

 だからといって、本書での彼女の矛盾を指摘し批判するつもりは毛頭ない。とにかく主張したいことは、本書は一般的な「動物倫理学」の入門書ではなく、「人間例外主義」批判という立場から見た入門書である、ということである。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考文献】

Ethics and Animals: An Introduction (Cambridge Applied Ethics)