ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【第3回】伝統か差別か|オランダの「クリスマス」と沖縄県の「闘鶏」【動物倫理学】

 

 「前回の記事で、オランダの「クリスマス」と沖縄県の「闘鶏」は、それぞれが「伝統」や「文化」を前提にしていることを述べた。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 倫理学的観点で考えると、オランダの「クリスマス」と沖縄県の「闘鶏」はどう理解できるだろうか。この点について、今回は「ヒュームの法則」を手がかりに考えていく。

 

[内容]

【第1回】オランダのクリスマス 

【第2回】沖縄で行われている「闘鶏」

【第3回】ヒュームの法則-「である」から「べき」は導けない

 

■ヒュームの法則-「である」から「べき」は導けない

 

 「ヒュームの法則」とは、「『である』(事実判断)から『べきである』(価値判断)という判断は導けない」という哲学的命題である。

 

 この法則は、18世紀イギリスの哲学者デイビット・ヒュームが『人間本性論』の中で書いたことをベースに、「メタ倫理学」の中で使われるようになった。

 

【参考:人間本性論】

 

 「ヒュームの法則」について、ヒューム自身が明確に述べたわけではなく、後の哲学者たちが彼の著書『人間本性論』の中での発言を補って解釈し、「『である』と『べきである』は別問題なので、前者から後者を導き出すことはできない」という意味に読まれるようになった。この命題は「メタ倫理学」の中でしばしば引用される。

 

【参考文献:G.E.ムア『倫理学原理』 ※ヒュームの法則とムアの意図は異なる】 

 

 さて「ヒュームの法則」から、オランダの「ズワルトピート」について、次の推論形式が考えられる。

 

【推論1】

[前提] 伝統的に、黒人奴隷を「ズワルトピート」として利用してきた。(事実判断)

[結論] 黒人奴隷を「ズワルトピート」として扱うことが伝統であるという事実から、それを継続してよいし、扱うべきである。(価値判断)

 

 同様に、沖縄県の「闘鶏」についても、次の推論形式が考えられる。

 

【推論2】

[前提] 伝統的に、軍鶏を「闘鶏」として利用してきた。(事実判断)

[結論] 今後も、軍鶏を「闘鶏」として扱ってよいし、扱うべきである。(価値判断)

 

【推論1】も【推論2】も、「事実判断」を前提として「価値判断」を導く構造である。

 

 結論は、前提によって立証されなければならない。2つの事例を並べて考えると、【推論1】の前提が【推論2】を支持するようになっていない。つまり、オランダの「ズワルトピート」と沖縄県の「闘鶏」においても、「伝統」や「文化」という事実判断から「べきである」という価値判断を論理的に導くことはできない

 

 「伝統」や「文化」を理由に、「ズワルトピート」や「闘鶏」を容認する見方には、論理の飛躍があるかもしれない。そのため、【推論1】や【推論2】には、もうひとつ何か暗黙の前提があるかもしれない。

 

 ヒュームによれば、道徳は理性から導かれないが、感情に由来する。そのため、【推論1】と【推論2】の間に何らかの感情的な要素が含まれている可能性がある。

 

 「人種差別」や「種差別」だけでなく、様々な価値観の中に論理の飛躍は隠れている。「ヒュームの法則」を意識することで、「動物倫理学」はもちろん様々な倫理的問題を新しい視点で捉え直すことができるだろう。【終わり】

 

↓ヒュームの法則に関して次の文献も参考。↓

 

↓次の記事も参考.↓

pyrabital.hatenablog.com

【第2回】伝統か差別か|オランダの「クリスマス」と沖縄県の「闘鶏」【動物倫理学】

 

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写真出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

 前回の記事で、「伝統」や「文化」を前提に人間や人間以外の動物の権利を傷つけることは容認できるだろうかという問題提起を行った。この問題に関して、オランダの「クリスマス」について取り上げた。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 「伝統」や「文化」を理由に、オランダの「ズワルトピート」と同様の構造が、人間以外の動物でも見られる。人間以外の動物を「娯楽」目的で不当に扱う事例は、世界各国に未だ数多く存在する。そのような事例のひとつとして、今回は沖縄県の「闘鶏」を取り上げたい。

 

[内容]

【第1回】オランダのクリスマス 

【第2回】沖縄で行われている「闘鶏」

【第3回】ヒュームの法則-「である」から「べき」は導けない

 

■沖縄で行われている「闘鶏」

 

 「闘鶏」は、軍鶏(シャモ)を飼育し、蹴爪を切って飼育管理することから「タウチー」と呼ばれる沖縄県の伝統文化である。「闘鶏」は、沖縄県各地で毎週開催されており、一部ではこの伝統文化を「タウチーオラセー」と呼んでいる。

 

 「闘鶏」の負けた軍鶏は、豚のエサにするか縛って畑や人に見られない場所に遺棄することがある。また、薬を飲ませて強制的に闘わせるため、軍鶏自体が食用に適さない状態になってしまうため、食用にすることはほとんどない。

 

 「闘鶏」に反対されると、周囲に見られないように隠れて遺棄されるのが現状である。足や羽を縛られ、エサ袋に入れられたり、誰も気付かない草むらに捨てられる。生命力が非常に強い軍鶏は、長時間苦しんで死に至る。

 

 「闘鶏」として利用できるのはオスの鶏である。大量にふ化させ、雌雄の識別ができた頃、「闘鶏」に利用できないメスは殺処分される。

 

【参考:沖縄で行われいる闘鶏の真実】

 
沖縄の行われている闘鶏の真実

 

「闘鶏」でケガを負った鶏が捨てられる事案は、県内各地で相次いでいる。この事実を受けて2019年11月に「闘鶏禁止」条例の陳情書が、糸満市議会に提出された。この陳情書を提出したのは、市内で「闘鶏」で負傷し遺棄されたとみられる鶏を保護している本田京子さんである。

 

 残念ながら不採択となったが、『琉球新報』によれば、「諦めず、みなで議論を深めていきたい」と陳情者の本田さんは述べた。

 

 記事によれば、「闘鶏を禁止すれば、闘牛やヒージャーオーラセー(闘山羊)にも議論が及び、沖縄文化の否定につながる可能性があると、みんなが恐れているのだと思う」と、本田さんは今回の不採択となった理由を分析している。

 

【参考:琉球新報(2020年9月30日)】

ryukyushimpo.jp

 

 「闘鶏」を容認し継続する住民もいる理由は、「伝統」や「文化」だけでなく、「娯楽」や「経済」など複数ある。また、沖縄県は「闘牛」や「闘山羊」など、人間の「娯楽」目的で動物を使用する伝統的な事例が多いことも事実である。

 

 日本には、古くから「闘犬」や「闘牛」などの伝統文化が、様々な地域に存在する。外国でも人間の「娯楽」のため、「伝統」を理由に、人間以外の多くの動物たちが犠牲になっていることは確かである。

 

 人間にしろ動物にしろ、「伝統」や「文化」を理由に不当に扱うことは果たして容認できるだろうか。次回、その問題について「ヒュームの法則」を参考に考察する。【続く】

 

↓参考にしたHP↓

chickenhausu.amebaownd.com

arcj.org

 

※2020年9月29日「沖縄タイムス」HPより

「闘鶏の禁止を」陳情不採択 「文化ではなく賭博だ」との指摘も 糸満市議会 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

【第1回】伝統か差別か|オランダの「クリスマス」と沖縄県の「闘鶏」【動物倫理学】

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

 人間であっても、人間以外の動物であっても、「伝統」や「文化」という固有の価値観に基づいて、人間やその他の動物を差別的に扱うケースがある。このような行為によって、地域や特定の集団の「文化的アイデンティティ」を維持しようとする場合も少なくない。

 

 しかしながら、「伝統」や「文化」を理由にして、人間や人間以外の動物の権利を侵害することは容認できることではない。この点について、オランダの「クリスマス」や沖縄県の「闘鶏」を例に考えてみることができる。

 

[内容]

【第1回】オランダの「クリスマス」 

【第2回】沖縄で行われている「闘鶏」

【第3回】ヒュームの法則-「である」から「べき」は導けない

 

■オランダの「クリスマス」 

  2019年12月21日、NHKニュースでオランダの「クリスマス」に関する話題を目にした。

 

 オランダは毎年11月半ばから12月初めまで、サンタクロースの原型と言われる「シンタクラース」が開催される。サンタクロースのお手伝いである「ズワルトピート」(※)は、黒人奴隷が起源とされる。番組によれば、そのあり方がオランダ国内で大きな論争になっている。

 

【参考:「ブラック・ピート」の顔色が変わる オランダ ※NHK「ニュース」とは異なる内容】


www.youtube.com

 

 この番組の中で、移民してきた若い黒人活動家が、デモなどで「反対」の意志を表明する様子が紹介された。

 

 この伝統行事について、「伝統」の継承か「差別」の撤廃かという構図が読み取れた。オランダに限らず、世界各地には人権擁護という観点から疑問視される行事や風習が存在する一方で、「伝統」や「文化」を理由に現代でも受け継がれている場合もある。

 

 「伝統」の継承か「差別」の撤廃かという問題は、動物倫理学の中でも見られる。「伝統」の継承を理由に、「闘犬」や「闘牛」など「娯楽」の道具として人間以外の動物たちが長年、不当に扱われてきたという事実がある。

 

 この視点を踏まえ、沖縄県での「闘鶏」を事例にこの問題について考えていきたい。【続く】

 

(※)シンタクラースの侍従で、16世紀の貴族の衣装に基づく服を着ている。しばしばレースの襟と羽飾りのついた帽子で飾り立てている。ズワルトピートが発生したのは18世紀のことである。 初めて印刷物に現れたのは、1850年アムステルダムの教師ヤン・スケンクマンが発行した Sint-Nikolaas en zijn knecht (『聖ニコラスとその従者』)の中で聖ニコラスの名無しの従者として出てきたものである。 しかし、ズワルトピートの伝統は少なくとも19世紀の初頭にまでさかのぼることが出来る。(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)より引用)

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

【カント道徳哲学】カント「不完全義務」の誤解の原因|2つの事例

 

  カントの「不完全義務」という考え方は、応用倫理学の中で取り上げられる。中でもボランティアや介護などについて倫理学的に議論する場合、「不完全義務」という考え方は引き合いに出される。

 

 しかし、『道徳形而上学ので基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)で、カントは「不完全義務」への定義づけを明確に行っていない。その結果、不明瞭な理解のまま、多くの論者が「不完全義務」について語っている。今回はその事例を2つ取上げる。

 

1.ペイトンの事例ー「不完全義務」は「傾向性」に都合のよい例外を許す

 

 「不完全義務」を、われわれの傾向性に都合のよい例外を許す、ということが示唆されているとペイトンは解釈する。

 

【参考:The Categorical Imperative】

The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy

The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy

  • 作者:Paton, H. J.
  • 発売日: 1971/10/01
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 ペイトンによれば、われわれは「不完全義務」の「格率」にどんな方法で、またどこまで従うのかを、恣意的に決定する権利を持つ。

 

 ただし、われわれはその「格率」を捨てる自由はなく、単に別の「義務」の「格率」によってそれを制限する自由があるだけである。例えば、隣人への仁愛の「義務」が両親への同じような「義務」によって、制限される場合である。

 

 確かに、ペイトンが出した事例は『人倫の形而上学』でカントが示した事例である。

 

 だからといって、「不完全義務」はわれわれの「傾向性」に都合のよい例外を許す、というわけではない。つまり、「不完全義務」はそれぞれ個人の「傾向性」のために行ってもいいし行わなくてもよい「義務」であるということではない。

 

 もしもそうであるならば、カントの「義務」への定義からも反するし、「定言命法」が提示する普遍化可能性からも反する。

 

2.川島秀一の事例ー「不完全義務」は不作為を例外として許す「義務」である

 

 川島秀一によれば、「不完全義務」はその義務の不作為が悪徳でなく、単に徳の欠如の意味で「ゼロ」としての不徳である。

 

【参考:カント倫理学研究】

カント倫理学研究―内在的超克の試み (西洋思想叢書)
 

  

 だから、「不完全義務」はその不作為を例外として許す義務である。総括的にいえば、「完全義務」は、人間性の尊敬を毀損するものから防衛して保存することによって、道徳的世界の成立のため、不可欠な自他の主体的基礎を確保する。

 

 一方、「不完全義務」は、その主体としての人間が、人間性の形式目的の下に企投する道徳的世界で、実質的に志向すべき豊かな実質的諸目的を積極的に規定する。この川島の解釈によると、確かに「不完全義務」の中に何らかの程度問題を見出すことができる。

 

 しかし、ペイトンの場合と同様、だからといって「不完全義務」はその不作為を例外として許す「義務」である、ということにはならない。

 

3.カント「不完全義務」誤解の原因は「完全義務」の定義による

 

 これら誤解の原因は、カントが「完全義務」を次のように定義したことに拠る。すなわちその定義とは、「完全義務」は「傾向性のために何ら例外を許さない義務」である、ということである。

 

 「完全義務」と「不完全義務」は対立した考え方であることから考えると、「不完全義務」をわれわれの「傾向性」のために、何らかの例外を許す義務であると定義したくなるのも無理はない。しかしこのように考えてしまうと、カントの道徳哲学への本来の目的から離れてしまう。

 

 『基礎づけ』の序文で、カントは「道徳性の最上の原理を探求し、それを確定すること」(Ⅳ,392)を自らの目的とする。その過程で、カントはわれわれの「常識」から「義務」を取り出し、「命法」を「仮言命法」と「定言命法」に分類した。そして「定言命法」は、「普遍可能性」を要求している。

 

【参考:コミュニケーション理論の射程】

 

  

 このカントの立場からから考えてみても、「不完全義務」をわれわれの「傾向性」のために何らかの例外を許す「義務」とは考えにくい。

 

まとめ

 

 このように、カントの「不完全義務」は誤った理解のまま今日まで至っている。その誤解の原因はカント自身にある。

 

 しかし、われわれは少ない手がかりを頼りにカントの「不完全義務」を改めて解釈し直さなければならない。その作業が、カント道徳哲学の発展に繋がるし、現代の倫理学に関してもカントの議論が有効な手がかりになることを示唆することができる。【終わり】

 

↓その他参考文献↓

【地域猫活動】TNRに行ってきた(2019年7月6日)

 2019年7月6日に、TNR活動に参加。その模様を、写真と共に紹介する。

 

 

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 とある県の、とある島。古い集落が、今も残るのどかな田園地帯。(遺棄する恐れがあるので場所は伏せる)

 

 早く集合場所に着いてしまったので、しばらく周囲を散策。

 

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 ヤギを発見。夕方近く、この地域にヤギの鳴き声だけが聞こえる。本当に、のどかだ。

 

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 夕方、5時前。そろそろネコたちも、行動開始か。畑を横切る、1匹の白ネコ発見。

 

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 集合場所。今回捕獲する地域の確認など、打ち合わせ。ゲージの準備を行う。

 

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 最初の訪問先に、到着。

 

 「かわいくてエサをあげていたらだんだんネコが増えてきた。困ってます」という、お宅。われわれに警戒心を持つも、家の人にはなついている。

 

 家主の協力で、すんなり8頭捕獲。目標の半分、達成。

 

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 気がつくと、日が暮れてしまった。目標の15頭捕獲\(^o^)/

 

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 捕獲され、怯えている模様。シーツなどでゲージを覆い、恐怖心を和らげる。

 

 他のグループも、スムーズに捕獲成功。頭数が多く後日、再び捕獲に行くことを確認。

 

【その後の流れ】

・翌日指定された動物病院で去勢・不妊手術

・手術後元の場所に返す。

 

 

↓参考:公益財団法人どうぶつ基金HP↓

www.doubutukikin.or.jp【終わり】

 

↓参考文献↓

【第4回】カント道徳哲学での道徳的主体と他者との関係性について|終わりに【カント道徳哲学】

 

4.終わりに

  今回は、カントの道徳哲学の書である『基礎づけ』や『人倫の形而上学』と、『判断力批判』で語られる他者について検討した。

 

 その結果、『基礎づけ』や『人倫の形而上学』では、道徳的主体である自己に主眼が置かれていることがわかった。他方、『判断力批判』では、他者との関係性を認めていることがわかった。この時点で、問題が生じる。すなわち、カントが考える他者とは一体誰のことを指すのか、ということである。

 

 牧野や中島義道らは、カントの他者とは実在する他者を意味すると主張する。他方、新田孝彦や加藤らはカントが考える他者とは実在する他者ではなく、むしろ自己の延長線上に位置する他者であると主張する。新田や加藤らは、カントの考えを独我論的であるとして非難する。

 

 どの立場に立つかによって、カント哲学にへの見方は大きく変わる。この問題は早急に結論を下さなければいけない。なぜなら、この問題は「不完全義務」(unvollkome Pfricht)の概念にも直接影響を与えるからである。

 

 「不完全義務」について考える際にも、この問題は、是非クリアーしなければならない。【終わり】

 

【第3回】カント道徳哲学での道徳的主体と他者との関係性について|拡張された考え方の格率【カント道徳哲学】

 

 

3.拡張された考え方の格率 

 

  『基礎づけ』や『人倫の形而上学』で、カントは他者よりも、道徳的主体である自己を問題にしていた、ということが分かった。

 

 一方、『判断力批判』で、他者との関係性をカントは積極的に認める。カントは『判断力批判』の中で、普通の人間悟性つまり常識の格率として、3つの格率を挙げる。

 

 1つ目は、自分で考えることである。それは、「偏見にとらわれない考え方の格率」と呼ばれる。2つ目は、他のあらゆる立場に立って考えることである。それは、「拡張された考え方の格率」と呼ばれる。3つ目は、いつも自分自身と一致して考えることである。それは、「首尾一貫した考え方の格率」と呼ばれる。

 

 『判断力批判』の中で、他者との関係性を読み取ることができる格率は、2つ目の格率つまり「拡張された考え方の格率」である。なぜなら、他のあらゆる立場に立って考えるということは、自己を離れて他者の身になって考えるということだからである。この格率の中で、カントは他者との関係性を念頭に置いていたことが考えられる。

 

 牧野英二によると、「拡張された考え方の格率」を達成するためには、自己と他者との「立場の交換」が必要になる。もしもある普遍的な立場を獲得できるのであれば、複数の判断主体の中で採用されるそれぞれの異なる立場の交換を捨てることはできない。それは、普遍的な制約に基づく理性的な判断によって実現できる、普遍的な自我の拡大ではない。

 

 むしろ「拡張された考え方の格率」を達成することは、複数の他者の立場との違いをどこまでも承認しつつ、しかもすべての他者へと身を移すことによって可能になる。

 

 牧野のカント解釈では、カントが考える他者とは自我の拡大によって現れる他者ではなくて、むしろ実在する他者である。この点について、牧野のカント解釈を後で検討する必要はあるだろう。いずれにしろ、『判断力批判』の中に登場する「拡張された考え方の格率」から、カントが他者との関係性を念頭に置いていたと考えられる、ということは確かである。

 

 以上、カントは『判断力批判』の中では他者との関係性を認めているということが分かった。それは『判断力批判』の中に登場する格率、つまり「拡張された考え方の格率」によって示すことができた。【続く】

 

【第2回】カント道徳哲学での道徳的主体と他者との関係性について|虚言について【カント道徳哲学】

 

2.虚言について

  

 『基礎づけ』の中でカントは「義務」(Pflicht)を4種類に分類する。それは「自分自身に対する完全義務」、「他者に対する完全義務」、「自分自身に対する不完全義務」そして「他者に対する不完全義務」である。

 

 「他者に対する完全義務」の反例として、カントは「虚言」を例に挙げる。一方、『人倫の形而上学』の中で、カントは「虚言」を「自分自身に対する完全義務」の反例として挙げる。

 

 「虚言」とは、口に出して言うことと心の中で思うことが異なるものである、とカントは定義する。そして「虚言」を、2種類に分類する。すなわち、他人に対して行う「外的な虚言」と、自分自身に対して行う「内的な虚言」である。「虚言」を2種類に分類したところで、カントは以下のように述べる。

 

 「外的な虚言」によって、人間は他人の目によって自己を軽蔑の対象とする。他方、「内的な虚言」では、自分自身の目によって自己を軽蔑の対象とする。

 

 さらに「内的な虚言」によって、われわれは自己自身の人格での人間性の尊厳を毀損する。虚言は自己の人間としての尊厳の放棄であり、いわばそれを撤廃することである。自分が他人に語ることを自ら信じない人間は、彼が単に物件であるに過ぎない場合よりも、さらに一層少ない価値を持つ。

 

 以上のように、『人倫の形而上学』の中でカントは、「虚言」は自己の人間としての尊厳の放棄であり、いわば自分自身の尊厳を撤廃することであると主張した。

 

 ここで、カントは「虚言」を「自分自身に対する完全義務」に反するものとして考えている。『基礎づけ』で、カントは「虚言」を「他者に対する完全義務」の反例として位置づける。

 

 しかし、加藤泰史によると、それは例外である。『人倫の形而上学』や『倫理学講義』では、カントは「虚言」を一貫して「自分自身に対する完全義務」の反例と捉えている。

 

 また、『人倫の形而上学』の中で、カントは「自分自身に対する義務」は、「他者に対する義務」よりも優先させなければならないと述べる。この箇所を要約すると、次のようになる。

 

 もしも「自分自身に対する義務」が存在しないのであれば、「義務」はどこにも存在しない。なぜなら、私が他人に対して「義務」を課せられていると認めることができるのは、私が同時に自分自身に対して「義務」を課すときだけだからである。

 

 というのも、私に「義務」を課すと、私自身が思う法則はあらゆる場合、自分自身の実践理性から発するものだからである。その実践理性によって、私は強要されるが、それと同時に、私は自分自身についても強要される。

 

 このように、「自分自身に対する義務」は、「他者に対する義務」よりも優先する。それだけでなく、「自分自身に対する義務」はあらゆる「義務」の基礎として位置づけられる。というのも、自分自身に「義務」を課すとわれわれが思う法則は、われわれ自身の実践理性から生じるからである。

 

 以上のように考えると、カントは自らの道徳哲学の中で他者を問題にするよりも、むしろ道徳的主体である自己に焦点を当てている、ということになる。つまり、カントが自らの道徳哲学の中で問題の中心としたのは、他者ではなく、道徳的主体である自己だったのである。  【続く】 

 

【第1回】カント道徳哲学での道徳的主体と他者との関係性について|はじめに【カント道徳哲学】

 

1.はじめに

 

 カントは、われわれの理性から普遍的な道徳法則を導き出す。この普遍的な道徳法則が、「定言命法」(Imperative Gesetz)である。カントの全体的な説明の仕方から考えると、一見、カントは自己から出発して自己の内部だけで道徳的なあり方を模索しているように思われる。しかし、カントは必ずしも他者を無視したわけではない。

 

 『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)や『人倫の形而上学』の中で、問題にしているのは、主に道徳的主体である自己である。ここでは、他者についてあまり問題にしていない。

 

 一方、『判断力批判』では、自己と他者との関係性をカントは念頭に置く。つまり『基礎づけ』や『人倫の形而上学』と『判断力批判』では、カントの主眼が違う。

 

 今回の目的は、カントの道徳哲学の書である『基礎づけ』や『人倫の形而上学』と、『判断力批判』で語られる他者について検討することである。そのため、以下の手順で議論を進める。

 

 第1に、『人倫の形而上学』で説明されている「虚言」について検討する。『基礎づけ』では、「虚言」を「他者に対する完全義務」の反例として扱う。

 

 他方、『人倫の形而上学』では、「虚言」を「自分自身に対する完全義務」の反例として扱う。また『人倫の形而上学』では、「自分自身に対する義務」は「他者に対する義務」よりも、優先させるべきである、とカントは述べる。

 

 このことから、カントは自らの道徳哲学の中で他者を問題にするのではなく、むしろ道徳的主体である自己を問題にしたということを指摘する。

 

 第2に、『判断力批判』で登場する3つの格率を取り上げる。『判断力批判』の中で登場する格率とは、次の3つである。1つ目は、自分で考えることである。それは、「偏見にとらわれない考え方の格率」と呼ばれる。

 

 2つ目は、他のあらゆる立場に立って考えることである。それは、「拡張された考え方の格率」と呼ばれる。

 

 3つ目は、いつも自分自身と一致して考えることである。それは、「首尾一貫した考え方の格率」と呼ばれる。

 

 特に、2つ目の格率を検討することで、カントはここで他者との関係性を念頭に置いているということを指摘する。

 

 今回の目的が上手く達成できるのであれば、『基礎づけ』や『人倫の形而上学』での他者の扱い方と、『判断力批判』での他者の扱い方が明確になるだろう。それでは、それぞれで扱われる他者について検討してみよう。【続く】 

 

【第4回】「趣味判断」について-『判断力批判』に即して-|結びにかえて【カント道徳哲学】

 

4.結びにかえて

 以上、「趣味判断」について検討してきたが、『判断力批判』に即して「不完全義務」についても考察する必要がある。また、今後は「趣味判断」と道徳との関わりについても検討が必要になってくるだろう。

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 宇都宮芳明によると、『判断力批判』の最終課題は、人間の認識能力、快不快の感情、欲求能力という3つの「心の能力」を、個別に放置せずに総合的に統一することである。そのため、美的な判断と道徳的な判断は関連していると考えられる。

 

 また『判断力批判』の検討と同時に、『美と崇高の感情に関する観察』や『人間学』も検討する必要がある。特に『美と崇高の感情に関する観察』には、美と道徳についての記述が含まれている。このように、今後は広範囲にわたるカント研究が必要になってくるだろう。

 

 「不完全義務」は、カント道徳哲学の中で重要な概念であり、一定の理解が必要である。ただし、その理解には『道徳の形而上学の基礎づけ』や『実践理性批判』、『道徳形而上学』といった、カント道徳哲学の諸著作に加え、幅広い哲学的知識が必要となることがある。これまで以上に広い視野を持って、様々な分野の知識を統合的に学ぶことが、カント研究の発展に不可欠であると考えられる。【終わり】

 

 

【参考文献】