ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【第3回】「趣味判断」について-『判断力批判』に即して-|「共通感官」について【カント道徳哲学】

 

3.「共通感官」について

 「趣味判断」には主観的な判断が必要であるため、カントは「共通感覚」という概念を導入した。『判断力批判』の文脈から考えると、「共通感覚」とは普遍的に有効な判断を形成するために必要な一般的な主観的な原理を指す。

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 この「共通感官」を前提とすることによって、カントは「趣味判断」を正当化する。カントは「共通感官」を次のように根拠づける。

 

 「共通感官」を前提とすることによって、カントは「趣味判断」を正当化する。カントは「共通感官」を次のように根拠づける。認識や判断は普遍的に伝達されなければならない。認識が伝達されるべきであるならば、心の状態もこの表象にふさわしい釣り合いも普遍的に伝達されなければならない。なぜなら、もしも私たちが互いに認識することの主観的条件として調和していなければ、私たちの認識は結果的に生じることはできないからである。

 

 この調和は、感性によって規定され普遍的に伝達されなければならないと言い換えることができる。つまり、感性が普遍的であることによって調和が保たれ、それが「共通感官」として表現される。それによって、感情の普遍的伝達可能性が保証されるとカントは主張する。

 

 「共通感官」は根拠を持って規定でき、われわれの認識での普遍的伝達可能性の必然的条件として規定される。この必然的条件は、あらゆる論理学や懐疑的ではない認識の原理において前提されなければならず、そのため「共通感官」は極めて重要な役割を担う。

 

 このように、われわれの認識や判断が普遍的に伝達されるための主観的原理を、カントは「共通感官」に求めたと言える。カントによると、「これは美しい」と認識する判断が普遍的であるのは、われわれすべての中に「共通感官」があるからである。つまり、「趣味判断」はわれわれの中に「共通感官」があるからこそ成立できる、とカントは考えた。

 

 「共通感官」を分析するとき、カントは次の3つの格率を提示する。

 

・自分で考えること

・他の人の立場に立って考えること

・いつも自分自身と一致して考えること

 

 「偏見に囚われない考え方」とも言われる1つ目の格率は、カントが提示した「自律的な理性の格率」のひとつである。カントは偏見を理性の他律に向かう性癖であると捉え、自律的な理性を持って自分で考えることが重要だと考えた。迷信からの解放が、「啓蒙」(Aufklärung)である。それは、自律的な理性を持った個人の自由と進歩に繋がる。

 

 「拡張された考え方」の格率とも言われる2つ目の格率は、カントによれば、通常われわれはある才能を持つ人が自らの才能を多くの人たちに発揮できないことを「制限された」と言う。しかし、たとえ自らの才能を発揮する範囲や度合いが小さい人でも、他の人の立場に立って考えることができる人は、拡張された考え方を持つ人である。

 

 3つ目の格率は「首尾一貫した考え方」の格率とも言われる。カントによれば、3つの格率の中で、この格率が最も到達するのが難しいとされる。なぜなら、前述の2つの格率を結合し、そしてこの2つの格率を熟練するまで繰り返し遵守した後に、3つ目の格率に到達できるとカントは考えているからである。

 

 「趣味判断」を正当化するため、カントは「共通感覚」を前提として置いた。そして「共通感覚」を分析する過程で、カントは3つの格率を提示した。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考文献】

政治的判断力 (叢書・ウニベルシタス)

政治的判断力 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

 

【第2回】「趣味判断」について-『判断力批判』に即して-|「趣味判断」について【カント道徳哲学】

 

2.「趣味判断」について

 

 「趣味判断」とは、あるものを「美しい」と判定する判断のことである。この判断力は、特に美しいものの判定の能力として「美感的判断」(ästhetisches Urteil)とも呼ばれる。「趣味判断」の特徴として、次の2つが挙げられる。

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

・主観的な要素が強い:趣味判断は、個人の好みや感性によって左右されるため、同じものでも人によって判断が異なることがある。

・理性的な要素も含まれる:趣味判断は、ある程度の客観性や理性的な判断が必要である。美しいと感じるためには、対象の特徴や背景などを分析し、考えることが必要である。

 

 上の2点からから分かるように、趣味判断は主観的な要素が強い一方で、ある程度の理性的な判断を要する。つまり、その価値を判断するために、ある程度の共通の美的基準が必要であるという点には留意する必要はある。

 

 主観的な要素があるという側面から考えると、「趣味判断」は個人が持つ利害や傾向性、そして道徳的な観点に基づいていない。つまり、「趣味判断」は主観的な感性に基づき対象物を美しいと判断する力であり、個人の価値観や社会的な判断基準に左右されない。

 

 カントによれば、私たちは快適なものや道徳的行為についての関心を持たなければ、それらから得られる満足を得ることができないとされる。しかし、あるものを「美しい」と言うためには、その対象物が個人が自分自身の表象から作り出すものとして問題となる。

 

 もしも美についての判断に少しでも何らかの関心が混ざるようであるならば、与えられた表象に下される判断は極めて偏ったものになる可能性がある。一方、「趣味判断」では、個人的な関心や傾向に基づく判断を排除し、あるものの性質によって、それ自身が美しいかどうかが問題となる。つまり、趣味判断は客観的な美的価値を追求することを目的とし、個人的な感情や思い込みに左右されない美的判断を追求するものとされる。

 

 次に、「趣味判断」の2つ目の特徴について述べる。「趣味判断」は、個人が自分自身の中で見出した主観的な条件を、自分以外の人間全員に普遍的な賛同を期待するとされる。カントの説明に即していえば、以下のような例が考えらる。

 

 例えば、誰かが「このワインはおいしい」と言った場合、他の人がその人に「それはあなたにとってこのワインがおいしいという意味でしょうね」と注意することがあるだろう。しかし、「このワインはおいしい」と言った人は、このことについてまったく不満を抱かないだろう。それは、快適なものや美しいものについては、個人の趣味や好みが重要な判断基準となるからである。

 

 しかし、美についての判断は快適なものと事情がまったく異なる。例えば、誰かが「大阪城は私にとって美しい」と言ったとき、それは笑うべきであるとカントは主張するだろう。

 

 なぜなら、カントの主張によれば、もしもあるものが単にある人だけを満足させることしかできなければ、それを「美しい」と言ってはいけないからである。誰かがあるものを「美しい」と言うとき、その人は、自分以外の人たちにも同じ満足を期待しそれを要求する。

 

 このように、カントは「趣味判断」によって美しいものを自分以外の人間にも要求することができる、と考える。

 

 以上、カントは、「趣味判断」をあるものを「美しい」と判定する判断のことである、と定義した。そして、「趣味判断」には主観的な判断である一方で、あらゆる主観に普遍的妥当性を要求するという特徴を持つことが分かった。

 

 カントは、「趣味判断」を普遍妥当性を要求するものとして特徴づける。その根拠として、カントは「共通感官」という概念を挙げる。次に「共通感官」について検討してみよう。【続く】

 

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考文献】

 

 

【第1回】「趣味判断」について-『判断力批判』に即して-|はじめに【カント道徳哲学】

 

1.はじめに

 今回の目的は、カントの著書である『判断力批判』の中に登場する「趣味判断」(Geschmacksurteil)を検討することである。というのも、「趣味判断」には、カント道徳哲学に関して「不完全義務」(unvollkommene Pflicht)を基礎づける可能性があるからである。

 

 カントは『判断力批判』の中で、われわれの主観的な感覚が普遍的に妥当であるかどうかを模索した。このことが、カントの「不完全義務」を根拠づけられると考えられる。

 

 今回は、「趣味判断」について概要を述べ、さらにその前提となる「共通感官」について探究する。最後に、今回の内容から得られた考察を踏まえ、今後の課題を考えていきたい。

 

 「不完全義務」について、カントはあまり詳しく説明していないが、晩年の著書である『道徳形而上学』の中で、「不完全義務」こそ最も道徳的な義務であると主張している。今回の取り組みが、今後「不完全義務」を明確にするために役立つことを期待する。【続く】

 

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考文献】

 

 

【第5回】カントの「完全義務」と「不完全義務」について|他人に対する不完全義務ー親切の例ー【カント道徳哲学】

 

4.他人に対する不完全義務ー親切の例ー

 最後に、「他人に対する不完全義務」に反する「格率」について検討する。

 

 「われわれが安楽に生活している時、他人が困窮しているならば、その困窮している人に対してわれわれは何ら援助をしない」という「格率」が、普遍的法則としてなり得るかどうかについて、カントは考える。

 

 「自分自身に対する不完全義務」に反する「格率」と同様、確かに、この「格率」も普遍的法則として考えることは可能である。

 

 しかし、この「格率」を普遍的法則としてわれわれが受け入れるならば、われわれ自身と、この「格率」が衝突するとカントは言う。なぜなら、われわれは、どうしても人の助けを借りなければならない状況があるからである。また、われわれが困窮した場合、他人から援助を求めることができる可能性を、自ら奪うことになる。ゆえに、この「格率」を普遍的法則として意欲することはできない。

 

 以上の理由から、この「格率」は普遍的法則となり得ない。

 

 カントのこの「他人に対する不完全義務」の「格率」の中で、持ち出した理由は適切ではない。カントは、「われわれが安楽に生活している時、他人が困窮しているならば、その困窮している人に対してわれわれは何ら援助をしない」という「格率」を採用した場合の不幸な結果を考えて、その反省を促している。

 

 このカントの主張は、カント自身が非難する結果主義に基づいている。

 

 また「他人に対する不完全義務」の説明から考えると、もしもわれわれが困窮しない世界を考えるのであれば、われわれは他人から援助を求めることはないだろうし、他人に援助をしなくてもいいという見方もできる。

 

 カントのこの説明は、ある種「仮言命法」的な説明になっている。

 

 以上、『基礎づけ』でのカントの「不完全義務」についての説明は、上手くいっていない。中でも「自分自身に対する不完全義務」の説明について、何の理由も示すことなく、われわれは自己の才能を開発することを必然的に意欲すると、カントは主張する。このカントの説明には、かなり無理がある。【続く】

 

【第4回】カントの「完全義務」と「不完全義務」について|自分自身に対する不完全義務ー自己実現の例ー【カント道徳哲学】

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

4.自分自身に対する不完全義務ー自己実現の例ー

 

 第3に、「自分自身に対する不完全義務」に反する「格率」について検討する。

 

 カントは、「安楽な状況に身を置いているとき、我々は自己開発を目指すのではなく、むしろ快楽に溺れる」という「格率」が、普遍的法則になり得るかどうかを考えた。

 

 この「格率」が普遍的法則として考えられるかどうかについて、カントは一旦認めることで検討を始めた。

 

 しかし理性的存在者として、われわれはこの「格率」を追求することはできないとして、カントはこの「格率」を即座に拒否した。なぜなら、われわれは自らの才能を開発することを必然的に意欲するからである。

 

 この「格率」は、私たちの必然的な意欲と矛盾するため、カントはこの「格率」が「他人に対する不完全義務」に反すると判断し、普遍的法則として成立しないとした。しかし、カントのこの説明には問題がある。

 

 『基礎づけ』の中で、なぜわれわれは自らの才能を開発することを必然的に意欲するのか、という理由に一カントは切触れていない。

 

 カントによれば、とにかくわれわれは自らの才能を開発することを必然的に意欲するようである。この点で、カントは「自分自身に対する不完全義務」についての説明は、不十分であると考えられる。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【第3回】カントの「完全義務」と「不完全義務」について|他人に対する完全義務ー虚言の例ー【カント道徳哲学】

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

3.他人に対する完全義務ー虚言の例ー

 

 第2に、「他人に対する完全義務」に反する「格率」について検討する。

 

 金に困窮した人が金を返すことができないことを知りながら他人から借金をする、という状況を、カントは設定する。

 

 ここで、カントは「金に困っている時に他人から借金をして、金を返すことが決してできないことを知りながら返済の約束をする」という「格率」が、普遍的法則となり得るかどうかを考える。

 

【参考:カント批判倫理学ーその歴史的・体系的研究】

 

 この「格率」が普遍的法則になり得るかどうかを考えると、カントは「自分自身に対する完全義務」と同様に、この「格率」が自己矛盾を犯すという結論を下す。

 

 なぜなら、もしも「金に困っている」という理由で、誰でも思いついたことを守るつもりもなく約束することができることを普遍的法則として考えるのであれば、約束を約束によって達成することができる目的を、それ自体不可能にするからである。嘘の約束によって誰も何か約束されたとは信じないし、人々はこうした約束を空しい申し出としてあざ笑う。

 

 以上の説明から、この「格率」は「他人に対する完全義務」に反するので、この「格率」は普遍的法則になり得ないとカントは結論づける。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【第2回】カントの「完全義務」と「不完全義務」について|自分自身に対する完全義務ー自殺の例ー【カント道徳哲学】

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

2.自分自身に対する完全義務ー自殺の例ー

 

 第1に、「自分自身に対する完全義務」に反する「格率」について検討する。

 

 カントは、「われわれの生命が快適さよりも災いをもたらす場合、自愛に基づいて生命を短縮する」という「格率」が、普遍的法則となり得るかどうかを考えた。そして、この「格率」は普遍的法則になり得ないと結論づけた。なぜなら、この「格率」を普遍的法則として考えると、自己矛盾に陥るからである。

 

 われわれの感情の本分は、生の促進を図ることである。しかし、自殺を図ることは、われわれの感情が自らの生を破壊することになる。そのため、われわれの感情が一方で生の促進を図り、他方で自らの生を破壊することになる。これは、「思考すること」に関して矛盾していることを示す。ゆえに、この「格率」は普遍的法則になり得ない。

 

 確かに、「自分自身に対する完全義務」について、われわれの感情の本分は、生の促進を図るというカントの前提を検討する余地はあるかもしれない。しかし、自らの生命を維持するために、われわれは睡眠をとったり食事をしたりする必要がある。

 

 このことから考えると、カントがわれわれの感情の本分は生の促進を図ることであるとしたのには、納得できる。

 

 このように、「自分自身に対する完全義務」に反する「格率」を例に、カントはこの義務について説明する。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【第1回】カントの「完全義務」と「不完全義務」について|はじめに【カント道徳哲学】

 

1.はじめに

 

 『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の中で、カントは、「義務」を2種類に分類する。それら2種類の「義務」とは、すなわち「完全義務」と「不完全義務」である。

 

 さらにカントは、この2種類の義務を「自分自身に対する完全義務」、「他人に対する完全義務」、「自分自身に対する不完全義務」、そして「他人に対する不完全義務」の4種類に分ける。

 

 「完全義務」について、カントは「傾向性の利益のための例外を許さない義務」(Ⅳ,421)と定義する。つまり「完全義務」とは、どのような状況や立場にあっても必ず同じように行わなければならない義務を指す。一方、「不完全義務」ついてカントは何の定義づけも行っていない。

 

 それにもかかわらず、カントは「完全義務」と「不完全義務」を更に細分化した4つの「義務」について、それぞれに反する「格率」の例を挙げている。これによって、「完全義務」と「不完全義務」を説明する。

 

 本稿では、筆者はこの4種類の義務に反する「格率」の論証方法に着目する。そして、「完全義務」と対比させながら、「不完全義務」について、カントがどのように説明しているかについて考察する。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考文献】

 

【第4回】道徳法則について-二十規制的構造と「意志」の観点からー|終わりに【カント道徳哲学】

 

終わりに

 今回は、『実践理性批判』での「意志」に着目し道徳法則について考えた。

 

 義務は、少なくとも道徳法則と「意志」との関連性から考察しなければ、「義務」についての確かな理解が得られない。ただ単に「義務」についてのみ考察してみても、「義務」についての確かな理解を得ることはできない。

 

 なぜなら、カントは義務を道徳法則と「意志」概念の関連から「義務」を位置づけているからである。義務は、少なくとも道徳法則と「意志」との関連性から考察する必要性がある。【終わり】

 

<参考文献>

Kant.I,1785:Grundlegung zur Metaphysik der Sitten(邦題:訳注・カント『道徳形而上学の基礎づけ』、宇都宮芳明著、以文社、1989年.).

―――,1788:Kritik der praktischen Vernunft

(邦題:実践理性批判、『カント全集 7』所収、坂部恵・伊古田理訳、岩波書店 、2000年.).

Beck.L.W,1960:A Commentary on Kant’s Critique of Practical Reason(邦題:カント『実践理性批判』の注解、藤田昇吾訳、新地書房、1985年.)

Paton,H.J, 1965: The categorical imperative ‐a study in Kant's moral philosophy(邦題;定言命法 -カント倫理学研究 -、杉田聡訳、行路社, 1986年).

井上義彦,1989:カント「定言命法」のニ重規制的構造(倫理学の基本問題(九州大学哲学会創立25周年記念)、九州大学哲学会編、『哲学論文集』(九州大学哲学会)).

小倉志祥,1972:カントの倫理思想、東京大学出版会

 

注 本稿内で引用する著作はすべてアカデミー版カント全集からであり、引用に際してはその巻数とページ数を記載した。

 

【第3回】道徳法則について-二十規制的構造と「意志」の観点からー|「意志」について【カント道徳哲学】

 

2.「意志」について

 

 「定言命法」の根本法式で、カントはわれわれの格率が普遍的法則となる条件として、その格率が普遍的法則として「考えることができ」そして、「意欲することができる」ということを挙げている。

 

 他方、純粋実践理性の根本法則で、カントはわれわれの「意志」の格率が普遍的法則として妥当することを要求する。「意志」の格率が普遍的法則となるということは、悟性と欲求能力の統一態である「意志」の格率が、理性的側面でも感性的側面でも普遍的法則として妥当しなければならないことを意味する。

 

 このように考えるならば、「定言命法」の根本法式と純粋実践理性の根本法則は、同一のものとみなすことができる。つまり、カントは両方の道徳法則で、われわれの格率が常に普遍的法則として「考えることができ」そして、同時に「意欲することができる」ことを要求している。

 

 「定言命法」の根本法式と、純粋実践理性の根本法則は表現が異なるのは明らかである。しかし、以上の検討結果から「定言命法」の根本法式と純粋実践理性の根本法則は同一のものであるということが考えられる。【続く】