2.虚言について
『基礎づけ』の中でカントは「義務」(Pflicht)を4種類に分類する。それは「自分自身に対する完全義務」、「他者に対する完全義務」、「自分自身に対する不完全義務」そして「他者に対する不完全義務」である。
「他者に対する完全義務」の反例として、カントは「虚言」を例に挙げる。一方、『人倫の形而上学』の中で、カントは「虚言」を「自分自身に対する完全義務」の反例として挙げる。
「虚言」とは、口に出して言うことと心の中で思うことが異なるものである、とカントは定義する。そして「虚言」を、2種類に分類する。すなわち、他人に対して行う「外的な虚言」と、自分自身に対して行う「内的な虚言」である。「虚言」を2種類に分類したところで、カントは以下のように述べる。
「外的な虚言」によって、人間は他人の目によって自己を軽蔑の対象とする。他方、「内的な虚言」では、自分自身の目によって自己を軽蔑の対象とする。
さらに「内的な虚言」によって、われわれは自己自身の人格での人間性の尊厳を毀損する。虚言は自己の人間としての尊厳の放棄であり、いわばそれを撤廃することである。自分が他人に語ることを自ら信じない人間は、彼が単に物件であるに過ぎない場合よりも、さらに一層少ない価値を持つ。
以上のように、『人倫の形而上学』の中でカントは、「虚言」は自己の人間としての尊厳の放棄であり、いわば自分自身の尊厳を撤廃することであると主張した。
ここで、カントは「虚言」を「自分自身に対する完全義務」に反するものとして考えている。『基礎づけ』で、カントは「虚言」を「他者に対する完全義務」の反例として位置づける。
しかし、加藤泰史によると、それは例外である。『人倫の形而上学』や『倫理学講義』では、カントは「虚言」を一貫して「自分自身に対する完全義務」の反例と捉えている。
また、『人倫の形而上学』の中で、カントは「自分自身に対する義務」は、「他者に対する義務」よりも優先させなければならないと述べる。この箇所を要約すると、次のようになる。
もしも「自分自身に対する義務」が存在しないのであれば、「義務」はどこにも存在しない。なぜなら、私が他人に対して「義務」を課せられていると認めることができるのは、私が同時に自分自身に対して「義務」を課すときだけだからである。
というのも、私に「義務」を課すと、私自身が思う法則はあらゆる場合、自分自身の実践理性から発するものだからである。その実践理性によって、私は強要されるが、それと同時に、私は自分自身についても強要される。
このように、「自分自身に対する義務」は、「他者に対する義務」よりも優先する。それだけでなく、「自分自身に対する義務」はあらゆる「義務」の基礎として位置づけられる。というのも、自分自身に「義務」を課すとわれわれが思う法則は、われわれ自身の実践理性から生じるからである。
以上のように考えると、カントは自らの道徳哲学の中で他者を問題にするよりも、むしろ道徳的主体である自己に焦点を当てている、ということになる。つまり、カントが自らの道徳哲学の中で問題の中心としたのは、他者ではなく、道徳的主体である自己だったのである。 【続く】