ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【抄訳と訳注④】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • University of California Press
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5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性(p.176)

 

 Kant believes the two formulation of the categorical imperative given in the above are equivalent.He is committed to thinking this because he believes that there is only one supreme principle of molality, not several. 

 

[訳]

 上記の定言命法の2つの法式化は同等であるとカントは考える。いくつかではなく、唯一最上の道徳原理だけがあると彼は確信するので、カントはこのように考える。

 

[訳注]

 「定言命法」(the categorical imperative) の2つの法式(注1)、つまり「根本法則の法式」(the Formula of Universal Low)(注2)と、「目的それ自体の法式」(the Formula of  End in Itself)(注3)は同等である。「唯一最上の道徳原理だけ」(only one supreme principle of molality)が、存在する。

 

He believes that any act whose maxim fails to pass the test of universalizability (the Formula of Universal Low) also fails the test of End in Itself, and vice versa, and that act whose maxims pass the former test also pass the latter, and vice versa.

 

[訳]

 普遍化可能性のテスト(根本法則の法式)に合格しない格率の行為すべても目的それ自体のテストに不合格であり、その逆も同様であり、前者のテストに合格する格率の行為も後者に合格し、その逆もあるとカントは考える。

 

[訳注]

 「根本法則の法式」に妥当し得ない「格率」(maxim)の行為すべては「目的それ自体の法式」にも妥当し得ないのであり、その逆も同様である。「根本法則の法式」に妥当し得る格率の行為も「目的それ自体の法式」に妥当し得るし、その逆も同様である。

 

There is no act, he thinks, that passes (or fails) one of the tests without also passing (or failing) the other. This assumed equivalence between the two formulation of the categorical imperative will occupy our attention at the conclusion of our discussion of Kant’s position.

 

[訳]

 テストのひとつに合格(または失敗)しても、もうひとつに合格(または失敗)しない行為は存在しないとカントは考える。定言命法の2つの法式化の間で想定された同等性は、カントの立場の議論の結論に対してわれわれの注意を引くだろう。

 

[訳注]

定言命法」の「根本法則の法式」に「格率」が妥当し得るのであれば、「目的それ自体の法式」にも妥当し得る。また、[定言命法」の「根本法則の法式」に「格率」が妥当し得ないのであれば、「目的それ自体の法式」にも妥当し得ない。このように、「定言命法」の「根本法則の法式」と「目的それ自体の法式」の中に「想定された同等性」(assumed equivalence)がある。このカントの結論は、われわれの注目に値する。【続く】

 

(注1) レーガンは、ペイトンの「定言命法」の法式化を踏襲していると考えられる。

 

【参考:The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy】

 

(注2) 「汝の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従って行為せよ。」(Ⅳ,421)

 

(注3)「人間および一般にあらゆる理性的存在者は、目的それ自体として現存し、あれこれの意志によって任意に使用される手段としてのみ現存するのではなく、自分自身にむけられた行為においても、他の理性的存在者にむけられた行為においても、あらゆる行為においてつねに同時に目的として見られなければならない。」(Ⅳ,428)

 

【参考:道徳形而上学の基礎づけ】

 

「普遍化可能性」について次の文献も参照。

 

※誤訳や認識不足などございましたら、コメント欄に書き込みして頂けると幸いです。

 

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【抄訳と訳注③】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
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5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性(p.175ーpp.176)

 

The immorality of making a deceitful promise also can be illuminated, Kant thinks, by viewing it against the backdrop of the kind of value moral agents possess. As was mentioned earlier, the worth of rational beings does not rule out the permissibility of making use of their skills or services.It does rule out treating them as if they had no value over and above the use we can make of them. 

 

[訳] 

 カントが考えているように、道徳的主体がどのような価値を持っているかということを背景にして考えることによって、偽りの約束をすることの不道徳さは明らかにもされる。先に述べたように、理性的存在者の価値は彼らの技術やサービスを利用することを許さないわけではない。そのことは、まるでわれわれが彼らを利用できる以上の価値がないかのように彼らを扱うことを認めない。

 

[訳注]

 「道徳的主体」(moral agents)である「理性的存在者」(rational beings)は、「目的それ自体」(End in itself )である。その背景を考えると、「偽りの約束をすること」(making a deceitful promise)は不道徳である。ただし「理性的存在者」が持つ技術やサービスを利用することは、必ずしも不道徳的であるとは限らない。

 

 This is something I am guilty of, for example, whenever I withhold information from moral agents that is relevant to their making a rational judgment because I stand to gain from their ignorance.

 

[訳]

 知らないことで私が得をするという理由で、道徳的主体が理性的な判断を下すのに必要な情報をその人に教えないことがある。例えば、私は彼らの無知から得をするので理性的判断を下す道徳的主体から情報を抑えるならいつでも、このことは私が犯している罪である。

 

[訳注]

 「知らせない」ことで得をする理性的判断(a rational judgment)を下すことは、罪(guilty)である。以下、レーガンによる具体例が登場する。

 

For example, if I were to promise Ann that I will return the money I want to borrow from her, but withheld from her my intention not to repay, then I would be keeping from her information that is relevant to her making a rational judgment about whether to lend me the money. 

 

[訳]

 例えば、私がアンに「借りた金を返す」ことを約束するが、しかし「返さない」という自分の意図を彼女に隠しているならば、私は彼女がお金を貸すかどうかについて理性的判断を下すことに関する彼女の情報を隠すことになるだろう。

 

[訳注]

 「知らせない」ことで得をする理性的判断の具体例である。私がアン(Ann)に「借りた金を返す」ことを、約束したと仮定する。しかし「返さない」という自分の意図を隠しているならば、アンにその情報を隠していることになる。

 

And I do this because I stand to be the beneficiary of her ignorance. (Were she to know of my intention never to repay, she probably would not lend.) In this way, then, I treat Ann as if she were a mere thing. To treat her in this way, Kant believes, is wrong.  For we are always, he writes, ”to treat humanity, both in(our) own person and in the person of every other, always as an end, never as a means merely.” This, the second formulation Kant gives of the categorical imperative, is referred to as the Formula of End in itself.

 

[訳]

 彼女の無知の受益者という立場にあるので私はこのことを行う。(決して返さないという私の意図を知っていたら、彼女は恐らく貸さないだろう。)このように、私はアンをまるで単なる物件であるかのように扱う。カントは確信するが、このように彼女を扱うことは間違っている。というのもカントは書いているが、われわれはいつも「われわれの人間性も他人の人間性も決して単に手段としてではなく目的として人間性を扱わ」なければならないからである。これはカントが定言命法について示す第2法式であり、「目的それ自体の法式」と呼ばれる。

 

[訳注]

 ここで、彼女は無知の受益者(the beneficiary of her ignorance)という立場にある。しかし「借りた金を返さない」という意図を知るならば、彼女は恐らく私に金を貸さない。この場面で、アンを「単なる物件」( a mere thing)であるかのように私が扱っていることになる。カントによれば、「道徳的主体」は「目的それ自体」である。この点から考えると、彼女を「単なる物件」として扱うことは間違っている。われわれは、自他共に「つねに同時に目的として扱わなければならない」(Ⅳ,428)。

 

【参考:道徳形而上学の基礎づけ】

 

 この「定言命法」(the categorical imperative)に関する第2法式(the second formulation)は、「目的それ自体の法式」(the Formula of End in itself)と呼ぶ。【続く】

 

【参考:The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy】

 

※誤訳や認識不足などございましたら書き込みして頂けると幸いです。

 

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【抄訳と訳注②】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

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5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性(p.175)

 

  What Kant calls the “categorical imperative” is, he believes, the correct principle for determining how imperfect rational beings ought to treat themselves or one another. 

 

 [訳]

 カントが「定言命法」と呼ぶものは、彼が確信しているように、不完全な理性的存在者が自分自身または他者をどう扱うべきかを決定するための正しい原則である。

 

[訳注]

 「定言命法」は不完全な「理性的存在者」(rational beings)が自分自身または他者をどう扱うべきかを決定する原則である。不完全な「理性的存在者」が意味するのは、われわれ人間が「叡知界」(intelligibele Welt)と「感性界」(Sinnenwelt)に属すということである。

 

In the case of my interactions with other moral agents, what the categorical imperative requires of me, as was noted in the earlier characterization of Kant’s views, is that I never make an exception for myself by acting on reasons I could not will that every other rational being could act on. 

 

 [訳]

 他の道徳的主体と私との関係で、定言命法が私に要求することは、先にカントの見解で説明したとき述べたように、他のすべての理性的存在者が行動できるのに、私が意欲できない理由で行動して、自分のために例外を作ってはならないということである。

 

[訳注]

 「定言命法」が要求することは自分のために例外を作ってはならない点である。ここに、カントが「定言命法」の「普遍化可能性」の目線を維持しているとレーガンも認識していることが窺える。

 

For example, I cannot make a deceitful promise, hoping to benefit from the deceit, and universalize my reasons (what Kant calls my “subjective maxim”), since if all moral agents were to do what I aspire to do, then no one would believe such promises when they were made. 

 

 [訳]

 例えば私は偽りの約束をできないし、その偽りから利益を得ようと考え、そして自らの道理(カントが「主観的格率」と呼ぶもの)を普遍化することはできない。なぜなら、もし道徳的主体すべてが私の求めることを行うならば、そのような約束をしても誰も信じないからである。

 

[訳注]

 例えば「偽りの約束」(a deceitful promise)はできないし、その偽りから利益を得ようと考える「主観的格率」(subjective maxim)は普遍化できない。「道徳的主体」すべてはそのような約束をしても信じない(注1)

 

If I were to universalize the exception (making a deceitful promise), I would destroy the rule (the making of reliable promises). Thus, am I unable to universalize my reasons for making my deceitful promise, and thus is wrong to make it.

 

 [訳]

 もし例外(偽りの約束をすること)を普遍化するならば、私は規則(信頼できる約束をすること)を破壊することになるだろう。それで偽りの約束をする自分の道理を普遍化することはできないし、それを行うことは間違っている。

 

[訳注]

 もし「偽りの約束をする」(making a deceitful promise)という「格率」(maxim)を普遍化するならば、私は「信頼できる約束をする」(the making of reliable promises)という「格率」を破壊することになる。したがって偽りの約束をする自分の道理を普遍化できない(注2)

 

To insure that I do not do what is wrong, I must abide by the first formulation of the categorical imperative, the Formula of Universal Law: ”I ought never to act except in such a way that I can also will that my maxim should become a universal law.”

 

 [訳]

 誤ったことをしないようにするため、「定言命法」の第1法式、つまり「自分の格率が普遍的法則になると意欲できる方法以外では決して行動すべきではない」という普遍的法則の法式に従わなければならない。

 

[訳注]

 「偽りの約束」のような誤りをしないため、「定言命法」の「普遍的法則の法式」つまり「自分の格率が普遍的法則になると意欲できる方法以外では決して行動すべきではない」に、われわれは従わなければならない(注3)。【続く】

 

(注1) Ⅳ,422 参照。

 

(注2) 井上,1989 参照。

catalog.lib.kyushu-u.ac.jp

(注3) Paton,1971 参照。

 

※誤訳や認識不足などございましたら、指摘頂けると幸いです。

 

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【抄訳と訳注①】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

The Case for Animal Rights

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5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性(p.174-pp.175)

 

 Unlike Rawls, whose views on our duties regarding animals are unclear at best, Kant provides us with an explicit statement of indirect duty view. That Kant should hold such a view should not be surprising ; it is a direct consequence of his moral theory, the main outlines of which may be briefly, albeit crudely, summarized for a second times .(see 4.5)

 

[訳] 

 動物に対する義務についての見解が不明確なロールズとは異なり、カントはわれわれに間接義務の明確な主張を提示する。このような見解をカントが持っていることは驚くべきことではない。それは彼の道徳理論の直接的な帰結であり、その主な概要は、大雑把ではあるが、2度(4.5を参照)要約されている。

 

[訳注]

 動物に対する義務を「間接義務」(indirect duty)(注1)であると、カントは主張する。それは、彼の道徳理論の直接的帰結である。この概要は、本書4.5を参照。

 

On Kant`s view, rational beings, by which he means moral agents, are ends in themselves (have, that is, independent value, or worth, in their own rights, quite apart from how useful they happen to be to others) .As such, no moral agent is ever to be treated merely as a means. 

 

[訳] 

 カントの見解では、彼が道徳的主体を意味する理性的存在者は目的それ自体である(つまり、他人に起こることがどのように役立つかということと別に、自分の権利の中の独立した価値、または重要性を持つ)。このように、道徳的主体が単に手段として扱われることは決してない。

 

[訳注]

 カントが「道徳的主体」(moral agents)を意味する「理性的存在者」(rational beings)は、「目的それ自体」(ends in themselves)である。「道徳的主体」は、単に「手段」(means)として扱われることはない。

 

This is not to say that we may never make use of the skills or services of moral agents in their capacities as, say, machines, plumbers, or surgeons. It is to say that we most never impose our will, by force, coercion, or deceit, on any moral agent to do what we want them to do just because we stand to benefit as a result. 

 

[訳]  

 これは例えば、機械、配管工、外科医のように、道徳的主体の技術やサービスを決して利用してはならないということではない。結果として、自分が利益を得ることになるからといって、自分の意志を、力、強制、または欺瞞によって、道徳的主体に押し付け、自分がして欲しいことをさせてはならないということを言っている。

 

[訳注]

 「道徳的主体」を単に「手段」として扱ってはいけないということは、「道徳的主体」が持つ技術や能力を決して利用してはならないということではない。このことは、強制や欺瞞などにより、自分の利益のため「道徳的主体」に自分の意志を押し付けてはならないことを意味する。

 

To treat moral agents in this way is to treat them as if they had no value or, alternatively, as if they were things.

 

[訳]  

 道徳的主体をこのように扱うことは、彼らにそれ自体価値がないかのように、あるいは彼らを物件であるかのように扱うことである。

 

[訳注] 

 「道徳的主体」を「手段」として扱うことは、彼らを「物件」であるかのように扱うことを意味する。

 

As Kant remarks, “beings whose existence depends, not on our will, but on nature, have nonetheless, if they are non-rational only a relative value and are consequently called things “. Moral agents are not nonrational, do not have “only a relative value, “and are not things. Moral agents (rational beings) are ends in themselves.

 

[訳]

 カントが指摘しているように、「われわれの意志ではなく自然に依存している存在者は、それにもかかわらず、非合理的であるならば、相対的価値か持たず結果的に物件と呼ばれる」。道徳的主体は非理性的でもなく、「単に相対的な価値だけ」を持つわけでもなく、物件でもない。道徳的主体(理性的存在者)は目的それ自体である。

 

[訳注]

 カントによれば、「道徳的主体」は単に「相対的価値を持つわけでもなく「物件」でもない。「理性的存在者」としての「道徳的主体」は、「目的それ自体」である。【続く】

 

(注1)動物に対する「間接義務」に関して、以下の文献を参考。

浅野幸治,2018:動物の権利ー間接義務再考ー、『フィロソフィア・イワテ (49)』所収、岩手哲学会 編、岩手哲学会、2018年.

 

トム・レーガンに関して以下の文献も参照.

 

カントの基本的立場に関して以下の文献を参照.

 

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【第7回】道徳教育での「主体的・対話的で深い学び」についての一考察-カント道徳教育を中心に-|終わりに【教育倫理学】

5.終わりに

  以上、平成30年度告示『高等学校学習指導要領』とカント道徳教育から、「主体的・対話的で深い学び」について検討してきた。

 

 インターネットによって、新時代の到来が社会や生活を大きく変えていく。その中で、教育活動全体を通じて「人間としての在り方生き方」に関する道徳教育の充実を図ることを、高等学校は目標に置く。近い将来に備えるため、「主体的・対話的で深い学び」による授業実践が必要である。

 

 一方で、自立した社会の一員となり自分自身の内的価値を持てる存在者となるような指針を18世紀、既にカントが示した功績は注目に値する。

 

 カントという人物のフィルターを通して、平成30年度告示『高等学校学習指導要領』での目玉である「主体的・対話的で深い学び」を検討した結果、現代の道徳教育への新たな視点が得られた。今後、カントの道徳教育に基づいた授業実践を行い検証していきたい。

 

 「トロッコ問題」や「ハインツのジレンマ」などの「モラル・ジレンマ」の授業を通して、カントの道徳教育の方法論が授業実践の中でどこまで通用するのか検証を進める。

 

 大きな変化の中で、子どもたちが活躍できる社会を目指して、理論と実践の両方を重視した研究を継続していきたい。

 

参考文献

 Kant.I,1784:Beantwortung der Frage:Was ist Aufklärung?

(邦題:啓蒙とは何か、『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』所収、中山元訳、光文社古典新訳文庫、2006年.)

―――a,1797:Kritik der praktischen Vernunft

(邦題:訳注・カント『実践理性批判』、宇都宮芳明著、以文社、1990年.)

―――b,1797:Metaphysik der Sitten

(邦題:人倫の形而上学、『カント全集第11巻』所収、吉澤・尾田訳、理想社、1969年.)

―――,1803:Immanuel Kant über Pädagogik.Herausgegeben von D.Friedrich Theodor Rink(邦題:教育学、『人間学・教育学-西洋の教育思想5-』所収、三井善止訳、玉川大学出版部、1986年.)

Mayerof.M,1971:On Caring(邦題:ケアの本質-生きることの意味 田村・向野訳 ゆみる出版 2003年.) 

田中 朋弘,1998:道徳の形而上学的基礎づけと道徳的判断、『琉球大学法文学部人間科学科学科紀要 人間科学 第2号』所収、琉球大学、1998年.

須長 一幸,2004:モラル・ジレンマ とケアの倫理、『生命倫理 2004年14巻1号』所収、日本生命倫理学会、2004年.

安井 絢子,2010:「ケア」とは何か -メイヤロフ、ギリガン、ノディングスにとっての「ケア」-、『哲学論叢(2010)37(別冊)』所収、京都大学哲学論叢刊行会、2010年.

中央教育審議会,2014: 初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について(諮問)、文部科学省、2014年.

西川 純,2015:すぐわかる! できる! アクティブ・ラーニング、学陽書房、2015年.

徳永 正直,2016:道徳教育の新たな可能性 -「市民性教育」(citizenship education)との関係を考える-、『大阪樟蔭女子大学研究紀要第 6 巻』所収、大阪樟蔭女子大学、2016年.

池谷 壽夫,2017:脆弱性,ケアと道徳教育、『了德寺大学研究紀要 第11号』 所収、了德寺大学、2017年.北村 良子,2017:論理的思考力を鍛える33の思考実験、彩図社、2017年.

河村 茂雄,2017:アクティブ・ラ-ニングのゼロ段階:-学級集団に応じた学びの深め方、図書文化社、2017年.

文部科学省,2018:高等学校学習指導要領(平成30年告示)、東山書房、2018年.

――――a,2019:高等学校学習指導要領解説 公民編(平成30年告示)、東京書籍、2019年.

――――b,2019:高等学校学習指導要領解説 総則編(平成30年告示)、東洋館出版社、2019年.

嶋崎 太一,2019:「ソクラテス式問答」と道徳教育 :カントの教育方法学、『HABITUS 23巻』所収、西日本応用倫理学研究会、2019年.【終わり】

 

【第6回】道徳教育での「主体的・対話的で深い学び」についての一考察-カント道徳教育を中心に-|『啓蒙とは何か』での理性の公的な利用(その2)【教育倫理学】

6.『啓蒙とは何か』での理性の公的な利用(その2)

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【前回の続き】

 このカントの主張から平成30年度告示『高等学校学習指導要領』に記載されている「主体的・対話的で深い学びの実現」(文部科学省,2018,19)が、想起される。

 

【参考:『高等学校学習指導要領』(平成30年度告示)】

高等学校学習指導要領

高等学校学習指導要領

 

 

 平成 26年 11月 20 日の中央教育審議会への諮問「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について」で具体的な審議事項として、今後の「アクティブ・ラーニング」の在り方について考え方を示した。

 

【参考:初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について(諮問)】

www.mext.go.jp

 

 これを受けて、中央教育審議会で我が国の学校教育の様々な実践や各種の調査結果、学術的な研究成果などを踏まえ検討が行われた。

 

 生徒に必要な資質・能力を育むための学びの質に着目し授業改善の取組みを活性化していく視点として中央教育審議会は「主体的・対話的で深い学び」を位置付けた。「主体的な学び」、「対話的な学び」、「深い学び」の視点は各教科などで優れた授業改善などの取組に共通しかつ普遍的な要素である。

 

 このように、平成30年度告示『高等学校学習指導要領解説 総則編』で「主体的・対話的で深い学びの実現」についての経緯を示している。

 

【参考:『高等学校学習指導要領解説 総則編』(平成30年度告示)】

 

 ただし、平成30年度告示『高等学校学習指導要領』では、「アクティブ・ラーニング」という言葉は見られない。

 

 しかし、「アクティブ・ラーニング」の視点で「主体的・対話的で深い学び」を考えるのであれば、西川純の指摘がひとつの手がかりになるかもしれない。西川は、文部科学省が発表した「アクティブ・ラーニング」のポイントを次の2点に整理する。

 

 1つ目は教員による一方的な講義形式の教育とは異なり、学習者の能動的な学習への参加を取り入れていることである。例えば、教師が綿密に計画を立て、子どもが教師の思った通りに動くという問題解決学習やグループワークなどは「アクティブ・ラーニング」ではない。

 

 2つ目は、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成をしていることである。例えば、電流と電圧の関係を発見学習で学んでいるとき、子どもの倫理的成長を期待しない。これは一般的なことである。

 

 しかしそれでも、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成をしなければ「アクティブ・ラーニング」とはいえない。

 

【参考:すぐわかる! できる! アクティブ・ラーニング】

すぐわかる! できる! アクティブ・ラーニング

すぐわかる! できる! アクティブ・ラーニング

  • 作者:西川純
  • 発売日: 2015/08/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 また、河村茂雄は「アクティブ・ラーニング」を通して、能動的に状況や他者との関わる中で、新たな知識や技能・情報を獲得し自分の考えを再構成して深めていくことで、生徒が様々な資源・能力を身に付けていくことを示唆している。

 

【参考:アクティブ・ラ-ニングのゼロ段階:-学級集団に応じた学びの深め方】

 

  カントの「理性の公的な利用」と西川や河村の見解を比較すると、次のような結果が得られる。すなわち、それは自ら理性を使って互いに意見を述べ合いながら問題解決を図る態度の育成をカントが想定しているのであれば、「主体的・対話的で深い学び」という概念は学習者の能動的な学習への参加を意図しているし、生徒の様々な能力を活用しながら汎用的能力の育成を目指している、ということである。

 

 能動的な学習を通して、生徒が様々な能力を身に付けていくことが両者共通して考えられている。

 

 急激な少子高齢化が進む中で、成熟社会の進展や「知識基盤社会」という社会的背景から、「主体的・対話的で深い学び」の授業実践が求められている。

 

 以上の考察から、カントのいう「理性の公的な利用」という概念も、このような実践が意図されている。【続く】

 

【第5回】道徳教育での「主体的・対話的で深い学び」についての一考察-カント道徳教育を中心に-|『啓蒙とは何か』での理性の公的な利用(その1)【教育倫理学】

5.『啓蒙とは何か』での理性の公的な利用(その1)

 

 『啓蒙とは何か』冒頭で、カントは「啓蒙」について次のように述べる。

 

【参考:啓蒙とは何か】

 

  啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気も持てないからだ。だから人間はずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。(Ⅷ,35)

 

 カントは、「啓蒙」を「みずから招いた未成年の状態から抜け出ること」と定義する。未成年の状態は、「他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができない」ことを意味する。そして、未成年の状態から脱し、彼は「自分の理性を使う勇気」を持つことを主張する。学校現場でも、自分で考える前に教師の指示を待っている生徒は少なからずいる。

 

「他人の指示を仰がなければ」行動できない未成年状態は、あまりにも楽なので、自分で行動できる人は僅かであることをカントも認めている。それでは、「未成年の状態から抜け出ること」ができないことは確かである。

 

 平成30年度告示『高等学校学習指導要領』にもあるように、「人間としての在り方生き方を考え、主体的な判断の下に行動し、自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養う」ことは難しい。

 

【参考:『高等学校学習指導要領』(平成30年度告示)】

高等学校学習指導要領

高等学校学習指導要領

 

  

 この問題について考えるひとつの手がかりとして、カントの「理性の公的な利用」という考え方が有効である。カントは「理性の公的な利用」を「すべての公衆の前で、みずからの理性を行使する」(,37)と定義する。これは何を意味するのだろうか。

 

 「すべての公衆の前で」という部分から、自分の言葉で考えを述べ合いながら互いの考えを向上させる弁証法的議論であると解釈できる。みずからの理性を使って、互いに意見を述べ合いながら問題解決を図る態度の育成をカントも想定している。【続く】

 

【第4回】道徳教育での「主体的・対話的で深い学び」についての一考察-カント道徳教育を中心に-|『実践理性批判』での道徳的教育方法(その2)【教育倫理学】

4. 『実践理性批判』での道徳的教育方法(その2)

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

  

【続き】

 

 ただし、カントの道徳的教育方法は、ソクラテスの「問答法」を意識しているように思われる。『人倫の形而上学』によれば、教師は生徒の思想の産婆である。

 

 教師は、自分の生徒の中に宿る、ある種の概念への素質を育成することによって指導する。

 

 自分自身で考えることができると悟る生徒の反問によって、教師はいかに上手に質問しなければならないかを、学ぶ機会が与えられる。

 

【参考:嶋崎 太一,2019:「ソクラテス式問答」と道徳教育 :カントの教育方法学】

ir.lib.hiroshima-u.ac.jp

 

  『人倫の形而上学』第2部第2編「倫理学の方法論」の「注 道徳的問答教示法の断片」では、「問答法」を活用した生徒と教師の実例を示している箇所がある。この「断片」では、教師からの問いかけと生徒の応答で成り立っている。

 

 以下、第1段落から第3段落までを引用する。 

 

【参考:人倫の形而上学

 

1、教官。汝の人生における最大の、いやそれどころか全き要求は何か。

  生徒。(黙して答えず)

 教官。万事がつねに汝の望みのままになることである。

2、教官。このような状態は、なんとよばれるか。

  生徒。(黙して答えず)

  教官。それは幸福(不断のしあわせ、満ち足りた生活、自分の状態に全面的に満足しきっていること)とよばれる。

3、教官。では汝が(この世において可能であるかぎりの)あらゆる幸福を手中に納めているとしたら、汝はそれをすべて自分のために手放さずにおくか、あるいはまたそれを汝の隣人にも分け与えるか。

 生徒。私はそれを分け与え、他のひとびとをも幸福にし、満足もさせるでしょう。(Ⅵ,480) 

 

 教師と生徒のやりとりが、これ以降、第8段落まで続く。

 

 様々な質問を駆使し、答えに詰まると補いながら、未発達な子どもの心を道徳的善に向かわせる道筋を教師が示す。これが、カントの理想とする道徳的教育方法である。

 

  本稿冒頭でも述べたように、大きな社会変化の中で「主体的・対話的で深い学び」の授業実践は必要である。

 

参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

  

 その実践の中で、必要なことは教師対生徒のような「問答法」的な授業方法ではないだろう。

 

 むしろ、生徒対生徒のような双方向的な生徒同士で考えさせる授業を意識した方がいいと思われる。

 

 その点について、「ケア論」的な教育実践を採用する方が適切だろう。

 

【参考 : 池谷 壽夫,2017:脆弱性,ケアと道徳教育】

ryotokuji-u.repo.nii.ac.jp

  

  さて、『実践理性批判』と平成30年告示『高等学校学習指導要領解説 公民編』を比較すると、両者に共通点が見出される。

 

 それは、具体的事例に基づいて道徳的判断力を生徒間で善悪の評価を行うことを通して道徳的判断力を育成することを視野に入れていることである。

 

 徳永正直も指摘するように、近年道徳の授業は予め設定された道徳的価値の「教え込み」(inculcation)に終始している。

 

 その結果、子どもに「偽りの自己」としての「良い子」を演じさせる「隠れたカリキュラム」に道徳の授業は陥っている、と考えられる。

 

【参考:徳永 正直,2016:道徳教育の新たな可能性-「市民性教育」(citizenship education)との関係を考える-】

osaka-shoin.repo.nii.ac.jp

 

 「教え込み」など教師の高踏的で驕慢な要求によって、子どもに道徳的効果を与える授業を回避し、「モラル・ジレンマ」を活用した方法が効果的である、とカントも文部科学省も考えているのだろう。【続く】

 

↓この書籍も参考↓

【第3回】道徳教育での「主体的・対話的で深い学び」についての一考察-カント道徳教育を中心に- |『実践理性批判』での道徳的教育方法(その1)【教育倫理学】

3. 『実践理性批判』での道徳的教育方法(その1)

 

【参考:実践理性批判

実践理性批判 [カント三批判書]

実践理性批判 [カント三批判書]

 

 

 『実践理性批判』第2部「純粋実践理性批判の方法論」で、未発達な子どもの心を道徳的善に向かわせるため、純粋な道徳的動因が心にもたらされるようにすることをカントは主張する。具体的に言うと、「提出された実践的問題に極めて緻密な検討すら好んで加える」(Ⅴ,176)人間理性が備えている性癖を利用する。そうすれば、教え子がみずからの道徳的判定力を活発にし、行為の道徳的内実の大小に気付かせることが期待できる。

 

 また道徳教育の中で最も重要なことは、「善い振る舞いを純粋さの中で知りそれを賛成する」(Ⅴ,177)一方、「純粋さから少し外れたことは痛恨と軽蔑をもって見る反復練習」(ibid.)を行うことである。この箇所でカントが言いたいことは、次の2点である。

 

 1つ目は、具体的事例に基づいて、道徳的判断力を育成することである。道徳教育は場合によって、抽象的な授業に終始しがちである。例えば、「他人を大切にすること」について具体的な場面を設定し、その中で道徳について教師は生徒に伝えなければならない。

 

 2つ目は具体的事例について生徒間で善悪の評価を行うことである。道徳的に善い行為について賛成する一方、道徳的行為から外れた事例には、痛恨や軽蔑の気持ちを持たせる。

 

 ここで注意すべき点は、人間の感情に訴えることや教師の高踏的で驕慢な不当な要求によって、子どもに道徳的効果を与えてはならないことである。道徳法則に基づいた判断力を育成するため、教師は権威的であってはならない。

 

  さて、平成30年度告示『高等学校学習指導要領解説 公民編』では、「思考実験」の活用について取り上げる。例えば「キュゲスの指輪」や「濡れ衣の事例」など、ある特殊な状況を作り出すことによって、倫理的問題へのわれわれの直観的な道徳的判断を得ることが、思考実験の目的である。

 

【参考:高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 公民編】

 

 倫理的価値判断について、行為の結果である個人や社会全体の幸福を重視する考え方と、行為の動機となる公正などの義務を重視する考え方などを活用し、生徒間で共に納得できる解決方法を見出すことを教師はねらいとする。

 

 その方法として、「思考実験」など概念的枠組みを用いて考察する活動を通して「人間としての在り方生き方」を多面的・多角的に考察し表現する力を、教師は生徒に身に付けさせる。ここで考えられるのは、「トロッコ問題」や「ハインツのジレンマ」などの「モラル・ジレンマ」の授業である。

 

 「ある人を助けるために他人を犠牲にすることは許されるか」という問いや、「病気の妻を救うために盗みを働いてもよいのか」という具体的状況を設定し、倫理的課題を解決させる。

 

 もちろん、この問題に正解はない。お互いの価値観を共有し、生徒間で納得できる解決方法を見出すこと自体が、道徳的判断力を育成することに繋がる。【続く】

 

【参考:論理的思考力を鍛える33の思考実験】

論理的思考力を鍛える33の思考実験

論理的思考力を鍛える33の思考実験

  • 作者:北村 良子
  • 発売日: 2017/04/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

【第2回】道徳教育での「主体的・対話的で深い学び」についての一考察-カント道徳教育を中心に- |『教育学』での基本的考え方【教育倫理学】

2. 『教育学』での基本的考え方

【参考: 教育学】

 

 始めに、カントの教育論の基本的考え方について簡単に確認する。カントは『教育学』冒頭で次のように述べる。

 

 人間は教育されなければならない唯一の被造物である。教育とは、すなわち擁護(保育、扶養)と訓練(訓育)と教授ならびに陶冶を意味する。これに従って、人間は乳児であり-生徒であり-そして学生である。 (Ⅸ,441)

 

 ここで、「教育されなければならない唯一の被造物である」という人間観をカントは提示する。その中で「教育」の対象を乳児、生徒そして学生とする。そしてカントは教育を「養護」、「訓練」、「教授」そして「陶冶」に分類する。

 

 カントによれば、「養護」は子どもが自分の能力の危険な用い方をしないよう両親が予め配慮することである。「訓練」は、人間がその動物的衝動によって人間の使命である人間性から逸脱することのないように予防することである。

 

 例えば、人間が粗暴に無分別に危険に身をさらすことのないよう人間を拘束することである。

 

 これに対して、「教授」は教育の積極的な部分を意味する。「陶冶」は、消極的意味では単に過ちを防ぐ訓練である。他方、「陶冶」は積極的意味では教授と教導である。その限りで、「陶冶」は教化に属す。

 

 また別の箇所で、カントは「教育」を「自然的教育」(Ⅸ,455)と「道徳的教育」(ibid.)に分類する。「自然的教育」を「保育」とする一方、「道徳的教育」を人間が自由に行為する存在者として生活できるよう「陶冶する教育」(ibid.)と定義する。それは人格性への教育、すなわち自立し社会の一員となりしかも自分自身の内的価値を持てるよう自由に行為する存在者になるための教育である。

 

 平成30年度告示『高等学校学習指導要領』第1章総則の「第1款 高等学校教育の基本と教育課程の役割」の中で、文部科学省は道徳教育の目標を次のように規定する。

 

 道徳教育は、教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき、生徒が自己探求と自己実現に努め国家・社会の一員としての自覚に基 づき行為しうる発達の段階にあることを考慮し、人間としての在り方生き方 を考え、主体的な判断の下に行動し、自立した人間として他者と共によりよ く生きるための基盤となる道徳性を養うことを目標とすること。(文部科学省,2018,19)

 

 『高等学校学習指導要領』のこの箇所で「自己探求と自己実現に努め国家・社会の一員としての自覚に基づき」行為し、生徒が「人間としての在り方生き方を考え、主体的な判断の下に行動し、自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うこと」を平成30年度告示『高等学校学習指導要領』は教育目標に据えている。

 

 『教育学』でのカントの立場に立つと、「陶冶する教育」を乳児、生徒そして学生に行わなければならない。これは、「自己探求と自己実現」に努め「国家・社会の一員」であると同時に「自立した人間」を目標とする平成30年度告示『高等学校学習指導要領』と類似する。 

 

 以上のことから考えると、カントの道徳教育が平成30年度告示『高等学校学習指導要領』に反映されていることが分かる。【続く】